第9話 弟の尻拭いをする兄は、私だけではなかった
天孫降臨は成った。
成ってしまった、と言うべきかもしれない。
姉上の命により、ニニギは葦原中国へ降りた。
無論、そのまま送り出したわけではない。
儀礼。
政治。
地上の神々への言葉遣い。
贈り物の受け取り方。
相手の面子の立て方。
引くべき時の見極め。
絶対に言ってはいけない言葉。
言う前に三度考えるべき言葉。
私は、姉上よりもぎ取った教育係の権利を最大限に使い、ニニギに詰め込めるだけ詰め込んだ。
本当に、詰め込んだ。
ホアカリの理解力の三割でよい。
三割でよいから、ニニギに分けてほしい。
そう思ったことは、一度や二度ではない。
ホアカリなら、一を聞いて十を知る。
ニニギは、一を聞いて、目を輝かせて走り出す。
止まれ。
まだ一しか言っていない。
しかし、嘆いていても仕方がない。
ニニギは悪い子ではない。
明るく、まっすぐで、姉上を心から慕っている。
勢いがありすぎるだけである。
それが一番困るのだが。
ともあれ、ニニギは地上へ降りた。
そして、意外にも。
本当に意外にも。
思ったより、順調に葦原中国をまとめていた。
「……やればできるではないか」
私は、報告書を読みながら小さく呟いた。
現地の神々との折衝。
祭祀の整備。
土地の確認。
思ったより、悪くない。
いや、かなり悪くない。
ホアカリの下準備と、ホミミの祈るような顔と、私の事前教育と、オモイカネの作った手引書が効いているのだろう。
ニニギ本人も、確かに頑張っている。
私は茶を手に取った。
温かい。
静かだ。
久しぶりに、安心して茶が飲める。
そう思った時だった。
「ツクヨミ様!」
私は茶碗に触れた指を止めた。
……この呼び声が聞こえる時は、大体ろくなことが起きていない。
「今度は何だ」
駆け込んできた神は、青ざめた顔で叫んだ。
「ニニギ様が、大山津見神をお怒らせになりました!」
私は、茶碗を置いた。
「何が起きた」
その問いに答えたのは、報告役ではなかった。
廊下の向こうから、静かな足音が近づいてくる。
姿を現したのは、天火明命。
ホミミの子。
ニニギの兄。
通称、ホアカリである。
普段は落ち着き、礼儀正しく、よほどのことでは顔色を変えない男神である。
そのホアカリが、真っ青だった。
「ツクヨミ大おじ様」
「ホアカリ」
「弟が、やらかしました」
言い方。
だが、非常に分かりやすい。
「何をした」
ホアカリは、深く息を吐いた。
「大山津見神より、二柱の姫がニニギへ贈られました」
「二柱」
「はい。妹姫は、木花佐久夜毘売。姉姫は、石長比売」
「……続けろ」
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
「ニニギは、妹姫のみを迎えました」
「……姉姫は」
「送り返しました」
「理由は」
ホアカリは、一瞬だけ目を閉じた。
「見目が、美しくない、と」
私は、しばし沈黙した。
沈黙するしかなかった。
「……よもや」
「はい」
ホアカリの声は、ひどく重かった。
「大山津見神は、天の血筋が末永く栄えるよう、岩のように長く在る姫を贈ったのです」
「石長比売」
「はい。岩の寿ぎを持つ姫です」
「それを」
「返しました」
「理由が」
「見目が美しくない、と」
私は、額を押さえた。
ニニギ。
お前というやつは。
私が何を教えた。
言ってはいけない言葉。
言う前に三度考えるべき言葉。
相手の面子。
贈り物の意味。
全部、教えたはずだ。
いや。
教えた。
教えたのだ。
聞いていなかったのか。
聞いていたが、理解していなかったのか。
あるいは、理解した上で花に目が眩んだのか。
どれでも困る。
非常に困る。
「ホミミはどうした」
私が尋ねると、ホアカリは静かに視線を落とした。
「聞いた瞬間に卒倒しました」
「そうだろうな」
「それでも、意識を取り戻した直後、ツクヨミ大おじ様の元へ行くと起き上がろうとしたので」
「したので」
「母に、布団へ縛りつけてもらいました」
私は、目を閉じた。
ホミミ。
お前は本当に良い子である。
良い子すぎて、倒れてもなお尻拭いに行こうとする。
だが、休め。
「代わりに、私が参りました」
ホアカリは、深く頭を下げた。
「弟の不始末です。兄として、できることをいたします」
私は、ホアカリを見た。
できた兄である。
あまりにも、できた兄である。
弟の尻拭いをしに来たその顔には、怒りも呆れもある。
だが、それ以上に覚悟があった。
「ホアカリ」
「はい」
「まず、大山津見神の怒りを収める」
「はい」
「次に、石長比売の名誉を守る」
「はい」
「そして、天と地の関係を壊さない」
「はい」
「……面倒なことになったな」
「はい」
ホアカリは、少しだけ苦笑した。
「兄とは、弟の尻拭いをするものなのでしょうか」
私は、しばし黙った。
「……らしいな」
私も、何度もしてきた。
スサノオの尻拭いを。
ただし、ホアカリ。
お前はまだ、ましである。
お前の苦労は、弟だけだ。
私には弟がいる。
そして、姉上もいる。
弟は、泣けば海を荒らし、暴れれば高天原を荒らし、追放先で怪物を倒して瘴気まみれの剣を送ってくる。
姉上は、拗ねれば太陽を隠し、怒れば完全武装し、孫が絡めば知恵袋の進言すら押し切る。
太陽と嵐。
その間に立つ月。
字面だけなら美しい。
実態は、神代の尻拭い係である。
「ツクヨミ大おじ様?」
ホアカリが、心配そうにこちらを見た。
私は首を振った。
「いや。お前の苦労が、少し分かると思っただけだ」
「ありがとうございます」
「ただし」
私は、真顔で言った。
「弟だけで済んでいるうちは、まだ楽だと思え」
ホアカリは、一瞬だけ言葉を失った。
「……肝に銘じます」
よい返事だった。
だが、今は感心している場合ではない。
大山津見神が怒っている。
山の神である。
怒れば、山が荒れる。
山が荒れれば、地が荒れる。
地が荒れれば、天との関係にも響く。
そして何より、石長比売の尊厳が傷つけられた。
贈られた姫を、見目だけで送り返した。
それは、婚姻の話だけでは済まない。
大山津見神の顔を潰し、石長比売の名を傷つけ、天の血筋に与えられた寿ぎを退けたということだ。
「ニニギは、今どこだ」
「木花佐久夜毘売様のもとに」
「事情を分かっているのか」
「おそらく、まだ」
「そうか」
分かっていないだろうな。
分かっていたら、さすがに顔色を変えている。
いや。
あの子は、分かった上で「でもサクヤ姫はお美しいので!」などと言いかねない。
それも困る。
非常に困る。
「オモイカネは」
「すでに大山津見神の怒りの度合いを確認に向かっております」
「早いな」
「ツクヨミ大おじ様なら、まずそこを確認されるだろうと」
嫌な知恵袋である。
こちらの動きまで読んでいる。
「ならば、こちらも行く」
私は立ち上がった。
「大山津見神が本気で怒れば、山が荒れる。天と地が揉める。最悪、天の血筋そのものに呪いが向く」
「はい」
「その前に収める」
「承知しました」
ホアカリは、静かに頷いた。
その目は、もう決まっている。
弟の不始末を詫びるため。
石長比売の尊厳を守るため。
そして、天と地を繋ぎ直すため。
「ホアカリ」
「はい」
「お前は、謝るだけで終わらせるな」
「はい」
「石長比売が何を失ったのかを、きちんと見ることだ」
ホアカリは、少しだけ目を伏せた。
「承知しております」
「分かっているならよい」
「それに」
「それに?」
ホアカリは、静かに言った。
「弟が送り返したからといって、その姫の価値が損なわれるわけではありません」
私は、少しだけホアカリを見直した。
「そうだ」
「岩の寿ぎを持つ姫です。むしろ、こちらが失礼をしただけです」
「その通りだ」
「であれば、こちらが改めて礼を尽くすべきです」
できた兄である。
本当に、できた兄である。
ホミミ。
お前の教育は、きちんと届いている。
少なくとも、ホアカリには。
「行くぞ」
「はい」
私たちは、月の宮を出た。
その途中で、ふとホアカリが足を止めた。
「ツクヨミ大おじ様」
「何だ」
「父のことですが」
「ホミミか」
「はい。父は、おそらく目が覚めたらまた来ようとします」
「来るだろうな」
「あの状態では、まともに歩けません」
「そうだろうな」
「ですので、しばらく母に見張ってもらいます」
私は頷いた。
「よい判断だ」
「母は、父がまた起きようとしたら、追加で布団を巻くと言っておりました」
「頼もしいな」
「はい」
ホミミの妻。
穏やかと聞いていたが、なかなか芯が強いらしい。
よいことである。
ホミミには、そういう伴侶が必要だ。
そうでなければ、責任感だけで倒れる。
「ホアカリ」
「はい」
「お前も無理をするな」
ホアカリは、少し驚いたようにこちらを見た。
「私ですか」
「そうだ」
「私は、大丈夫です」
「その言葉を、私は信用しない」
「……」
「ホミミも同じことを言って倒れた」
ホアカリは、苦笑した。
「確かに」
「兄だからといって、すべて背負うな」
私は言った。
「ただし、今回は背負え」
「はい」
「矛盾していると思うか」
「いいえ」
ホアカリは、静かに首を振った。
「背負うべき時と、背負いすぎてはいけない時を見極めよ、ということですね」
理解が早い。
本当に早い。
ホアカリの理解力の三割でいいから、ニニギに分けてほしい。
私は、心の底からそう思った。
大山津見神のもとへ向かう道中、空気は重かった。
山が怒っている。
まだ遠いというのに、地の底から低く唸るような気配が届く。
比喩ではない。
山の神の怒りとは、山そのものの怒りである。
岩が軋む。
木々がざわつく。
鳥が鳴かない。
風が、重い。
「これは、まずいな」
私が呟くと、ホアカリが静かに頷いた。
「はい」
「大山津見神は、相当怒っている」
「当然かと」
「そうだな」
当然である。
自分の娘を、見目を理由に送り返された。
しかも、その娘は、ただの姫ではない。
岩の寿ぎを持つ姫。
長く在ること。
揺らがぬこと。
天の血筋に、永続を与えるための姫。
それを退けた。
理由が、見目。
怒らない方がおかしい。
「ホアカリ」
「はい」
「まず、お前は兄として詫びろ」
「はい」
「ただし、必要以上に自分を下げるな」
「はい」
「石長比売の前で、ニニギの言葉を繰り返すな」
「承知しております」
「大山津見神には、こちらが非を認めることを最初に示す」
「はい」
「その後、石長比売の意向を確認する」
ホアカリが少しだけ顔を上げた。
「姫の意向を、ですか」
「そうだ」
「父神の怒りを収めるだけではなく」
「石長比売本人の心を置き去りにすれば、また同じことになる」
ホアカリは、しばし黙った。
それから、深く頷いた。
「承知しました」
よい返事である。
そして、理解している。
本当に、なぜホアカリではなくニニギなのか。
いや、今それを言っても仕方がない。
決まったものは決まった。
成ったものは成った。
問題は、成った後の後始末である。
私は夜を治める神である。
本来なら、静かな夜を守っていればよいはずである。
だが、今は山の神の怒りを収めに向かっている。
なぜだ。
なぜ、こうなった。
「ツクヨミ」
横から声がした。
見ると、いつの間にかオモイカネが合流していた。
「いつからいた」
「少し前」
「気配を消すな」
「消してないよ。君が考え込んでいただけ」
「報告は」
「大山津見神はかなり怒ってる」
「見れば分かる」
「石長比売は、表には出ていない」
「そうか」
「木花佐久夜毘売は、たぶん事情を聞いて激怒してる」
「……だろうな」
姉妹仲はよいと聞いている。
妹姫が、姉を送り返されたと知れば怒る。
当然である。
「つまり」
オモイカネが、にこりともせずに言った。
「山の神は怒り、姉姫は傷つき、妹姫も怒り、ニニギはたぶん事の重さをまだ完全には分かっていない」
「最悪だな」
「うん」
「よくない状況を、簡潔にまとめるな」
「必要でしょ」
必要である。
必要だが、胃に悪い。
「オモイカネ」
「何?」
「お前は大山津見神との話の筋を整えろ」
「分かった」
「ホアカリ」
「はい」
「お前は誠意を見せろ」
「承知しました」
「私は」
私は、少しだけ息を吐いた。
「姉上への報告文を、どう書けば天が燃えないか考える」
オモイカネが小さく笑った。
「そこも大事だね」
「大事すぎる」
姉上は、ニニギを信じて送り出した。
その孫が、地上で早速やらかした。
しかも、婚姻絡み。
寿命絡み。
天と地の関係絡み。
どれも重い。
非常に重い。
報告の仕方を間違えれば、姉上の光が鋭くなる。
高天原の空気が冷える。
最悪、太陽神のお祖母様心と責任感が同時に暴れる。
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
やがて、山の気配が濃くなった。
大山津見神の領域である。
ホアカリは、静かに背筋を伸ばした。
その横顔は、落ち着いている。
だが、私は分かる。
緊張している。
当然である。
弟の不始末。
山の神の怒り。
傷ついた姫。
天と地の関係。
すべてを背負って、ここに来たのだ。
「ホアカリ」
「はい」
「無理はするな」
「はい」
「だが、覚悟は示せ」
「はい」
「そして、もし石長比売に会えたなら」
「はい」
「まず、謝れ」
「承知しております」
「次に、きちんと見ろ」
「……はい」
「ニニギが見なかったものを、お前は見ろ」
ホアカリは、静かに目を伏せた。
そして、深く頷いた。
「必ず」
その返事を聞いて、私は少しだけ安心した。
ホアカリなら、見るだろう。
見目だけではない。
岩のような寿ぎ。
静かな強さ。
傷ついてなお、そこに在る姫の尊厳を。
この子なら、きっと見る。
そう思った。
本日のニニギ。
地上統治、意外と順調。
そう思った矢先、大山津見神を怒らせる。
理由。
贈られた二柱の姫のうち、姉姫を見目で送り返した。
本日のホミミ。
聞いた瞬間に卒倒。
なお、起き上がって私の元へ来ようとしたため、妻に布団へ縛りつけられる。
本日のホアカリ。
弟の尻拭いに来る。
できた兄である。
ただし、弟だけで済んでいるうちは、まだ楽だ。
私には弟だけでなく、姉上もいる。
追伸。
兄は、弟の尻拭いをするものらしい。
私も。
ホアカリも。
解せぬ。
さらに追伸。
これより、大山津見神のもとへ向かう。
山が怒っている。
とても怒っている。
父上。
夜とは。
山の神の怒りを鎮めることも含むのか。




