第19話:地獄への道程(と膝枕)
ゴトゴトと、馬車は単調なリズムを刻み続ける。
その揺れは、まるで揺り籠ではなく、緩慢な拷問具のように、私の意識の底を揺さぶった。
私は、この密閉された熱気の中で、己の境遇を呪っていた。
真夏だというのに、肌にまとわりつく長袖と長ズボン。汗が布地を重くし、皮膚呼吸すらままならない。
極めつけは、顔を覆う仮面——いや、これはもはや、通気性という概念を設計から除外したとしか思えない、分厚い覆面だ。
(暑い……。汗が仮面の内側を伝って、顎まで垂れてくる。蒸れて、息苦しくて、思考が鈍る……)
(というか、これ、逆に怪しすぎて衛兵の尋問待ったなしだろう!)
どれだけ内心で毒づいても、この滑稽で屈辱的な拘束具を私に命じた張本人——マリエルは、私の苦悶など意にも介さず、涼しい顔で窓の外を流れる景色に目をやっている。
質素だが、その仕立ての良さが一目でわかる旅装。その姿は、物静かで儚げな美少女そのものだ。
まさか、その清廉な皮一枚の下に、旧支配者を崇拝し、私をこの異形のバッタ怪人に改造した狂信者の魂が宿っているなど、誰が想像できるだろう。
(密室だ。この、理性の通じない狂信者と二人きり。逃げ場のない、動く密室……!)
村での悍ましい生贄の儀式。正気を失った同胞たちとの、血と臓物をぶちまける死闘。
そして……記憶の欠落した、あの夜。
思い出すだけで、精神の表面がバリバリと音を立てて剥がれ落ちていく。
(ああ……社畜時代に戻りたい。いや、戻りたくはない、断じて。だが、部長の理不尽極まる叱責と、コズミックホラーな狂信者との密室移動、どちらがマシか……)
(……部長か? いや、しかし……ああ、どっちも地獄だ!)
思考が絶望的な袋小路に入り込んだ、その時。
馬車がひときわ大きく石畳の段差に乗り上げ、車輪がガタン、と甲高い音を立てた。
「きゃっ」
声には、ならなかった。予期せぬ衝撃に、私の身体がぐらりと傾ぐ。
その瞬間、隣から小さな、抑えた声がした。
「おっと」
マリエルが私を見ていた。
その透き通るような青い瞳。そこに浮かぶのは慈愛だろうか。あるいは、飼っている哀れな虫けらを見つめるような、冷たい優越感か。
「お疲れでしょう、バッタちゃん。慣れない旅に、そのお姿では、さぞお辛いでしょうね」
(うるさい! 誰のせいで、こんな酸欠状態になりながら、視界の悪い仮面で揺られてると思ってるんだ!)
私が心の内で叫び終えるより早く、マリエルの手が静かに伸びてきた。
「え?」
ごく自然に。まるで、そこに置かれている埃を払うかのように、何の躊躇もない動作で、彼女は私(の仮面)の頭を掴んだ。
(は? ちょ、何をす——)
私の精神(佐藤 葵)が、警報を鳴らし、全身の筋肉に全力の抵抗を命じる。
だが、私の身体は、その手の圧力を、主人の許しと、あるいは愛撫とでも認識したらしい。
すん、と。
全ての抵抗が霧散し、私の頭は、マリエルの太ももに、コテン、と力なく預けられてしまった。
……膝枕。
(ひ、ひざまくらァ!?)
脳内で、佐藤 葵(享年二十八・社畜)の理性が、甲高い悲鳴を上げた。
(セクハラだ! パワハラだ! 傷害だ、これは明確な精神的傷害(SAN値的な意味で)!! やめろ、起き上がれ、今すぐ起き上がるんだ、私の身体!)
しかし、身体は主人の意思に反して、まるで金縛りにあったかのように動かない。
それどころか、この身体に染みついた元凶(ロザリアの残留思念)が、『これはご褒美だ』とでもいうように、脳内にじわりと甘い快楽物質を垂れ流し始める始末。
そんな私の内部葛藤を知る由もない(あるいは、全てを知っていて楽しんでいる)マリエルは、あろうことか、私の仮面の上から、ゆっくりと髪を梳くように、その指を滑らせた。
「ふふ。本当に、貴女は私に甘えるのがお好きですね」
「ですが、今は『ご褒美』の時間ではありませんよ? 静かにしていなさい」
(ちがーーーーう!! 断じて違う!! 誰が好きで甘えるか! 撫でるな! その手で私(の仮面)を、その、飼い犬を愛でるみたいに撫でるなァァァ!!)
無情にも、膝から伝わるのは、上質な布地越しの柔らかな感触と、確かな体温。
マリエルの動きに合わせて、微かに漂う、清潔な石鹸の香り。
(くそっ、これが俗にいう『いい匂い』か…! 負けるな私! これは罠だ! 思考を汚染する侵食だ!)
そうだ、これは業務だ。これは理不尽なノルマの押し付けだ。これは部長の、あのクソみたいに長い朝礼だ。
無になれ。心を無にするんだ。
般若心経、般若心経……『ぶっしつしきそくぜくう くうそくぜしき』……!
佐藤 葵の必死の精神防衛をあざ笑うかのように、身体は、強張っていた筋肉をじわじわと弛緩させていく。
(ロザリアの魂の残滓が、うっとりと囁く。『あぁ…マリエルの匂い…落ち着く…』)
馬車の単調な振動と、膝から伝わる温もりが、旅の疲労と極度の緊張を無理やり解きほぐし、本気でまぶたが重くなってくる。
(あああああ! 寝るな! 寝るんじゃない!! こいつの膝の上で安らぎを覚えてしまったら、私の中の何かが、人として(というか、佐藤 葵として)何かが決定的に終わる!!!)
もはや抵抗とも呼べぬ微弱な痙攣を繰り返す私(の精神)をよそに、身体はすっかりマリエルの膝に、その「あるべき場所」を見つけたかのように収まっていた。
その「忠実な」姿に、マリエルは心底満足げに微笑む気配がした。
「ええ、いい子です、バッタちゃん」
「王都に着いたら、すぐに『門』を探すという、大切なお仕事が待っています。それまで、ゆっくりお休みください」
——お仕事。
その単語に、私の社畜の魂が、ビクンッ!と凍りついた。
(……おしごと……)
聞き慣れたその響きが、今は死刑執行人の宣告よりも重く、絶望的に響き渡る。
(王都でも…仕事…。しかも『門を探す』とかいう、どう考えても国際テロ案件……。この女、本気だ。本気で王都を滅ぼす気だ…!)
マリエルの膝の上。仮面の下で、私は(ロザリアの身体が感じる倒錯的な安らぎとは真逆に)精神的な疲労と、底なしの絶望の底へと沈んでいく。
(誰か…誰かこの状況(膝枕)をどうにかして……)
(部長…部長の理不尽な休日出勤のほうが、まだマシだったかもしれない……いや、それはないか…いや、でも……)
思考だけが、熱気と石鹸の香りの中で虚しく堂々巡りする。
地獄への道程は、まだ始まったばかりだった。




