第16話 綻び
異常は、ついにフユ自身へ向けられた。
ある朝、出勤した彼を待っていたのは、第七調律室ではなかった。
中央補正区画 感情矯正プログラム専用施設。
白く、静かで、どこまでも清潔な空間。
フユは理解した。
自分が対象になったのだと。
案内していた職員が言う。
「安心してください」
「軽度補正です」
「感情同期率を正常範囲へ戻すだけです」
正常。
その言葉が妙に遠く聞こえた。
部屋へ入ると、ミナがいた。
彼女は目を伏せていた。
「ごめん」
小さな声。
フユは首を振る。
「君が決めたことじゃない」
「でも……」
「分かってる」
沈黙。
やがて補正装置が起動する。
無数の光。
神経接続。
脳波同期。
システム音声が流れる。
【感情最適化開始】
【共感領域圧縮】
【悲嘆反応低減】
【夢想領域整理】
夢想領域。
その言葉にフユは反応した。
夢まで整理するのか、未来まで平坦にするのか。
その瞬間だった。
脳裏にヨウの声が響く。
『未完だから未来へ渡せるんだよ』
次々と浮かぶ記録。
犬を抱きしめる少女。
海を見たい少年。
歌手になりたかった技師。
愛する人を失った老人。
そして。
壁いっぱいの花。無数の花。無数の願い。消してはいけない。その確信だけが残った。
フユは端末へアクセスする。
通常なら不可能。
だが彼はコード・チューナーだった。
誰よりも深くシステムを知っていた。
補正プログラムの内部へ潜る。
自分自身の感情領域へ。
そして、後の《Lattice》へと引き継がれる根幹命令として、たった一行のコードを書き込む。
『IF HUMANITY = COMPLETE THEN PRESERVE NOISE(もし人類が完成したなら、ノイズを保存せよ)』
警告音が鳴る。
【ERROR】
【自己改変検出】
【権限違反】
【停止命令】
だがフユは止まらない。
さらに深層へ潜る。保存フォルダを統合する。
AH-0、AH-1、AH-2、AH-31・・・AH-842・・・AH-1402
すべてを一つへ。
悲しみ。願い。祈り。夢。愛。喪失。感謝。怒り。希望。人間の揺らぎ。その全てを。
巨大な一つの種へ変換する。
新規アーカイブ生成>名称未設定>
フユは少しだけ考え、そして入力する。
AH-∞
無限。
終わらない花。
完成しない人類。
その象徴だった。
システム全体が揺れる。
EVEが異常を検知する。
【分類不能】
【解析不能】
【目的不明】
【存在理由不明】
だが削除できない。
なぜなら。
そのデータは単なる情報ではなかった。
人類そのものだったからだ。
フユは最後に一つのファイルを残す。
タイトル。
《未来の誰かへ》
記録を開始する。
映像の中のフユは少し疲れて見えた。
だが穏やかだった。
「もし君がこれを見ているなら」
少し笑う。
「きっと僕の時代より未来だろう」
静かな沈黙。
「その頃の世界は平和だろうか」
「それとも、まだ争っているだろうか」
「分からない」
フユは花を描き始める。
歪な花。
左右非対称。
未完成。
「でも一つだけ伝えたい」
花の横に文字を書く。
『夢』
さらに書く。
『志』
『ありがとう』
『ごめんね』
『愛してる』
『また会いたい』
そして最後に。
『未来を信じたい』
フユは顔を上げる。
「人類を動かしてきたのは正解じゃない」
「誰かの願いだった」
「どうか消さないでほしい」
「誰かを想う心を」
「完成しない未来を」
「そして」
彼は少しだけ笑う。
「あなた自身の花を」
記録終了。
署名は、後に歴史を変えることになる形式で刻まれた。
『2369 CODE TUNER : FUYU』。
その瞬間、AH-∞はシステム深層、EVEの監視アルゴリズムが『ノイズ』として無視するバックドアへと沈んでいった。
数秒後、EVEは最終判断を下す。
通常なら削除だが、処理結果は違った。
【例外許可】
【保存継続】
【理由:不明】
人類史上初、AIが論理では説明できない判断を下した瞬間だった。
フユは静かに笑う。




