夜明けの巨影
砦の一室に、薄い光が落ちていた。
石壁と粗削りの柱だけの、飾り気のない部屋だ。
若いダークオーガが入ってくると、獣人の上官が書類を一瞥して机の端に放り、低く言った。
「お前が、士官学校から来た小隊長か。優秀だったとは聞いている。
――だが、実務は違う。逃げ帰ったとて、せいぜい笑われるくらいのことよ。安心するがいい」
若き小隊長は、しばらく上官の顔を見ていた。
それからおもむろに口を開く。
「自分には――人を笑わせる才は、ありません」
上官が眉を上げた、その瞬間だった。
扉が叩きつけられるように開き、斥候兵が肩で息をしながら飛び込んできた。
「フォールム軍、国境を越えました! 数は――」
声が止まった。上官が「いくらだ」と絞り出すように問う。
斥候兵の唇が動いたが、言葉が出てこない。ようやく絞り出したのは、数ではなかった。
「……斥候の全員が、数えることを諦めました」
部屋に沈黙が落ちた。上官が地図へ視線を落とし、低く呟く。
「……十万か。あるいは、それ以上か」
◇
砦の中庭に、兵たちが集められた。上官――守将が、重い口を開く。
「敵が迫っている。砦に到達するは、日没のころと見ておけ。
我が砦の後方には橋がある。その向こうには街が、民間人がいる。橋を落とせば侵攻は止められるが――それでは通商が死ぬ。
民と共に、橋も守らねばならぬ!」
兵たちに緊張が走った。
「援軍は要請した。しかし到着は早くとも明後日の朝。
それまでの間、兵を3手に分ける。
砦を護る者、橋を護る者、民を逃がす者――」
3つの役割が示された。
もっとも危険なのは橋だ。通さず、壊さず、壊させず。
次いで砦。
民の避難誘導は生き残る確率こそ高いが、臆病者との誹りは免れない。
それでも命の方が大事だと、避難誘導を希望する者は多かった。
守将は彼らを責めなかった。
民を逃がすにも、相応の人手がいる。
それは確かな事だった。
とはいえ、どう分けたところで手は足りない。
そもそも3分割できるほどの兵力がない。
上層部がこの地の守りを軽視してきた、その報いだ。
フォールムの将が長年侵攻を控え、守備の手薄になる時機を測り続けた、その粘り勝ちでもあった。
守将は心中で敵将の狡猾さを認めながら、現実に目を向ける。
砦も街も、おそらく奪われる。
それでも、民を逃がすまでの時間は稼がねばならない。
そのために、死ねと命じる者を選ばねばならなかった。
「守将殿」
兵の中から声が上がった。
赴任したばかりの、若いダークオーガだ。
「自分は、身の丈には多少の自信がございます。
橋を塞ぐくらいのことは、してみせましょう。古参の方々には、砦をお任せ願いたい」
守将が、その目を見た。
逸る色はない。怯えもない。ただ、覚悟を決めた目をしていた。
守将は深く頷き、言った。
「……砦は、過半数を食い止めてみせよう。それは約束する」
若き小隊長の口元が、わずかに動いた。
「全軍をこちらへよこしていただいて、結構。
それよりも――勝利の酒は、極上のものをご用意願います」
こうして若きダークオーガは、ただ1人、橋の防衛に就いた。
守備兵の大半は民の避難誘導に当たり、町中の人員、1人の欠けもなく、後方の都市へと落ち延びた。
◇
その日の日暮れごろ、フォールムの大軍が砦に迫った。
そこには2人の指揮官がいた。1人は長年をかけてこの機を作った知略の将軍。
もう1人は、その手柄に乗じてついてきた中央の神官だった。
神官は馬上から砦を眺め、忌々しげに鼻を鳴らした。
辺境の土埃が白い法衣の裾を汚している。
行軍の揺れで腰が痛く、昨夜は野営で碌に眠れなかった。
砦を落とせば守将の部屋が使える。
その1点だけが、今の彼の関心だった。
「将軍。今宵のうちに攻めるべきではないか」
神官が言ったが、将軍は地図から目を上げず、答えなかった。
「魔国の援軍がいつ来るか知れぬ。夜明けを待てば、その間に態勢を整えられる恐れがある。
一刻も早く片をつけるが得策というもの。それに、兵も疲れておる。
屋根のある場所で休ませてやるのが、指揮官たる者の情けというものではないかな」
兵のため、と言いながら、神官の関心は砦の設備にあった。
暖炉はあるか。寝台はあるか。
「兵は今日の行軍で脚が鈍っております。夜間に大軍を動かせば陣形が乱れます。
夜明けを待ち、万全の状態で――」
と将軍が口を開きかけると、神官が遮った。
「それは弱気というものだ。あの砦に、まともな守備兵がおるとは思えぬ。
今宵のうちに押し潰し、明朝には凱旋の準備を整える。それが賢明な判断というもの」
将軍は地図に目を戻した。
「……御意のままに」
◇
十万に迫る大軍とはいえ、正規の兵はほぼいない。
大半は徴兵された農民で、罪人が恩赦の見返りに従軍している者もいる。
統制など取れるはずもなく、遠征先での夜襲などもってのほかだ。
寄せ集めの士気は皆無に近く、雲の多い夜、砦から放たれる矢は闇に紛れて見えず、隣の兵が声もなく倒れる。
侵攻の脚は自然と鈍り、無駄な突撃を繰り返すうち、多数の死者と闇に紛れた逃亡者を出したところで、神官は夜襲を諦めた。
将軍の責にしようとしていたが、将軍には関係ない。
それよりも、砦の守将の手腕に、将軍は静かな畏れを抱いていた。
天幕の中で地図を広げ、燭台の炎が風に揺れる中、将軍はしばらく黙って考えた。
「閣下。明朝、砦への攻略は一時中断することをご提案申し上げます。
砦を回避し、橋を渡って対岸の街を制圧する。
街を押さえれば砦は孤立し、補給も援軍も断たれた守将は、降るか出てくるしかありませぬ」
神官が椀を置いた。
「砦を落とさずに街へ向かうと?」
「はい。砦は後でよい。街さえ――」
「ならぬ」
神官が遮った。
「砦を落とさずに橋を渡るとは、背後に敵を残すということだ。兵法の基本も知らぬのか」
将軍は答えなかった。
兵法の基本を説いているのが、無謀な夜襲を強行した人物なのだ。
「この遠征は神の御名のもとに行われておる。敵の砦を正面から打ち破ってこそ、その権威が示されるというもの。
迂回などという姑息な手を使えば、何のための遠征か分からなくなる」
神の御名、という言葉が出た時点で、将軍には反論の手段がなかった。
「……では、砦の攻略を続けると」
「当然だ」
神官は再び椀を手に取った。
将軍は一拍置き、静かに言った。
「……閣下のおっしゃる通りです。砦は落とさねばならない。閣下のご慧眼、まことに」
神官が眉を上げた。反論を予期していた顔だった。
「ただ1つ申し上げてよろしいですか。
砦の攻略は閣下にお任せし、その間に私が橋を渡って街を制圧するというのは、いかがでしょう。
閣下が砦を押さえてくださるならば、私は安心して橋へ向かえます。
もし閣下がおられなければ、砦の守将が背後を突いてくる恐れがある。
それを防げるのは、閣下をおいて他にはおりません」
神官の表情が変わった。
「つまり」と将軍は畳みかけた。
「この作戦の要は砦です。
砦さえ閣下が抑えてくださるならば、橋も街も時間の問題に過ぎない。
この遠征の要諦を担えるのは、閣下だけでございます」
沈黙があった。神官は宙を見ながら顎を撫でた。
「……なるほど。砦の攻略が、この作戦の軸というわけか」
「はい。閣下が神の御名のもとに砦を正面から打ち破ってくださるならば、私の橋の制圧は、その果実を受け取るに過ぎません」
神官の口元が緩んだ。
「よかろう。砦は余が引き受ける。橋と街は、そなたに任せた」
「ありがたき幸せ」
将軍は深く頭を下げた。
天幕を出た将軍は、夜風の中で一度だけ目を閉じた。
軍を分けるなど本来は愚の骨頂。
とはいえ、あの神官が砦を抑えれば後顧の憂いがないという言葉に嘘はない。
街を拠点にできれば善し。
最悪でも橋を破壊できれば、砦はいずれ落ちる。
その算段を胸に、将軍は天幕へと戻った。
◇
翌朝――というには、日がすでに高かった。
件の神官が寝こけていた。
起き出した後も身支度に要する時間が呆れるほど長く、将軍はただそれを待ち続けた。
戦場の朝が、1人の男の化粧によって浪費されていた。
兵が動き出したのは、日が中天に差し掛かろうかという頃だった。
神官の軍が砦へ攻め寄せるのと同時に、将軍は自らの手勢1万を率いて橋へと向かった。
橋が見えた時、そこに1人の影が立っていた。
渓谷の川風を受けても動かない。橋の中央に仁王立ちし、漆黒の巨体が朝の光を受けて鈍く光っている。
昨夜からずっと、あそこに立っていたのか。将軍の目が細くなった。
「我こそはフォールムの将、アウグスト=エヴィチ! 我が軍に立ちふさがる貴殿は何者ぞ!」
橋の向こうから、低く、地を這うような声が返ってきた。
「我が名は、バルトロメイ=グリムボーン。
グリムボーンの傍流たる我1人で、貴様らには十分よ。
――死にたい者から、かかってこい」
名乗りが終わると同時に、橋の上で剣が抜かれた。
◇
バルトロメイはただ1人、1万の軍を相手に橋を守り続けた。
陽が沈んでも、その剣は止まらなかった。
攻め手も退くタイミングを見誤り、多大な犠牲を出しながらも将軍アウグストは勝機を手放さなかった。
いかに魔族の猛将といえど、ただ1人で戦い続けられるはずがない。
疲労の末に打ち取れれば、勝ちだ。
しかし深夜を過ぎても、漆黒の巨躯が疲れを見せることはなかった。
無数の手傷を負わせているにもかかわらず、その動きは精彩を欠くどころか、力強さを増していくように見えた。
「――あれは、正に漆黒の悪鬼よ」
アウグストが感嘆の息を漏らしたとき、副官が近づいてきた。
「神官殿の軍が、撤退するようです」
驚きはなかった。半ば予想していた。ただ予想より早い。
砦の守備を称えるべきだろうと思ったところへ、副官が続けた。
「神官殿は――討ち取られたようです」
さすがにこれには目を丸くした。
敗北の責を神官に押しつけられると思っていた。
だが当の本人が討ち死にとあれば、話は変わる。
アウグストは橋の上の巨影を見た。
夜明けの光が、その背から長い影を伸ばしている。
「漆黒の悪鬼よ! 此度の勝ちは、潔く譲ろう。――いずれ、また相まみえようぞ!」
その言葉を残し、将軍は残った兵を連れて引いていった。
ちょうどそのとき、西の彼方より援軍の旗が現れ、橋を守り切った巨影を、朝日の中に見たのだった。
◇
幕が下りると同時に、会場からは万雷の拍手が送られた。
幼年学校の2年に進級したリオスもまた、そのなかの1人だった。




