第13話 正常の定義
中央感情制御局、第七調律室。
白い光に満たされた空間で、数十名のコード・チューナーたちが無言で端末を操作していた。
誰も雑談しない。誰も感情を表に出さない。必要がないからだ。空中モニターには都市全域の感情波形が映し出されている。
怒り。悲しみ。焦燥。孤独。嫉妬。執着。すべてが数値化され、管理されていた。
「フユ、今日の最適化効率は94.2%よ。少し視覚野の緊張が見られるわね」
業務の休憩時間、同期のミナが歩み寄ってきた。 彼女は完璧に計算された歩幅でフユの隣に立ち、Latticeの規定に基づいた「もっとも親密さを感じさせる1.2メートル」の距離を保った。
短く整えられた髪。無駄のない動作。感情補正率98.7%。
局内でも最も優秀なチューナーの一人 ミナ。
彼らの連絡は、すべてEVEの仲介による網膜通信で行われる。
文字を打ち込む必要すらない。視線を特定のアイコンに固定し、思考を微弱に同調させるだけで、スケジュールや健康状態が共有される。
「問題ない、ミナ。許容範囲内だ」
フユの言葉に、ミナは美しく対称的な笑みを浮かべた。
その角度は、彼女の感情補正率98.7%という極めて優秀な精神状態を証明している。彼女との会話はいつも心地よく、滑らかだ。
なぜなら、EVEがフユの遺伝子情報と感情傾向を分析し、彼女を「最もストレスを与えない友人」として選別したからである。
だが、フユがミナの細い手首に目をやったとき、その滑らかな肌の奥に流れる血液の拍動が、ひどく遠いものに感じられた。
彼らは互いのすべてを知っている。EVEのデータベースを通じて、遺伝子配列から好みの味付けまでを網羅している。
それなのに、フユは彼女が「今、何を考えているか」を想像することができなかった。 すべては画面に数値として表示されている。
孤独という感情すらも、脳内の特定の部位の血流量として検出され、即座にチューナーによって相殺される。 誰とも深く傷つけ合わず、誰とも真に交わらない。それは、硝子越しに互いの体温を確かめ合っているかのような、奇妙に洗練された隔離状態だった。
「先日の調査報告、提出されてない」
「まとめている途中だ」
「珍しいわね」
ミナは首を傾げる。
「あなたはいつも早かった」
フユは答えなかった。
その沈黙に、ミナは何かを感じ取ったようだった。
「Y-141?」
フユの視線が揺れる。
「やっぱり」
ミナは小さく息を吐く。
「影響を受けてる」
「影響?」
「感情共鳴」
その言葉にフユは眉をひそめた。
「そんなものは存在しない」
「公式にはね」
ミナは苦笑した。
「でも実際には起きる」
その時。
別の席から声が飛んできた。
「感染だろ」
レオンだった。
長身で無愛想な男。
局内でもっとも規律に厳しい調律師として知られている。
彼は椅子を回しながら言った。
「異常者と長く接触すれば影響される」
「レオン」
ミナが制する。
だが彼は続けた。
「幸福指数7.83、正常値以下、31年間も矯正拒否、存在自体がシステムエラーだ」
フユは思わず口を開いた。
「それでも生きている」
レオンが笑う。
「だから何だ」
「異常値だから消すべきだ」
「なぜ」
その言葉に空気が止まった。
レオンがゆっくり立ち上がる。
「なぜ?」
「本気で聞いてるのか」
フユは頷く。
レオンは少しだけ怒ったような顔をした。
「感情は人を殺す」
その言葉には重みがあった。
ただの理論ではない。
実感だった。
「怒りが戦争を生む」
「嫉妬が犯罪を生む」
「執着が暴力を生む」
「悲しみは人を壊す」
フユは黙る。
レオンは続けた。
「だから世界は変わった。だから現在の管理AI《EVE》が作られた。
そして間もなく、より完璧な統合知性《Lattice》へと全システムは移行する。
ノイズを許す余地などなくなるんだ!」
「だから俺たちは調律している」
沈黙。
その時だった。
ミナが静かに言う。
「レオン」
彼は口を閉じた。
フユは初めて気づく。
二人とも何かを隠している。
それは理論ではない。
過去だ。
ミナが話題を変える。
「フユ」
「何だ」
「最近、感情ログの保存件数が増えてる」
背筋が凍った。
見られていた。
「修正対象データを保留している」
「確認中だった」
「32件も?」
ミナは静かだった。
だからこそ怖かった。
フユは反論できない。
実際その通りだった。
ここ数週間。
彼は感情ログを削除する前に保存していた。
なぜか消せなかった。
<失恋した青年 <犬を失った少女 <母を亡くした少年
その悲しみを。その痛みを。消してはいけない気がしたのだ。
レオンが鼻で笑う。
「完全に感染してるな」
「違う」
「何が違う」
フユは思わず言った。
「悲しみを消したら」
言葉が止まる。
だが止められなかった。
「その人が誰かを愛していたことまで消えるんじゃないか」
静寂。
誰も動かない。
それはこの社会では危険な発言だった。
レオンが低い声で言う。
「愛なんて幻想だ」
フユは答える。
「でも人はその幻想のために生きてきた」
「幻想のために死んでもきた」
「だから管理するんだろう!」
レオンの声が響く。
周囲のチューナーたちが視線を向ける。
フユが初めて見る彼の怒りと感情。
その瞬間だった。
ミナがぽつりと呟く。
「弟がいたの」
二人が振り向く。
ミナはモニターを見たまま続けた。
「感情制御技術が完成する前、地域暴動に巻き込まれて死んだわ」
沈黙。
レオンも黙る。
ミナは静かに言う。
「だから私は秩序を信じてる」
「二度とあんな時代に戻したくない」
フユは何も言えなかった。
彼女もまた。
守ろうとしていたのだ。
平和を。
未来を。
誰かを失わない世界を。
レオンが小さく呟く。
「俺も同じだ」
初めて聞く声だった。
少しだけ震えていた。
「母親を失った」
「暴動で」
フユは息を飲む。
なるほど。
そういうことだったのか。
彼らは感情を憎んでいるのではない。
恐れているのだ。
失うことを。
傷つくことを。
愛する人が消えることを。
その時。
フユの脳裏にヨウの言葉が浮かぶ。
『祈りは孤独を支えるために生まれた』
ならば。
今この部屋にいる三人も。
同じ孤独を抱えているのではないだろうか。
ただ。
抱え方が違うだけで。
その日の業務終了後。
フユは一人で端末を開く。
保存済み感情ログ。
32件。
本来なら削除対象。
だが彼は指を止める。
画面の端に新しいフォルダを作成した。
名前はまだない。
ただの空白。
そこへ最初の記録を保存する。
少女が亡くなった犬を抱きしめて泣いている映像。
ファイル保存完了。
その瞬間。
フユ自身にも説明できない確信が生まれた。
これはエラーではない。
何か大切なものだ。
まだ名前はない。
だが未来の誰かに必要になる気がした。
その時。
システムの奥深くで。
誰にも気づかれない小さな記録が生まれた。
それは後に人類の未来を変える種となる。
まだ誰も知らなかった。




