第11話 庭の記憶
中央感情制御局、第七調律室。
そこは、フユの自室よりもさらに徹底して色彩を剥ぎ取られた、乳白色の巨大な空間だった。
数十名の《コード・チューナー》たちが、円環状に配置されたデスクに座り、空中に浮かぶ巨大な波形モニターと無言で対峙している。室内に響くのは、彼らの指先が空中インターフェースを叩く、かすかな「プツ、プツ」という電子音と、脳波安定用の超低周波の振動音だけだ。
【EVE感情監視システム - 第七調律室】
[波形モニター] ─────────────────────────── (都市全域の感情波形)
[コード・チューナー(フユ)] ─── 指先での調律
├── 悲しみ ──> 【ノイズ】 ──> 圧縮・除去
├── 怒り ──> 【エラー】 ──> 削除
└── 執着 ──> 【過負荷】 ──> 平坦化
この世界において、肉体労働や論理的な意思決定、インフラの維持管理といった仕事は、すべてAIであるEVEが完璧に遂行する。
人間が労働として従事するのは、AIには定義できない最後の領域――「人間の感情の揺らぎ(ノイズ)」を、人間自身の神経系を媒介にして相殺する、この調律作業、古いデータの管理、未来を設計することなどだった。
フユの網膜に、第14居住区に住む24歳の男性のデータがポップアップした。 波形が、基準値を超えて鋭く乱れている。原因は、EVEが提示した「最適な結婚相手(マッチング率99.6%)」との面会において、男性が予測外の拒絶反応を示したことによるものだ。
彼の脳内では、ノルアドレナリンが過剰分泌され、胸の鼓動が速まり、視界が狭窄している。 それは、旧文明の言葉で「焦燥」あるいは「執着」と呼ばれるシステムエラーだった。
フユは、端末の光るスライダーを引き下げた。
男性の神経伝達物質の分泌を抑制するシグナルが送られ、網膜ディスプレイに脳波を誘導する幾何学模様が強制投影される。数秒後、モニターの赤い針が、滑らかな緑色の直線へと収束していった。
「エラー、修正完了」
悲しみはノイズとして圧縮され、怒りはエラーとして削除され、執着は平坦化される。 それが、世界を完璧な平和に留めるための唯一の手順だった。
だが、男性の心を「正常」に戻したフユ自身の指先は、驚くほど冷たくなっていた。合成繊維のデスクに触れる自分の手のひらが、プラスチックのような無機質な触感しか返してこない。他人の感情を削ぎ落とすたびに、自らの胸の奥にある輪郭までもが、目の粗い消しゴムで擦られたように薄くなっていく。
その時、フユの管理画面に、その赤い警告が灯った。
【対象ID:Y-141】
【幸福指数:7.83】
【異常継続期間:31年】
「あり得ない……」
フユの口から、今日初めて、システムに用意されていない生身の声が漏れた。 幸福指数7.83。それは死人の数値でも、狂人の数値でもない。 この世界で生きている人間が、決して叩き出してはならない「奈落の底」のような数字だった。
だか、その時はまだ知らなかったそれは、後に解き明かされる、聖なる数値 7.83 であり、その出会いが、人類の未来を変えることになることを。
フユは上層部からの指示を受け、初めて都市の最下層区域へと向かうリフトに乗り込んだ。
気象制御ドームの光が届かない地下へ、深く、深く下りていく。
リフトの扉が開いた瞬間、フユは激しい目まいに襲われた。
そこだけが、まるで別の時代のようだった。
嗅いだことのない匂い。 それは、精製されていない「湿った土」の、カビと生命が混ざり合った濃厚な臭気だった。
耳を澄ませると、上層都市の吸音壁では消されていた「風の音」が聞こえる。 そして、電子音ではない、チリン、と硬質で不揃いな、何かが擦れ合う金属の音が響いた。
暗がりの奥に、蔦が絡みついた古い住居が見える。
フユは自分の胸の鼓動が、衣服のセンサーを鳴らすほど激しく高鳴っているのに気づいた。 悲しみではない。怒りでもない。
それは、コード・チューナーである彼が、生まれて初めて感じた「未知への恐怖」であり、同時に――「生きている」という、生々しい拍動そのものだった。
フユは震える手で、その古びた扉のノブを押し込んだ。
扉を開くとそこには老人がいた。
土を触っている。本物の土だった。
フユは思わず尋ねる。
「何をしているんですか」
老人は顔を上げ穏やかな笑顔をこちらに向けた。
「庭だよ」
「庭?」
「君たちの時代には、もう珍しいかもしれないね」
老人はヨウと名乗った。
記録上の年齢は123歳。
寿命延長技術のおかげで、人は長く生きられるようになっていた。
しかしヨウの瞳には、年齢以上の時間が宿っているように見えた。
部屋へ案内され、フユは言葉を失った。
そこには、管理社会ではほとんど見なくなったものが並んでいた。
紙の本。鉛筆。手紙。古い写真。そして――壁一面に描かれた無数の花。
左右非対称。色は滲み。線は震え。どれも不格好だが不思議と目が離せない。
それは2023年に古の儀式として原型が生まれて受け継がれてきたものだった。
フユは記録端末を起動した。
「あなたの幸福指数は極端に低い」
ヨウは笑う。
「そうらしいね」
「孤独傾向、喪失反応、後悔指数も高い」
「うん」
「なぜ修正を拒否するんですか」
ヨウは答えず、一枚の紙を差し出した。
そこにも花が描かれていた。
そして花の横に、小さな文字。
『娘が笑っていますように』
フユは首を傾げる。
「願い?」
「そう」
ヨウは頷いた。
別の紙を見せる。
『戦争が終わりますように』
『誰かが今日を生き延びられますように』
『ありがとうを伝えられますように』
『海を見に行けますように』
フユは理解できなかった。
「全部、叶ってないじゃないですか」
ヨウは少し驚いた顔をした。
「そう見える?」
「願いが叶ってないから願いなんでしょう」
老人は静かに首を振る。
「違うよ」
「え?」
「願いは叶えるためだけにあるんじゃない」
ヨウは壁いっぱいの花を見上げた。
「願いはね」
少しだけ目を細める。
「未来へ手渡すためにもあるんだ」
フユには意味がわからなかった。
だが、その言葉だけがなぜか胸の奥に残った。
帰り際、ヨウが尋ねる。
「フユ」
「はい」
「君には夢があるかい?」
フユは答えられなかった。
EVEが提示した人生設計も目標も予定もある。だが夢と呼べるものは思いつかなかった。
沈黙を見て、ヨウは優しく笑った。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
しかしフユは、帰り道ずっと考えていた。
夢とは何だろう。
なぜあの老人は、叶っていない願いを大切そうに飾っていたのだろう。
都市の空は今日も完璧に晴れていた。
なのにフユの胸の中には、小さな曇りが生まれていた。




