第18話:侵食の始まり
「――――――ッ!!!!」
私は、声にならない叫びを上げ、ベッドから文字通り「跳ね起きた」。
勢いよくマリエルを突き飛ばし、ベッドの反対側、壁際まで転がるように逃げる。
ガタン! とナイトテーブルにぶつかり、水差しが床に落ちて割れた。
心臓が、警告音のようにうるさく鳴り響いている。
(な、な、な、な、な!?)
背中が冷たい壁にぶつかる。
だが、それ以上に、さっきまでマリエルに触れていた背中が、熱い。
「……ん……」
その物音で、銀髪の美少女がゆっくりと目を覚ます。
マリエルは、長いまつ毛を数回瞬かせ、寝ぼけ眼で私を見た。
そして、
「……おはようございます、ロザリア様。昨夜は、よくお休みになられましたか?」
こともなげに、ふわりと微笑んだ。
まるで、昨夜の森での惨劇も、私の必死の逃亡も、すべてが些細な出来事だったとでも言うように。
「な……っ、なんで……!」
私が、ここ(・・)にいるのよ!
そう叫ぼうとした私の言葉を、マリエルの言葉が遮った。
「ああ、お早いお目覚めですね。ですが、あまり無駄な体力は使わないでくださいまし。……昨夜は、その……『前払い』をしましたし」
「……まえ、ばらい……?」
意味が分からない。
何を言っているんだ、このサイコパスは。
「ええ。ですが、ロザリア様は少し……その、お疲れのようでしたので。途中で眠ってしまわれました」
マリエルはくすくすと、愛らしく笑う。
「(――眠った?)」
その言葉が、引き金になった。
記憶がない。
あの森で意識を失ってから、このベッドで目覚めるまでの記憶が、一切、ない。
だが。
記憶はないのに。
(……体に、残ってる)
背中から腰にかけての、妙な熱っぽさ。
全身を包む、微かな倦怠感。
そして、無意識にマリエルの匂いを「安心する」と感じてしまった、この鼻。
私の理性が「ありえない」と叫んでいるのに、私の身体が「あれは現実だった」と、静かに主張している。
ゾワッ、と。
全身の肌が粟立ち、背筋が凍りつく。
旧支配者の囁きなんぞ、比較にならないほどの、生々しい恐怖。
私が戦慄している間に、マリエルはベッドから降り、手際よくメイド服に着替え始めた。
「さあ、ロザリア様。働いていただきますよ、私の『バッタちゃん』」
「……は、働く……?」
「ええ」
マリエルは私に振り向き、その美しい顔に、無垢で、狂信的で、最高に歪んだ笑顔を浮かべた。
「王都に戻ります。そして、『門』を開きませんと」
「……門?」
「はい。旧支配者様が、この地に戻られるための『門』です。その場所は、王都の地下深くに……」
(冗談じゃない!)
王都?
門?
旧支配者の解放?
「誰があんたなんかの言うこと、聞くもんですか!!」
私は、最後の理性を振り絞り、マリエルに殴りかかろうとした。
この狂った計画を、こいつごと、ここで終わらせる!
――ピタ。
私の手は、マリエルの顔の数センチ手前で、またしても、止まった。
金縛り(・・・・・)にあったかのように。
「(……ああ、そうか)」
ダメだ。
私の意思(佐藤葵)が「殺せ」と命じても、この身体が「愛してる」から、手を上げられない。
「(じゃあ、逃げる!)」
私は踵を返す。
ドアに向かって、全力で走ろうとする。
だが、足が動かない。
いや、動く。
動くけれど、理解してしまった。
(……無駄だ)
逃げても、どうせ、夜になって眠ってしまったら。
私は、また、この女の腕の中に戻ってくる。
(詰んでる……)
コズミックホラーだ。
旧支配者という、抗いがたい理不尽に囚われる恐怖の物語。
(――違う!)
私は、わなわなと震える。
旧支配者の囁き(BGM)より。
理不尽な怪人より。
私を虫けら(バッタ)に変えた儀式より。
私の意思を無視して、この女を愛し、この女の元へ強制的に帰還し、記憶のないまま「前払い(・・)」までされてしまう、この身体!!
(コズミックホラーの皮を被った、逃げ場のない『百合ホラー』じゃない!!)
顔を上げると、マリエルが、逃げられない私を見て、心底嬉しそうに微笑んでいた。
「さあ、行きましょう、ロザリア様。私と、神のための、新しい世界を創りに」
(ああ……部長……)
私の頭に、なぜか前世の理不尽上司の顔が浮かんだ。
(……部長のデスマーチのほうが、まだ……人道的だった……!)
こうして、元社畜OL(28)・ロザリア(18)の、理不尽(百合)に侵食される恐怖のセカンドライフが、強制的に幕を開けたのだった。




