31 下水道の乙女⑥
びたんびたんと音を立てて振り回されるその尻尾は、まとわりつく虫をはたき落とそうとするみたいにわたしを狙って暴れまわった。
極太のムチのようにしなる尻尾が体をかすめるたび、鳥肌が立ち、血の気が引く。あれだけ昂っていた気持ちが萎えそうになる。
まじで無理。これは絶対無理。
さっきはなんでやれると思ったのか。頭に血が上ってフジに啖呵を切った自分を後悔する。ネズミの体にしがみつく手が震え、振り落とされないようにするのがやっとだ。なんとかその皮膚に拳を叩きつけても、ダメージを与えている感覚はまったく無かった。
もう一度、尻尾が目の前に迫る。
ダメ、今度こそ直撃する。
顔を打ち付けられそうになり、迫った尻尾を咄嗟に片手で払った。生々しい感触が手を伝い、まるで電気が走ったみたいに体の芯を硬直させる。ひええ、触っちゃった……。ごめん、ニアちゃん、フジ。わたしもう気絶しそう……。
ってあれ?
今の感触……。
「ミレイ危ない!」
フジの声に後ろを振り返ると低くなった天井が迫ってる。狭い通路に入ったんだ。このまましがみついていたら天井に叩きつけられて間違いなく即死だ。
飛び降りるしかない。
わたしはすかさず掴んでいた手を離す。通路脇の水路に放り出され、汚れた水に頭から飛び込んだ。もがいてもがいて水面からなんとか顔をあげた次の瞬間、衝撃とともにすごい音を立てて壁が、通路が、下水道全体が揺れた。
それはネズミが壁に激突した衝撃だった。パラパラと頭の上から瓦礫の粉塵が落ちてくる。汚水と土煙にまみれながらわたしは水から這い出る。もう散々。
見ればネズミは狭くなった通路に引っ掛かり、それでも猪突猛進でなんとか前に進もうと巨体を揺らしてもがいていた。ネズミの向こう側に声をかける。
「フジ!生きてる!?」
「何とか! でもここ行き止まりだ! まずいかも!」
ネズミ越しに聞こえたフジの声は切迫していた。引っ掛かった天井を無理矢理に削りながら、それでも少しずつネズミは前に進んでいる。それほど時間はない。
わたしはネズミの姿を薄目で眺めながら、さっき手で払った尻尾の感触を思い出していた。体を攻撃したときとは明らかに違う感覚。それは僅かではあるが、確かにダメージを与えた手応えだった。
観察しなきゃ。
ネズミの体はよく見れば所々が朽ち果てている。肉が削げ、骨と内臓が見え隠れしていた。元気に暴れ回っているのが不思議なくらいだ。
目の前にあるネズミのお尻。その中央で暴れまわる巨大な尻尾。その動きを見ているだけで目が回って気絶しそうになる。動きが速すぎてわからないけど、よく見るとこれってもしかして……。
睨み付けるようにじっと見る。
空気を裂く尻尾の動きは素早い。が、勢い余って壁に叩き付けられた一瞬、その動きが緩まり不気味な全体を露にした。
それは尻尾にしては妙に大きい。ネズミの朽ちた体とは対照的に、丸々と肥えて太っているようにパンパンに膨らんでいた。
いくつもの節が浮かんだ艶やかな色の表面。
これ尻尾じゃない……?
間違いない。その根元は生えてる、というより体の中に潜り込んでるように見える。気持ち悪いことにはまったく変わらないけど、これが尻尾じゃないなら答えは一つだ。
やるしかない。
勢いよく一歩踏み出す。
水を含んだブーツの底が変な音を立てた。
深呼吸してその時を待つ。
チャンスは一瞬。
逃さない。
もしわたしの予想が正しいならダメージが通らない理由も納得がいく。おあつらえ向きにこいつは今ニアちゃんとフジしか見えていない。大きなお尻は丸出しだ。
空を切って振り回されるその尻尾のような物体。もう一度その動きが鈍った時に賭ける。
天井がガリガリと削れ、崩れる音がした。
ネズミがさらに数歩前進する。
「ミレイ! もうだめかも!」
ネズミの向こうからフジが叫ぶ声が聞こえた。
情けない声出さないで。
こっちは集中してるんだから。
目を閉じて深く息を吸う。
イメージしろ。出来る自分をイメージしろ。呼吸。何事もまず呼吸。
多分、目の前で振り回されるこれは尻尾なんかじゃない。ミミズみたいに太ったその物体は、そもそも、ミミズみたいなんじゃなくて
――ミミズそのものだ。
死体に寄生する巨大ミミズ。それがこの魔物の正体。ゾンビみたいなもの。ダメージが通らないのも納得がいく。
この寄生ミミズを引き抜くしかない。
天井の石が崩れ、足元に落ちて弾け飛ぶ。その破片が体をかすって僅かなダメージが走る
目の前にいるのは作り物のネズミだ。本物じゃない。この痛みも。濡れた体の気持ち悪さも。わかってる。でも、だからって、割り切れるほど覚めてる訳じゃないから困る。
尻尾が鼻先をかすめ、さざ波のように背筋に鳥肌がたった。
ネズミは怖い。でもそれだってわたしの記憶が作りだした物。みんな作り物ばっかりだ。すべてが許容される嘘の世界。大人が子供になって、精一杯遊んでるだけ。怖くない。嘘の世界では生きるとか、死ぬとか、そんなことは関係ない。さっきの赤目たちだって今頃どこかで生き返ってきっとここに向かってる。わたしたちは生き返って、死んで、また生き返ってを繰り返す。あの日のネズミも。死んで……生き返って……死んで……生き返って……死んで……生き返ってを繰り返す。
わたしたちは嘘だらけだ。
でも――
「ミレイ!」
もう一度フジの声が聞こえた瞬間、無心で素早く手を伸ばし高速で動き回るその物体を確かに掴んだ。柔らかな、生々しい感触。あの日、棒で突付いたネズミの感触が脳裏をよぎった。あいつは生きてた。わたしも生きてる。嘘とかホントとかじゃない。この悪寒も、さっきの赤目たちに感じた怖さも、何にも、わたしは負けたくない。
手から逃げようともがくそれを両手でしっかり握りしめた。
そして渾身の力を込めて、
一気に引き抜く!
「どっせえええええええええい!!」
ミチミチと音を立て、確かにそれがネズミの体内から引き抜かれていく感触があった。
肩に担ぐようにして全体重をかける。ブチブチと様々な器官が引き千切られていく音とともに、想像していたよりもずっと長い本体が出てくる。手に伝わるその生々しい感触だけで悪寒が走った。もう無理。キモすぎ。
それでもわたしは離さない。
目の前が真っ暗になり気絶してしまうんじゃないかと思ったその時、ヌルンと音を立ててそいつは抜けた。謎の液体を撒き散らしながら床に落ちる。
ミミズの化け物は、数秒苦しそうにビタビタと跳ね回ってから干からびるようにみるみる小さくなる。やがて、本物のミミズと同じ程のサイズに縮まったあと、息絶えたように動きを止めた。
操る者のいなくなったネズミの死体も動きを止め、その場に崩れ落ちる。わたしもついでに、その場に崩れ落ちる。
辺りに静寂が降りた。
終わった……。
「ミレイ? ミレイいる? おーい!」
フジの間の抜けた声を聞きながら、わたしはじっと、倒れた魔物の残骸を見ていた。
尻尾の無くなったその生き物は、あの日わたしが出会ったネズミとは違って二度と生き返ることはなかった。
ミレイパパ「パパな、最近ゲームを始めてな」
ミレイ「え、まじで?」
ミレイパパ「なかなか楽しくてハマっちゃってな」
ミレイ「いいねいいね」
ミレイパパ「それでな、この間イベントの時に始めてPKってものに手を染めてみたんだよ」
ミレイ「え!?」
ミレイパパ「いやあ、あれは年甲斐もなくドキドキしたなあ。あんなにドキドキしたのはママにプロポーズした時以来だよ」
ミレイ「そ、それで……どうなったの?」
ミレイパパ「いやあ、結局脳筋のエルフに邪魔されてなあ。そういえばその娘もミレイ、って名前だったなあ」
ミレイ「……」
◇
ミレイ「っていう夢をみたの!」
フジ「へー……」




