第17話 コード・チューナーとしての「正常」
冬の終わりだった。 ヨウの庭には、小さな花々が咲いていた。どれも不揃いで、真っ直ぐではなく、同じ形もない。完璧な花は一つもないが、それぞれが違う美しさを持っていた。
フユはその庭を眺めていた。
以前の自分なら、なぜ人がこれほど不完全なものに心を動かされるのか理解できなかっただろう。
だが、コード・チューナーとして「正常」の枠を超えた今なら、その理由が少しだけ分かる気がした。
その日、縁側に座るヨウ(ID: Y-141)は、いつになく痩せて見えた。
幸福指数7.83。31年間もシステムの修正を拒み続けたその命は、静かに、だが確かに終わりを迎えようとしていた。
「春が来るね」 「そうですね」 「今年も見られた。……ありがとう」
穏やかな声に、フユは胸の奥で小さな痛みを感じた。それは別れの予感だった。ヨウは空を見上げ、微笑んだ。
「フユ、君はもう大丈夫だ。自分の花を描ける」
「……まだ、上手くは描けません」
「上手い必要なんてない。誰かと同じである必要も、正しくある必要もない。君の花は、君にしか描けないんだから」
フユは静かに尋ねた。
「ヨウさん。人生って、何なんでしょう」
老人は長い時間をかけて答えた。
「庭だよ。完成した庭なんてない。草も生え、花も散り、嵐も来る。思い通りにはならない。季節は巡っているからね……、だからこそ、庭は美しいんだ」
その言葉を最後に、ヨウは眠るように目を閉じた。
風が吹き、遠くで子どもたちの声が聞こえる。
世界は何も変わらない。それでも、フユの中では決定的な何かが変わっていた。
頬を伝う涙を、フユは止めなかった。補正も、消去もしなかった。
その夜、フユは一枚の白い紙を広げた。
筆を執り、描き始める。左右非対称で、震える線で描かれた不完全な花。
それはヨウが描いていた花に似ていたが、紛れもなくフユ自身の花だった。
花の横に、彼は言葉を添えた。
『未来を信じ、誰かを大切にしたい。悲しみを忘れない。ありがとう』
最後に小さく――『ヨウへ』
41年の時が流れ、
ひとりの歴史学者が、このAH-∞を発見することになる。
『愛の花を、未来へ』というフユの言葉に触れ、
彼はその計画を《AinoHana》と名付けた。
その名を、ユキシロという。
フユが撒いた種は、こうして文明の余白として芽吹いた。
そして――フユの時代から二百十一年の時を超えた、西暦2580年。
静寂に包まれた深層アーカイブで、そのデータは一人のアーカイバーの手によって再び開かれる。
分類番号《AH-∞》。
2369 CODE TUNER : FUYU
歴史書には載っていない、知らない名前。
これは二百年の時を経て受け継がれた歪み。
一人の少女の涙から始まり、一人の調律師が消去しなかった「悲しみ」は祈りとなり、フユが信じた未来は、今、ここに紡がれていく
第2部 コード・チューナー ― 現在を調律する者 ―【完】




