第22話:学園潜入と「門」の拒絶
王都の安宿。月明かりが床に落ちた埃を白く浮かび上がらせる、その一部屋。
私は、己の内側で確かな形を取り始めた「覚醒」の熱に、打ち震えていた。
(そうだ、これでいい。この調子だ)
もう、あの理不尽な狂信者の言いなりにはならない。
私は「YES」と答えながら、水面下で全力の「NO」を叩きつける。
それこそが、矛盾した要求を続ける上司を相手に、前世から数えて二十八年間、私が培ってきた唯一無二の生存戦略—「お仕事」スキルなのだから。
「…さて、バッタちゃん」
当のクソ上司は、テーブルに広げられた王都の古地図へ無感動な視線を落としながら、淡々と「業務」の続きを口にした。
「まずは『門』の正確な位置を特定します。王立の古文書館、あるいは学術院の禁書庫。そこに旧支配者に関する記述が残されているはず。今夜は下見を—」
「待って、マリエル!!」
—今だ。
私は、完璧なタイミングで(そして、心底からの切実さを装った表情で)彼女の言葉を遮った。
そして、あらぬ方向を凝視する。奇しくも、それは夜の闇にその輪郭を溶かす「王立貴族学園」の方角だった。
「…今、私の『神』が、囁いている……!」
「……」
「古文書館じゃない。学術院でもないわ」
独白は熱を帯びる。
「あの、王立貴族学園……あそこから、『門』が私を呼ぶ気配がする…!」
完璧だ。
我ながら、神託に身を焦がす女は完璧だった。
マリエルは、その美しい眉ひとつ動かさず、私をじっと観察している。
(さあ、食いつけ…!)
私の狙いは、もちろん「門」などではない。
『妨害』。純粋な業務遅延。
王立貴族学園。
勘当されたとはいえ、ついこの間まで私が通っていた(らしい)場所。王族や貴族の子息令嬢が蝟集する、王都で最も警備が厳重な聖域。
(あそこなら間違いなく衛兵だらけ!、それにマリエルが後回しにしてるなら、そこに門がある確率も低いはず)
(侵入して、わざと、華々しく見つかって、大騒ぎになって…!)
(そうすればマリエルも「予期せぬ不可抗力で計画が頓挫した」と判断し、この面倒極まりない『門』探しを諦めるか、少なくとも先送りにするしかない!)
これぞ社畜が編み出した危機管理術(=意図的な炎上によるプロジェクトの凍結)!
マリエルの張り詰めていた無表情が、ふ、と緩んだ。
彼女は一瞬、私の(常軌を逸したやる気に満ちた)奇行に首をかしげたが、すぐに深く納得したように、蠱惑的な微笑を浮かべる。
—昨夜の「ご褒美」が、私をここまで「従順」にさせたと、盛大に勘違いしたのだろう。
「……学園、ですか」
「非合理的ですが……『神託』というなら、確かめましょう。行きましょう、バッタちゃん」
(よっしゃ食いついたァ!!)
王立貴族学園の外壁は、文字通り「見上げる」という言葉が陳腐に聞こえるほどの絶壁だった。
優に10メートルはあろうかという磨かれた石壁が、月光を鈍く反射し、侵入者を拒絶している。
「さぁ」
マリエルは、それが当然の業務であるかのように、私の前で両手を差し出した。
—お姫様抱っこ(の催促)だ。
私は無言で、しかし(内心で深く深く舌打ちをしながら)恭しく彼女の体を横抱き(プリンセス・キャリー)にする。
(くそっ…! このサボタージュが成功したら、絶対この屈辱的な移動手段の改善要求も出してやる…!)
フッ、と仮面の下で短く息を吐き、私はバッタの脚力にすべてを任せて跳躍した。
重力などまるで存在しないかのように、私とマリエルの体は10メートルの壁を軽々と越え、分厚い芝生の上に音もなく着地する。
(さて、と)
マリエルを抱えたまま、私は冷徹に辺りを見回す。
(どこに衛兵がいるかな? 一番目立つ、あの中庭あたりを悠々と散歩しますか!)
(さあ来い秩序の番人! この不法侵入者を捕まえなさーい!)
私は意気揚々と、月明かりに照らされた豪奢な中庭へと、一歩、足を踏み出した。
—その瞬間。
(ぐ、ぁ……!?)
凄まじい「ノイズ」が、私の脳髄を物理的に殴打した。
村で聞いた微かな「囁き」が、何百、何千倍にも増幅された悪意の奔流となって、思考をかき乱す。
キィィィン、という高周波の耳鳴りと、理解を拒絶するような重低音。
(なんだこれ、うるさい! うるさい! うるさい!!)
(部長と課長とクライアントが、同時に受話器の向こうで矛盾した指示を絶叫してるみたいだ!)
(頭が割れる!!!)
あまりの苦痛に、私は反射的に、抱えていたマリエルを(かなり雑に)地面に落とした。
「きゃっ」
「がっ……! あ……!」
(マリエルを落としたことなど、今は、どうでもいい!)
私は仮面(あるいはその下の頭部)を両手で押さえ、立っていられず、その場に膝をついた。
「素晴らしい……! なんて素晴らしい…!」
私の地獄の苦しみとは対照的に、マリエルは(落とされたことは全く意に介さず)恍惚とした表情で、うずくまる私を見下ろしていた。
「間違いありません、バッタちゃん! 『門』が、貴女という『器』に激しく共鳴しています!」
「(ぜぇ、ぜぇ…)む、無理…! うるさすぎる…!」
「マリエル、今日は帰ろう! これ以上はマジで死ぬ…! 労災だこれ!!」
(サボタージュとか言ってる場合じゃない! 物理的に頭が、精神がヤバい!まさか本当にあたりを引いた?)
私の本気の懇願。
だが、マリエルは、その地獄にさらに一歩踏み込ませようと、冷ややかに微笑む。
彼女は私の頬を両手で掴み、ぐい、と顔を固定した。
「ダメです。これは『試練』」
「これを乗り越えれば、貴女はさらに神に近づける」
吐息がかかるほど近くで、彼女は囁く。
「…そして、私からの『ご褒美』も待っていますよ?」
(このクソ上司…! 労災認定してやる…!)
マリエルの脅迫(激励)と、脳内で荒れ狂う絶叫に耐えながら、私は(文字通り、這うように)もう一歩だけ、前へ進んだ。
—ピタリ。
まるでスイッチを切ったかのように。
全てのノイズと頭痛が、完全に、消え失せた。
「…………え?」
あまりの静寂に、逆に脳が混乱する。
だが。
頭痛が消えたのと引き換えに、今度は「バッタ」としての本能が、全身の(外骨格の)下で、けたたましく警鐘を鳴らし始めた。
(……空気が、変わった?)
(さっきまでの、思考を汚染する『不快感』じゃない。これは……)
私は、苦痛に歪んでいた表情から一転、冷徹な「怪人」の貌で立ち上がった。
マリエルを手で制し、中庭の奥、月明かりすら届かない回廊の深い闇を—
—睨みつける。
「…………隠れて。敵が来た」




