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第17話:逃亡と帰還



突き飛ばされたマリエルの身体が、糸が切れた人形のように、受け身も取らず地面に打ち付けられる。

 その狂気に満ちた瞳が、一瞬だけ純粋な「驚き」で見開かれるのを、私は視界の端で確かに捉えた。


――逃げろ。


理性が、本能が、そして染みついた前世の社畜根性が、警報を鳴らす。

 あのメイドから離れろ、と。


もはや自分のものとは思えぬ「脚」に、今度は「逃走」という明確な意思を叩き込む。


(跳べ!)


ドンッ、と地響きに近い音がした。


地面が浅いクレーターのように陥没し、私の身体は夜の闇へと文字通り「弾丸」として射出される。

 頬を掠める枝葉の痛みなど、今はどうでもいい。


着地。衝撃を殺す間もなく、即、跳躍。

 着地。即、跳躍。


まるで何かに追われる殿様バッタだ。


(我ながら、なんと無様で、滑稽な逃走だろう!)


どれほどの距離を、どれほどの時間、跳び続けたのか。

 背後から、マリエルの追ってくる気配はない。


あの異形の怪人たちも、頭の芯を揺さぶる旧支配者(仮)の不快な囁きも、遠くのノイズのように薄れている。


私はようやく、苔むした巨大な木の根元に、崩れるように倒れ込んだ。


「はぁ……っ、はぁ……っ、ふ……っ」


肺が酸素を求め、痙攣するように荒い息を繰り返す。

 冷たい夜気が、火照った喉を焼いた。


(……なんなのよ、もう)


冷静になれ、私。佐藤葵。状況を整理するのよ。

 怪人たちは怖かった。儀式も、虫への改造も、控えめに言って最悪だ。旧支配者の囁きも、普通に精神を汚染してくる。


(でも、それ、全部「外側」の脅威だ)


前世あちらだって、理不尽は日常だった。上司の叱責、クライアントの無茶振り、鳴り止まない内線。


(耐えられた。全部、耐えてきたじゃない)


だが、さっきのは違う。

 マリエルの細い首を絞めていた手が、私の意思に反して、彼女の頬を――慈しむように、撫でた。


「(……っ!)」


思い出しただけで、腕の皮膚が粟立つ。


あれは、純粋な恐怖だ。

 私の知らない、私の内側にある、何か。


(あの身体ロザリアは、マリエルを「愛してる」んだ……!)


あの狂気に満ちたサイコパスメイドを、殺すどころか、本気で。

 私の「殺意」という理性さとうあおいを、元の身体ロザリアの「愛情」という本能だれかが、いとも容易くねじ伏せた。


(これって……)


そう。これこそ、コズミックホラーだ。

 理解不能で抗いがたい、巨大な存在によって、人間の尊厳(SAN値)が内側から削られていく、あの恐怖。


(……いや、待って)


私は、月明かりに緑色に光る、変わり果てた自分の手を見つめる。


(削られてるのが、SAN値じゃなくて「理性」で)

(抗いがたい力が、旧支配者(神)じゃなくて「元の令嬢のガチ恋(百合)」なだけで)


構造は、まったく同じじゃないか。


(コズミックホラー……いいや、違う!)

(これは……『百合ホラー』だわ!!)


神々の狂気に精神を侵食される恐怖と、元の身体の恋愛感情レズに肉体を乗っ取られる恐怖。

 どっちがマシか?


(後者のほうが、よっぽど生々しくて嫌ァァァァ!!!)


少なくとも、前世(彼氏いない歴=年齢)の佐藤葵にとっては、未知の恐怖すぎる!


「(もう……いや……)」


逃げなきゃ。絶対に。あの村から、あのマリエルから。

 夜が明けたら、すぐにでも……。


だが、極度の緊張と、人生(二度目)で最大のパニック、そして怪人たちとの戦闘(というより一方的な蹂躙)による疲労は、私の意識の限界を超えていた。


(……ちょっと、だけ……)


この木の根元で、少しだけ……。

 社畜時代に培った「どこでも数分で意識を飛ばせる」スキルが、最悪の形で発動する。


私の意識は、抗う間もなく、暗く冷たい森の底へと沈んでいった。


……暖かい。

 次に目覚めた時、私が最初に感じたのは、状況に不釣り合いなほどの、確かな「暖かさ」だった。


(……あれ?)


森で寝たはずだ。冷たい土の感触と、湿った腐葉土の匂いしかなかったはず。

 なのに、背中は驚くほど柔らかく、全身が上質な毛布に包まれている。


そして――


(……いい匂いがする)


清潔な石鹸と、陽だまりのような、どこか甘い香り。

 前世では嗅いだことのない、しかし、なぜか心の底から「安心する」香り。


まだ靄のかかった頭で、私はゆっくりと目を開けた。

 視界に映ったのは、知らない天井。


太い木のはりが通った、簡素だが手入れの行き届いた山小屋の天井だ。


(……森、じゃない)


私はベッド(・・)に寝かされていた。

 そこでようやく、その「暖かさ」と「匂い」の正体に気づく。


私、は。

 誰かに、背後から、抱きしめられていた。


ギギギ……と、錆びついたブリキの人形のように、首だけを動かす。


私の背中に回された腕。

 私の腰に、当たり前のように置かれた、白く細い手。

 そして、私のうなじに触れる、規則正しい、熱い吐息。


(――まさか)


恐怖に凍りつく視線を、ゆっくりと、背後うしろに向ける。

 そこには。


すぅ、すぅ、と。

 この世の何よりも無垢な、天使のような寝息を立てる、銀髪の美少女。


「……!」


マリエルが、私の背中にぴったりと身を寄せ、私を抱き枕のように抱きしめながら、心の底から幸せそうに眠っていた。


(――――――ッ!?)


声にならない絶叫が、喉の奥で詰まる。


(いつの間に!? なんで!? 私、森で寝たはずじゃ!?)


記憶がない。

 ここに戻ってきた記憶が、一切、ない。


(逃げたのに! 逃げたはずなのに!)


そうだ。これはホラーだ。

 逃げても、逃げても、どれだけ遠くへ行っても、目を覚ませばいつの間にか、そこ(・・)に戻ってきている。


「(……あ、あ……)」


私の身体は、恐怖で金縛りにあったように、一ミリも動かなかった。

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