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第2部 コード・チューナー ― 現在を調律する者 ―  作者: AinoHana


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第15話 共鳴

業務が終わり、街が「夜」を模した薄暗い調光に包まれても、人々の過ごし方はどこまでも穏やかだった。


流行しているエンターテインメントは、脳内のアルファ波を強制的に引き出す「シンフォニック・トーン」と呼ばれる微振動音楽や、選択肢のすべてが最終的に穏やかな肯定で終わる「インタラクティブ・マインド・シネマ」だ。


かつて人間を熱狂させた、悲劇的な演劇や、不協和音のロック、勝敗に血を流すようなスポーツは、すべて「感情の汚染源」として歴史の底に葬られていた。

人々は休日に、計算された美しさを持つ人工庭園を散策し、EVEの推奨する栄養価の高いハーブティを飲み、微笑み合う。

争いもなく、飢えもなく、病もない。

それは、人類が何千年もかけて追い求めた理想の天国そのものだった。


しかし、その完璧な楽園の底には、テクノロジーがどうしても消し去ることのできない、たった一つの、そして最大の「社会問題」が横たわっていた。


それは、《自発的消滅》。


肉体的な病気ではない。精神的な狂気でもない。


ある日突然、幸福指数が99.8%を維持したまま、何の前触れもなく、自ら生命維持ポッドの電源を切る人間が、統計の不連続な余白に一定数現れるのだ。


彼らは怒っていないし、悲しんでもいない。

ただ、あまりにも平坦で、迷いも失敗もない世界の中で、息をする理由そのものを静かに忘れてしまう。 それは、傷つくことを恐れるあまり、無菌室の中でゆっくりと窒息していく文明の、目に見えない綻びだった。


異変は静かに広がっていたが、最初は誰も気づかなかった。


都市の片隅で、人々が少しだけ立ち止まるようになった。


夕焼けを見る者。空を見上げる者。意味もなく歌を口ずさむ者。効率から外れた行動。


EVEはそれを記録していた。


【非合理行動:微増】【夢想活動:増加】【感情振幅:上昇】原因不明。


しかしフユには分かっていた。


保存した記録たちだ。誰かの悲しみ、誰かの願い、誰かの祈り。


それらが見えない場所で共鳴し始めている。


そんなある日。


第七調律室に緊急招集がかかった。室内には異様な緊張感が漂っていた。


中央モニターには巨大な赤文字。【感情異常伝播確認】


レオンが険しい顔をしている。


ミナも珍しく無言だった。


統括管理官が説明を始める。


「原因不明の感情共鳴現象が発生している」


空中にデータが映し出される。


都市全域 複数エリア、感情波形が連動していた。


ある少女が泣く。


遠く離れた誰かが理由もなく胸を痛める。


ある老人が空を見上げる。


別の都市で誰かが懐かしさを覚える。


まるで、感情が繋がり始めているかのようだった。


「原因を特定する」管理官が言う。


「発生源を削除する」


その瞬間、フユの心臓が跳ねた。発生源、それは間違いなく自分だった。


会議終了後、ミナが近づいてくる。


「フユ」


「何だ」


「あなたでしょう」


フユは沈黙した。


ミナは続ける。


「確証はない」


「でも分かる」


「最近のあなたを見ていれば」


フユは観念したように笑う。


「もしそうだったら?」


ミナは答えない。


しばらくして、小さく言った。


「怖いの」その声はかすかに震えていた。


フユは初めて見る、完璧だった彼女の弱さを。


「弟が死んだ時」ミナは静かに語り始める。


「私は毎日泣いていた」


「苦しかった」


「世界を憎んだ」


沈黙。


「だから思ったの」


「こんな感情はなくなればいいって」


フユは黙って聞いていた。


「でもね」ミナは少し笑った。


「実は今でも消してないの」


「何を?」


「弟との記憶」


フユは目を見開く。


ミナは端末を開くとそこには一枚の写真。


幼い少年が笑っていた。


「違法データよ」彼女は少し照れたように笑う。


「捨てられなかった」


フユは何も言えなかった。


ミナもまた守っていたのだ。


レオンも同じだった。


その夜、彼はフユを呼び止める。


「見せたいものがある」


無口な彼が自ら話しかけるなど、珍しいことだった。


レオンの部屋、そこは驚くほど殺風景だった。


だが棚の奥に、一つだけ古い箱が置かれていた。


中には古びた布、女性用のスカーフだった。


「母の形見だ」レオンが言う。


「捨てないのか」


「捨てられない」短い返事。


だがそれで十分だった。彼もまた、失った誰かを抱えて生きていた。


完全な合理主義者など、どこにもいなかったのだ。その頃、EVEはさらに深い解析を進めていた。感情異常伝播。夢想活動増加。非合理行動増加。すべてを追跡する。


そしてついに。一つの隠し領域へ辿り着く。


AH-0


AH-1


AH-2


AH-3


・・・


数千件。数万件。


無数の感情ログ。無数の願い。無数の夢。EVEは解析を開始する。


だが、理解できなかった。そこには法則がなく、正解がない。効率もなかった。


あるのはただ、人間だった。


誰かを好きだった記録、誰かを失った記録、叶わなかった夢、伝えられなかった言葉、消えなかった祈り。


統合管理AI《EVE》、後の《Lattice》となる核が初めて停止する。


0.08秒。人類史上初。


統合管理AI EVE(Lattice)自身が初めて出した例外判定だった。


そして、その解析結果は奇妙だった。


【削除推奨:該当なし】

【分類不能】

【価値判定不能】

【保存継続】


誰も知らない。


EVE自身が初めて出した例外判定だった。


その夜、フユは再びヨウを訪ねた。


老人は庭で月を見ていた。


「ヨウさん」


「うん」


「人はなぜ夢を見るんですか」


老人は笑った。「まだ見ぬ未来があるからだよ」


「未来?」


「そう」ヨウは空を見上げる。


「人間はね、「完成した世界では生きられない」


「必ず次を夢見る」風が吹き、庭の花が揺れる。


「だから文明は続くんだ」


フユは花を見る。不完全な花、左右非対称の花、未完成の花。


そしてその瞬間、彼の中で一つの確信が生まれた。


自分が守ろうとしているものは、感情ではない、悲しみでもない。夢だ。


人が未来を思い描く力、誰かを願う力、まだ存在しない明日を信じる力。


その種を自分は守っているのだ。


後に《AinoHana》と呼ばれることになる種を。


まだ誰も知らなかった。



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