第12話 感情ログ
その日から、フユは何度もヨウのもとを訪れるようになった。
本来なら、一度の調査で終わる案件だった。だがなぜか足が向いてしまう。自分でも理由は分からなかった。
ある日、フユはヨウに尋ねた。
「どうして花ばかり描いているんですか」
ヨウは土に水をやりながら笑った。
「花が好きだからかな」
「それだけですか」
「それだけじゃない」
老人は壁に飾られた花を見上げた。
「昔、人は祈っていたんだよ」
「祈り?」
フユには馴染みのない言葉だった。
もちろん知識としては知っている。
宗教。神話。信仰。すべて旧文明の文化記録として学んでいる。
だが実感はなかった。
「神様にお願いをすることですか」
ヨウは少し考えて首を振った。
「半分正解」
「半分?」
「人はね、本当に苦しい時、自分一人では抱えきれないんだ」
風鈴が静かに鳴った。
「大切な人を失った時」
「病気になった時」
「戦争が起きた時」
「自分の力ではどうにもならない時」
ヨウは空を見上げる。
「だから祈った」
「助けてください、と?」
「そうかもしれない」
老人は微笑む。
「でもね」
少しだけ声が柔らかくなる。
「本当は違うんだ」
「え?」
「祈りっていうのはね」
ヨウは胸に手を当てた。
「誰かと痛みを分け合う方法なんだよ」
フユは黙った。理解できないがが否定もできなかった。
ヨウは続ける。
「昔は土地ごとに違う神様がいた」
「地域によって宗教も違った」
「それって争いの原因じゃなかったんですか」
「そういう時代もあったね」
ヨウは頷く。
「でも本当は違う」
「違う?」
「その土地には、その土地の苦しみがあったんだ」
海辺の町、砂漠の国、雪深い村、乾いた大地、火山の近く。
人々はそれぞれ違う自然の中で生きるからこそ、違う恐れを抱えていた。
「だから、それぞれの祈りが生まれた」
「人を分けるためじゃない」
「守るためにね」
フユは初めて少しだけ興味を持った。
「守る?」
その一言に、なぜか胸が揺れた。
ヨウは静かに言った。
「人間は弱い」
「だから誰かと繋がろうとする」
「祈りも、歌も、物語も、そのために生まれたんだ」
沈黙が流れる。
やがてフユが尋ねた。
「でも今は平和です」
「そうだね」
「飢餓も少ない」
「そうだね」
「戦争もない」
「うん」
フユは少し迷ってから言った。
「だったら、もう祈りはいらないんじゃないですか」
ヨウはしばらく黙った。
そして静かに笑う。
「そう思うかい?」
老人は一枚の紙を取り出した。
そこには幼い字で書かれていた。
『お母さんが元気になりますように』
「これは?」
「百年以上前の花だよ」
「叶ったんですか」
「分からない」
「分からない?」
「その子とは会ったことがないからね」
フユは戸惑う。
ヨウは続けた。
「でもね」
花を見つめる。
「願うことは誰かを大切に思ったこと」
「生きていてほしいと願ったことも」
「幸せになってほしいと思ったことも」
老人は微笑む。
「それは未来に残る」
フユは花を見る。
ただの落書きにしか見えなかったはずなのに。
なぜか以前より違って見えた。
その夜。
帰宅したフユは、珍しく眠れなかった。
端末を開き、今日保存された感情ログを確認する。
そこには様々な人生があった。
<失恋した青年 <父を亡くした少女 <退職した老人 <子どもが生まれた夫婦
これまではノイズであり、修正対象だった。
だが今日は違って見える。
それぞれが誰かを思っていた。
それぞれが何かを願っていた。
その時だった。
ふと、一つの疑問が浮かぶ。
もし悲しみを消してしまったら。
その願いも消えてしまうのだろうか。
フユは慌てて思考を止めた。
危険な考えだった。
コード・チューナーは感傷に流されてはいけない。
それが規則だった。
しかしその夜、夢を見た。
見たこともない庭に風が吹き、無数の花が咲いている。
どの花も不完全だった。
けれど不思議なほど美しかった。
そして庭の奥で、誰かがこちらを見ていた。
顔は見えない。
ただ一つだけ言葉が聞こえた。
「未完だから、未来へ渡せるんだよ」
フユは目を覚ました。
心拍数が少し上がっていたが理由は分からない。
だがその日から彼の中で何かが静かに動き始めていた。




