第20話:招かれざる客と、招かれざる殺意
あの地獄めいた膝枕——私はそれを「業務命令」と呼んだが——から数時間が経過し、私(の精神)は、ここ数日で最も安定した呼吸を取り戻していた。
(ナイス判断、マリエル!)
声には出さない。決して。
だが、あのまま街道を進むのは(私のこの怪しすぎる仮面と装束のせいで)どう考えても無謀だった。
マリエルが、道中たまたま一緒になった大きな商隊に護衛兼荷物持ちとして紛れ込む、という提案をした時、私は仮面の下で密かに喝采を送ったのだ。
理由は単純だ。
馬車という「密室」——あの息の詰まる、彼女の領域から解放されたからである。
車輪のきしむ不協和音。馬のいななき。埃っぽい風の匂い。荷台を整える商人たちの、意味のない怒鳴り声。
そういった「他人の目」と「無関係な喧騒」が、マリエルのあのねっとりとした、皮膚の内側にまで染み込んでくるような百合的侵食に対する、完璧な「緩衝材」として機能していた。
(ああ……うるさいって、なんて素晴らしいんだろう! 雑音万歳!)
これだ。この「雑多」な感じだ。
これだけ人の目と音があれば、あの狂信者も迂闊に「ご褒美(という名のセクハラ)」を要求してこないだろう。
束の間とはいえ、人ごみという名の森に「紛れられる」という感覚。その他大勢の一人になれるという事実に、私は肺の底からの安らぎすら覚えていた。
……その脆い安らぎが、その夜、あっけなく打ち破られるとは知りもせずに。
宿場町の食堂は、一日の仕事を終えた商人たちの汗と酒と脂の匂い、そして剥き出しの欲望の熱気でむせ返っていた。
私たちは(私がこの目立つ仮面をつけているせいで)食堂の隅、影が最も濃く落ちる席で、存在を消すように夕食をとっていた。
その時だ。
「よう」
腐った酒の臭いをまとった息と共に、テーブルに影が落ちた。
見上げると、四十代ほどだろうか、脂ぎった中年男が、歯茎を剥き出しにするような下卑た笑いを浮かべて立っていた。この商隊のリーダー格である商人、確かゴルドーとかいう名前だったか。
「嬢ちゃんたち、こんな隅っこで寂しいだろ。おい、そこの仮面。お前、荷物持ちの護衛だったな?」
ゴルドーは、値踏みするようにジロリと私を一瞥すると、すぐに興味を失ったように視線をマリエルへ戻す。その粘つく視線が、彼女の輪郭をなぞる。
「どうだ、嬢ちゃん。そんな気味の悪い用心棒より、俺の部屋(馬車)の方がよっぽど快適だぜ? 金ならたんまりある。こっちに来いよ」
節くれだった汚い手が、マリエルの肩に伸びる。
(うわ、出た。典型的なパワハラセクハラおじさん……)
社畜時代に嗅いだ、懐かしくも忌まわしい上司の匂いが蘇り、眩暈がする。
(関わるな、私。目を合わせるな。石になれ。嵐が過ぎ去るのを待つんだ。マリエル、お前も頼むから適当にいなせよ? 下手に刺激す—)
私の思考とは裏腹に。
ゴルドーの手がマリエルに触れようとした、その刹那。
——ピクリ。
私の身体が、明確な殺意に反応した。
指先から急速に血の気が引き、代わりに、腹の底から何かがせり上がってくる。
(この豚が……マリエルに、汚らわしい手を……)
握りしめていた木製のカップが、ミシッ、と不吉な音を立てた。指が食い込み、硬い木が悲鳴を上げている。
(待て待て待て! 落ち着け私の身体! マリエル(サイコパス)は私の彼女じゃない!! 手を出すな! ここで騒ぎを起こしたらどれだけ面倒ごとが増えると思ってるんだ!!)
私が内面で必死の綱引きをしている、まさにその時。
マリエルが動いた。
彼女は、ゴルドーの手を避けもせず、逆に、その汚れた手を両手でそっと包み込んだ。まるで貴重な壊れ物でも扱うかのように。
「まぁ、ご親切に」
「お?」と、ゴルドーが戸惑いの声を上げる。
マリエルは顔を上げ、あの——村で私に向けたのと同じ、慈愛に満ちた、完璧な狂信者の笑みを浮かべた。その瞳には、目の前の男など映っていない。
「ですが、わたくし共はこれで十分すぎるほど満たされておりますの」
彼女はうっとりと目を細め、聖句でも詠唱するかのように続けた。
「貴方様の魂が、来るべき時に『神の祝福』を受けられますように。……『門』が開くその日まで、どうか健やかであられますよう」
「か、神…? 門…?」
異様な迫力と、まったく文脈の通じない単語の羅列に、さすがの欲望まみれのゴルドーも気圧されたようだった。
「…けっ。ワケの分かんねぇ女だ。…おい、酒持ってこい!」
彼は忌々しげに悪態をつくと、慌ただしく自分の席へ戻っていった。
(……あ、あぶな……)
私はカップを握りしめていた手の力を、そっと抜いた。指の跡がくっきりと残っている。
(ナイス狂信者トーク…。『門』とか言われたら普通の人は引くしかないわな…。助かった…のか?)
冷や汗が仮面の内側を伝う。私は、一刻も早くこの場から離れたい一心で、味のしないスープの残りをかき込んだ。
翌朝。
キャラバンが出発準備を始める喧騒の中、宿場町の中庭に、けたたましい悲鳴が響き渡った。
「「死体だ!! ゴルドーさんが殺されてる!!」」
心臓が、肋骨の裏で嫌な音を立てて跳ねた。
野次馬の人だかりをかき分けて中心へ向かうと、そこには、信じ難い光景が広がっていた。朝の冷たい光が、それを容赦なく照らし出している。
ゴルドーだった。
だが、それはもはや「人」とは呼べない状態だった。
首が、ありえない角度に折れ曲がり、空を向いている。
両手両足は、まるで濡れた雑巾でも絞り上げるかのように、ぐにゃぐにゃにねじり上げられていた。
その顔は、想像を絶する恐怖に引きつったまま硬直している。
(……うそだろ……)
悪寒が背骨に沿って走り抜ける。
私は、反射的に自分の手(長袖で隠れている)を見つめた。
(待って。昨夜、私は宿の部屋で……確かに眠った。マリエルと相部屋という苦行の後、疲労で泥のように……眠った、よな?)
記憶が曖昧だ。
昨夜、あの商人に向けた、一瞬の明確な「殺意」。あの、木製カップを握り潰しそうになった、この身体の衝動。
(まさか。まさか、私が……? 私が寝てる間に、この身体が、勝手に?)
自分の身体が、自分(葵)の知らないところで、人を惨殺したかもしれない。
その事実に、私は仮面の下で唇を噛んだ。血の味がした。
(いや、待て)
私は、最後の望みをかけて、隣に立つマリエルを見た。
(マリエル、お前も驚いてるよな? なぁ、『ひどい』って言ってくれよ! 狂信者でも、これにはドン引きしてるよな!?)
だが、マリエルは違った。
彼女は、その惨殺死体を(まるで道端に落ちた汚物でも見るように)冷ややかに一瞥すると、小さく、しかし明確な「苛立ち」と共に、ため息をついた。
「………余計な騒ぎを」
「——は?」
驚かない。悲しまない。
彼女は死体ではなく、騒ぎ始めた商人たちを見て、心底面倒くさそうに眉をひそめている。
「(私にだけ聞こえる声で)これでは衛兵が来ます。キャラバンは数日、足止めされるでしょうね。……計画が遅れます」
——計画が、遅れる?
その言葉が、死体の惨状よりも冷たい恐怖となって、私の背筋を凍らせた。
(……もしかして。コイツ(マリエル)がやったのか…?)
昨夜、私の殺意に気づいたマリエルが、「害虫駆除」と「私の機嫌取り」を兼ねて、先回りして殺した…?
どっちだ?
私が『無意識に』殺したのか?
それともコイツが『無感情に』殺したのか?
(どっちにしろ最悪だ!!!)
混乱する私の思考を遮るように、商隊の護衛が険しい顔でこちらに近づいてきた。
「おい、お前たち。確か昨夜、ゴルドーさんと揉めて……」
疑いの目が、私とマリエルに突き刺さる。
その瞬間、マリエルが即断した。
「行きますよ、バッタちゃん。ここから離れます」
「え、ちょ、でも! 疑われるだろ!」
「(冷たく)無駄な時間を過ごす気はありません。王都へは、獣道で向かいます」
マリエルは、呆然とする私の手を掴むと、人混みを抜けて宿の裏手へと走り出した。
束の間の「緩衝材」は消えた。
私は再び、殺人(あるいは殺人教唆)の疑いがある狂信者と二人きりで、出口の見えない密室へと、薄暗い獣道へと足を踏み入れることになった——。




