第21話:サボタージュ・スキルの目覚め
王都へと続く、薄暗く湿った獣道。
腐葉土と獣の匂いが混じり合う夜の森は、人の往来を拒絶するように、重く静まり返っていた。
(……精神的に、もう、限界だ)
腕の中のマリエルは、羽毛のように軽い。この世の苦悩など一切知らないかのように、狂信者は私の腕にすっぽりと収まっている。
そう、お姫様抱っこである。
バッタの改造人間にされた私は、超人的な脚力を得た代償として、このサイコパス・メイドの「乗り物」兼「護衛」と化していた。人間(だった頃)の何倍もの力で山道を踏破しているため、息一つ切れない。物理的な疲労は、皆無だ。
だが、私の精神は、このゼロ距離での密着によって確実に摩耗していた。彼女から微かに漂う石鹸の香りが、鼻腔をくすぐるたびに、理性が削り取られていく。
(私がやったのか? 私が、眠っている間に?)
(それとも、こいつが?)
脳裏に焼き付いて剥がれない、ゴルドーの惨状。
腕の中のこの女が殺したのかもしれない。あるいは、この私の身体(のバッタ機能)が、私の知らないうちに。
どちらにせよ、私は「殺人犯(かもしれない相手)」を、今、甲斐甲斐しく抱きかかえて運んでいるのだ。
これ以上の屈辱と、コズミックホラーがあるというのか。
「ふふんふ~ん♪」
私の葛藤を嘲笑うかのように、腕の中のマリエルはご機嫌にハミングさえしている。その振動が、胸当て(外骨格)越しに伝わってくる。
(こいつ、状況を理解しているのか…!)
(人が死んだ(かもしれない)んだぞ!? なのに優雅に鼻歌か!)
八方塞がりだ。
街に戻れば殺人犯(の仲間)として捕らえられる。この森でマリエルを振り捨てても、バッタ怪人の私が一人で生きていける道理がない。
(ああ……理不尽な上司と無茶振りだらけだったが、まだ人だった……社畜時代に戻りたい……)
ふと、ハミングが止む。マリエルが、私の仮面を下からじっと覗き込んできた。
「バッタちゃん、どうかなさいました? 随分と思案顔ですが」
その声色は、森の散歩でも楽しんでいるかのようだ。
「王都に着けば、すぐにお仕事が待っています。それまで体力を温存しませんと」
(お仕事…お仕事…ッ!)
(どの口がそれを言うんだ、どの口がァ!!)
その夜。
ようやく野営地を定め、私は(ようやく解放された腕で)乾いた枝を集め、焚火の準備をしていた。
マリエルは、火のそばにちょこんと座り込み、揺れる炎を無感動に見つめながら、(またしても)平然と今後の計画を語り始めた。
「王都には、あらかじめ手配した協力者(裏社会の人間)がいます。まずは彼らと合流し、学術院や古文書館から『門』の正確な位置を特定します。その後、妨害が予想される王家や衛兵を—」
パチ、と火の粉が爆ぜる音と同時だった。
プツン。
私の中で、何かが切れた。
それは、社畜時代に培った「理不尽への高い耐性」という名の、すり減った安全装置だった。
「……もう、やだ」
掠れた声だった。
「(焚火を見つめたまま)…今、何と?」
マリエルの声に、温度がない。
「(震えが声に混じる)だから、もう嫌だって言ってるの!」
枝を握りしめたまま、私は叫んだ。
「『門』とか『お仕事』とか、もう疲れた! 人も死んでるかもしれないのに!」
理屈ではなかった。感情の決壊だ。
私は、前世(佐藤葵)の、抑圧され続けた魂で叫んだ。
「大体、今朝の占いだと仕事運が最悪だったんだし!!」
「それに、なんかこう…『時代』が来てない! そういう感じがする!」
「『門』、今じゃない! 多分、来年くらい!」
マリエルの顔から、スウッと表情が抜け落ちる。
焚火の光が彼女の片面だけを照らし、いつも浮かべていた慈愛の笑み(狂信者のそれ)は、冷たく無機質な「管理者」の仮面へと変貌していた。
彼女は音もなく立ち上がり、ゆっくりと私に近づいてくる。
「………『ご褒美』が、足りませんでしたか?」
「え?」
私が後ずさるより早く、マリエルの手が伸びる。
抵抗する間もなく、顔に巻いていた布(あるいは仮面)が、今朝とは違う乱暴さでずらされた。
「貴女の魂は、正直ですのに」
唇が、侵された。
(!?!?!?!?!?)
脳が、現実の処理を拒否する。
(やめろ! 離せ! これはセクハラだ! 暴行だ! 業務外だァァァ!!)
必死でマリエルを突き飛ばそうと、全身に命令を送る。
……しかし、動かない。
どころか。
私(葵)の意志とは裏腹に、この身体(ロザリアの残留思念)が、この侵略的な接触を「待ち望んだ報酬」として認識してしまう。
脳が、焼けるように熱い。
(ロザリアの魂が、私の中で歓喜して囁く)
『あぁ……マリエル…マリエルの…』
ダメだ。ダメだ。やめろ。
やめろ、脳汁を出すなァァァ!!
今すぐ幸福ホルモンの分泌を止めろ、この裏切り者の身体がァ!!
やがてマリエルがゆっくりと唇を離す。
私は荒い息を繰り返し、腰が砕けたようにその場に座り込んだ。
マリエルは、私の恍惚(あるいは絶望)に歪んだ表情を検分するように見下ろし、満足げに微笑む。
「(私の唇の端を、親指でゆっくりとなぞりながら)私のために、『門』を探してくれますよね?」
「ね? バッタちゃん」
「(虚ろな目で)…………はい…………」
「はい」。
自分の口からこぼれた、その肯定の言葉。
その一言が、私(佐藤葵)の理性に、雷を落とした。
(……は? 今、私、何て言った? 『はい』?)
(この女に、こんな屈辱的なことをされて、私は『はい』って言ったのか!?)
次の瞬間、私はマリエルを(今度こそ本気で)突き飛ばした。
よろめくマリエルを無視し、私は近くにあった手頃な大木に向かう。
そして、
ゴシャッ!!
全力で、木に頭突きをかました。
「(頭突き、二発目)何が『はい』だこの裏切り者がァァァ!!」
「(三発目)幸せホルモンなんかに負けやがって! これが貴様への罰だ!」
ゴッ! ゴッ! と、頭(の外骨格)に響く鈍い衝撃と痛みの中。
前世の記憶が、鮮烈にフラッシュバックする。
……薄暗い会議室。鬼の形相の部長。
『佐藤くん、この無茶振り案件、今日中に。いいね?』
……疲労困憊の顔に、完璧な笑顔を貼り付けて深々と頭を下げる、過去の自分。
『はいっ! 喜んで! 全力でやらせていただきます!』
……(からの、半年かけた芸術的なまでのプロジェクト空中分解)……
覚醒。
「(……そうだ)」
私は、頭突きをやめた。
(こんな理不尽な案件(門解放)を、こんな理不尽な上司に、こんな理不尽な手法(百合セクハラ)で押し付けられた時…私は、どうした?)
(『YES』と答えながら、『やってるフリ』『問題が発生したフリ』『頑張ってるフリ』で、すべてを遅延させ、妨害し、崩壊させた……!)
私は、振り返った。
私の奇行(頭突き)に若干引いているマリエルに向かって、仮面の下で、完璧な「社畜スマイル(営業用)」を浮かべる。
「マリエル! ごめんなさい、私、疲れてたみたい!」
「え…? バッタちゃん…?」
私は、高らかに拳を握りしめた。
「やるわ! やってやろうじゃないの、その『門』探し! 貴女のご褒美のおかげで、すっかりやる気が出ちゃった!」
(思い知るがいい、このクソ上司…)
(佐藤 葵(28)の、本当の『お仕事』を、見せてやる!!)
(絶対にお前の思い通りにさせてたまるか!!!)




