第10話 幸福指数99.8
西暦 2369 年。世界から争いは消えていた。
巨大統合管理AI《EVE》は、一人ひとりに「最適な人生」を提示する。遺伝情報。神経伝達物質。家庭環境。感情傾向。潜在能力。
そのすべてを統合し、一人ひとりに最適な人生を提示する。 最適な学校。最適な仕事。
最適な友人。最適な結婚相手。最適な死期。だが同時に、深く願うことも少なくなった。 人々は迷うことも、失敗することもない「完璧な幸福」の中にいた。
国家間戦争はAIによる未来予測によって未然に回避され、犯罪率は限りなくゼロに近づき、飢餓も病も、そのほとんどが管理可能となった。
人類は、かつて夢見た理想社会へ到達した。
高層都市の空は人工気象によって常に穏やかに保たれ、歩道にはゴミ一つ落ちていない。
誰も怒鳴らないし、泣き叫ばないし、誰も取り乱さない。完璧だった。
だが、その完璧さは時折、どこか静かな墓標のようにも見えた。
フユは、その世界を支える一人だった。
職業名は――《コード・チューナー》。
人々の感情データを監視し、乱れを修正する仕事。
悲しみはノイズ。怒りはエラー。執着は過負荷。絶望はシステム障害。
感情は適切な範囲に保たれなければならない。
それが平和を維持する条件だった。
フユが目を覚ますのは、縦横高さが完全に最適化された、2.5メートルの立方体の空間である。
部屋には窓がない。巨大統合管理AI《EVE》の算出した生存最適化アルゴリズムによれば、不規則な外光や景色の移り変わりは、睡眠深度を0.08%低下させる不確定要素に過ぎないからだ。壁面を覆う吸音性ポリマーは、都市の駆動音を完全に遮断している。
「おはようございます、フユ。現在の時刻は06時00分。あなたの脳波安定度は99.2%です」
天井の目立たないスリットから、指向性の音声が鼓膜に直接届けられる。
同時に、人工光が22分間かけてゆっくりと、夜明けの光を模した「輝度200ルーメン、色温度3500ケルビン」まで上昇していく。
室温は常に22度に固定され、皮膚に触れる空気は、ほんのりとユーカリに似た微弱な精神安定剤を含んでいる。
フユが起き上がると、シーツの接触センサーが彼の心拍数と血圧を感知し、その日の《最適化メニュー》を確定させた。
壁が静かにスライドし、朝食が収められたトレイが現れる。
白く滑らかなセラミックの器に盛られているのは、遺伝子情報と今朝の体内アミノ酸バランスに基づいて3Dプリントされた、灰色の高機能栄養ゲルと、200ミリリットルのアルカリイオン水だ。
ゲルをスプーンで掬い、口に運ぶ。 舌の上に広がるのは、完璧に計算された「わずかな甘みと、嫌みのないビタミン臭」。咀嚼の必要はほとんどない。喉を滑り落ちるその粘体は、フユに「満腹感」ではなく、ただ「代謝に必要な熱量」だけを正確に供給する。
食事の間、正面の壁面にホログラムのニュースが浮かび上がった。
『本日、第十四居住区の気象制御ドームは「終日:穏やかな晴天、湿度45%」を維持します』 『西アジア圏における潜在的対立は、EVEの未来予測モデルに基づき、物流経路の0.4%修正によって未然に回避されました』 『昨夜の世界幸福指数は平均99.8%。犯罪、飢餓、突発的事故の発生率は、すべてゼロを継続しています』
それはニュースというよりも、世界の「正常動作確認報告書」だった。
アナウンサーの音声は合成された合成音で、高低の揺らぎが一切ない。 フユはゲルを飲み干し、口元を拭った。ゴミ一つない部屋の中で、彼の呼吸だけが、かすかに生温かい湿り気を帯びていた。
高層都市の移動手段は、重力制御によって駆動する静音型の空中複線列車「リニア・ベクター」である。
フユが最寄りのプラットホームへ向かうため、建物の防音自動ドアを出た瞬間、人工気象によって管理された「外気」が肌を撫でた。風速は常に秒速1.2メートルに制御され、空は絵の具を均一に塗ったような、一点の曇りもない青を呈している。
歩道にはゴミ一つ落ちておらず、並木として植えられた遺伝子組み換えのクローン樹木からは、枯れ葉一枚すら落ちてこない。
リニア・ベクターの車両が、文字通り風の音さえ立てずに滑り込んできた。 フユが乗り込むと、車内はすでに通勤者たちで満ちていた。しかし、そこには満員電車特有の不快な熱気も、苛立ちの匂いもない。
人々はみな、驚くほど同じ姿勢で座り、あるいは立っていた。 衣服はナノ繊維で作られた無彩色のスマートスーツで統一され、体温や汗の臭いはすべて衣類内部で吸収・分解されている。車内を占めているのは、人工的な「無臭」と、静かな衣擦れの音だけだ。
移動中、人々は誰一人として窓の外を見ない。 彼らの視線は、網膜に投影された個人のホログラムディスプレイに注がれている。彼らが消費しているのは、EVEがそれぞれの脳内物質分泌量に合わせて最適化した、低刺激の知的パズルや、感情を揺さぶらない調和的な学術講義だ。
誰も隣の席の人間と視線を合わせない。 誰もイヤホンから音を漏らさない。 誰も、急な加速に顔を顰めることすらしない。
列車がカーブを切るたび、何百人もの頭部が、まるで一つの有機体のように同じ角度で傾き、そして元に戻る。
フユはその光景を眺めながら、自分が冷たい培養液の中を運ばれる細胞の一つになったような錯覚を覚えた。




