第10話 素朴で可愛らしい感じではないですか?
山が怒っていた。
比喩ではない。
本当に、山が怒っていた。
木々はざわめき、岩は低く軋み、地の底から重い唸りのような気配が届く。
大山津見神。
山を司る神。
その怒りは、山そのものの怒りである。
当然だった。
娘を贈った。
しかも、ただの娘ではない。
天の血筋が末永く続くようにと、岩の寿ぎを持つ姫を添えた。
それを、ニニギは返した。
見目が美しくない。
その一言で。
「……改めて聞いても、ひどいな」
私が呟くと、隣のホアカリが深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
「お前が謝るな」
「ですが、弟の不始末です」
そう言えるだけ、お前はできた兄である。
本当に、なぜ弟はニニギなのか。
いや、ニニギも悪い子ではない。
悪い子ではないのだ。
ただ、壊滅的に言葉を選べない時がある。
それが一番困る。
「ツクヨミ」
横から、オモイカネが低く言った。
「大山津見神は、相当怒っているよ」
「見れば分かる」
「イワナガ姫は、奥にいる。サクヤ姫はこの場にはいない」
「そうか」
その方がよい。
妹姫がこの場にいたら、話がさらに荒れる。
姉妹仲はよいと聞いている。
姉を送り返されたと知れば、サクヤ姫は怒るだろう。
怒って当然である。
だが、今この場で必要なのは、まずイワナガ姫の言葉を聞くことだ。
父神の怒りだけで話を進めれば、また姫本人の心が置き去りになる。
それでは、同じことを繰り返す。
「行くぞ」
「はい」
ホアカリは静かに頷いた。
その顔は、青ざめてはいたが、逃げる気配はなかった。
弟の不始末を詫びるため。
傷ついた姫の尊厳を守るため。
そして、天と地の関係を壊さないため。
その覚悟だけは、はっきりと見えた。
私たちを迎えた大山津見神の顔は、まさに山だった。
動かず。
重く。
そして、底知れず怒っていた。
「月読命」
低い声が響いた。
「天つ神は、我が娘を何だと思っている」
当然の問いである。
私は深く頭を下げた。
「此度の件、天つ神の側に非がございます」
隣でホアカリも膝をつき、深く頭を下げる。
「弟ニニギの不始末、兄としてお詫び申し上げます」
「兄が謝るのか」
大山津見神の声が、さらに低くなる。
「娘を返した本人ではなく」
「はい」
ホアカリは、顔を上げなかった。
「本来ならば、弟自身が参り、詫びるべきことです。ですが、今の弟は事の重さを正しく理解しきれておりません」
正直である。
正直すぎる。
だが、この場で取り繕っても意味はない。
「ゆえに、まず兄である私が参りました」
「それで済むと?」
「済むとは思っておりません」
ホアカリの声は、静かだった。
「ただ、逃げるわけにはまいりません」
大山津見神は、しばらく黙っていた。
山の怒りは、消えていない。
だが、ホアカリの言葉を聞く気はあるらしい。
それだけでも、まだよい。
「石長」
大山津見神が、奥へ声をかけた。
静かな衣擦れの音がした。
現れたのは、石長比売――イワナガ姫だった。
岩の姫。
そう呼ばれるにふさわしい姫だった。
ただし、冷たいという意味ではない。
大きく、静かで、揺らがない。
風を受けても、雨を受けても、長くそこに在り続けるもの。
その気配が、彼女にはあった。
泣いてはいなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、静かに座り、私たちを見た。
その静けさが、かえって痛々しかった。
「此度は」
ホアカリが、改めて頭を下げる。
「弟ニニギの無礼により、イワナガ姫を深く傷つけました。兄として、心よりお詫び申し上げます」
イワナガ姫は、しばらくホアカリを見ていた。
責めるでもなく。
嘲るでもなく。
ただ、確かめるように。
「兄君が、謝られるのですか」
穏やかな声だった。
「はい」
「弟君のなさったことを」
「はい」
「それは、お疲れでしょう」
ホアカリが、わずかに言葉を失った。
私も、イワナガ姫を見た。
なるほど。
この姫は、ただ傷ついているだけではない。
見えている。
誰が何のために来たのか。
本来ならば誰が謝るべきなのか。
そして、目の前の男神が、弟の不始末を背負ってここに立っていることも。
すべて分かった上で、そう言っている。
賢い姫だ。
「私はこの通り、見目がよろしいわけではありませんし」
イワナガ姫は、自分の袖をそっと整えた。
その所作は静かで、乱れがない。
「いい機会ですから、これを機に天にでも仕えましょうかね」
その場の空気が、わずかに止まった。
大山津見神の怒りが、さらに深く沈む。
ホアカリは、顔を上げた。
私は、目を細めた。
今の言葉は、ただの自嘲ではない。
嫁ぐことを、諦めたのだ。
少なくとも、そう口にしてみせた。
自分が送り返されたという事実を、これ以上、父神の怒りだけにしないために。
自分の傷を、政治の火種にしすぎないために。
そして、おそらく。
妹の婚姻まで壊さないために。
「……イワナガ姫」
ホアカリの声が、少し変わった。
先ほどまでの、謝罪に来た兄の声ではない。
目の前の姫を、初めて正面から見た男神の声だった。
「はい」
「天に仕えるなどと、おっしゃらないでください」
イワナガ姫は、不思議そうに首を傾げた。
「では、どこに参れと?」
「私のところへ」
大山津見神が、ぴたりと動きを止めた。
オモイカネが、わずかに目を細めた。
私は、ホアカリを見た。
待て。
今、何と言った。
「ホアカリ」
私が低く名を呼ぶと、ホアカリは静かにこちらを見た。
その目は、真剣だった。
冗談ではない。
勢いでもない。
弟の尻拭いだけでもない。
「ツクヨミ大おじ様」
「何だ」
「私は、イワナガ姫を妻に迎えたいと存じます」
早い。
いや、待て。
早い。
だが、ニニギの早さとは違う。
あれは話を聞く前に走り出す早さである。
これは、見た上で決めた早さだ。
「それは、弟の詫びとしてか」
私は確認した。
大山津見神の前である。
イワナガ姫の前である。
ここを曖昧にしてはいけない。
ホアカリは、はっきりと首を振った。
「いいえ」
その声は、静かだった。
「弟の不始末を詫びるために来たことは事実です。ですが、イワナガ姫を妻に望むのは、詫びのためではありません」
イワナガ姫が、目を伏せた。
「……私を、憐れんでおられるのですか」
「いいえ」
即答だった。
「では、父の怒りを収めるためですか」
「それも違います」
「では、何故」
ホアカリは、少しだけ困ったように笑った。
それから、まっすぐにイワナガ姫を見た。
「素朴で、可愛らしい感じではないですか」
私は黙った。
大山津見神も黙った。
イワナガ姫も黙った。
オモイカネだけが、横でわずかに肩を震わせた。
笑うな。
いや、笑いたくなるのは分かる。
だが、今は笑うな。
ホアカリだけが、本気だった。
「どこに不満が?」
私は、思わず額を押さえそうになった。
そうか。
お前。
単純に気に入ったのか。
本当に。
心の底から。
「……変わった御方ですね」
イワナガ姫が、初めて少しだけ視線を逸らした。
耳が、わずかに赤い。
「よく言われます」
「それは、褒め言葉ではないのでは」
「承知しております」
ホアカリは穏やかに答えた。
「ですが、私は本気です」
イワナガ姫は、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は、先ほどまでの諦めとは違っていた。
自分を退けた者の兄が来た。
詫びを述べた。
そして、憐れみでも政治でもなく、妻に望むと言った。
受け止めるには、あまりに急である。
だが、彼女の中で何かが動いたのは分かった。
「ホアカリ」
私は言った。
「本気だな」
「はい」
「手続きは急ぐな」
「……はい」
今、一瞬だけ不服そうだったな。
本気である。
かなり本気である。
「大山津見神」
私は、怒りを沈めた山の神へ向き直った。
「此度のこと、天つ神の側に非があります。まずは、ニニギの無礼を詫びます」
大山津見神は、重い沈黙を返した。
当然だ。
詫びただけで済む話ではない。
「その上で」
私は、ホアカリを見る。
「この者が、イワナガ姫を妻に望むと言っております」
「弟の代わりにか」
大山津見神の声は低かった。
山が鳴るようだった。
ホアカリは一歩前へ出た。
「いいえ」
静かな声だった。
「弟が見なかったものを、私は見ました」
イワナガ姫が、息を呑んだ。
「私は、イワナガ姫を妻に望みます」
ホアカリは、深く頭を下げた。
「どうか、私に改めて願う機会をお与えください」
私は、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
大山津見神の怒りは、まだ消えていない。
イワナガ姫の傷も、消えていない。
ニニギの無礼が、なかったことになるわけでもない。
だが、山の空気が、ほんの少しだけ変わった。
岩に、光が差したように。
「天火明命」
大山津見神が、重々しく言った。
「我が娘は、代わりではない」
「承知しております」
「詫びの品でもない」
「承知しております」
「山の怒りを鎮めるための供物でもない」
「そのように扱うつもりは、ございません」
「ならば」
大山津見神の目が、鋭くなる。
「何として迎える」
ホアカリは、迷わなかった。
「妻として」
静かな声だった。
「私が、この先を共に歩みたいと願う方として」
イワナガ姫は、また視線を逸らした。
今度は、先ほどよりもはっきりと赤い。
……可愛らしい。
なるほど。
ホアカリの言ったことは、分からなくもない。
「石長」
大山津見神が、娘を見る。
「お前はどう思う」
イワナガ姫は、しばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
だが、誰も急かさなかった。
急かしてはいけない。
これは、イワナガ姫の話である。
彼女の行く先を、また誰かが勝手に決めてはいけない。
やがて、イワナガ姫は静かに口を開いた。
「私は、一度返された身です」
「それはニニギの無礼だ」
ホアカリが即座に言った。
「あなたの価値とは関係ありません」
イワナガ姫は、少し驚いたようにホアカリを見た。
ホアカリは真剣だった。
「私が望むのは、返された姫ではありません」
その言葉に、イワナガ姫の指がわずかに震えた。
「イワナガ姫です」
まっすぐな言葉だった。
ニニギのまっすぐさとは違う。
あれは、前しか見ないまっすぐさである。
ホアカリのこれは、目の前の相手を見た上で、そこへ向かうまっすぐさだ。
同じ兄弟で、なぜここまで違う。
「……少し、考える時間をいただいても?」
イワナガ姫が言った。
「もちろんです」
ホアカリは、すぐに頷いた。
「急がせるつもりはありません」
嘘だ。
お前、先ほど一瞬だけ不服そうだっただろう。
だが、口に出さなかっただけ偉い。
「ホアカリ」
「はい」
「顔に出ている」
「申し訳ございません」
出ていた自覚はあったらしい。
イワナガ姫が、ほんの少しだけ笑った。
本当に、わずかな笑みだった。
だが、その場の空気がまた少し変わった。
山の怒りだけではなく、姫の息がそこに戻ったようだった。
「月読命」
大山津見神が、私を見た。
「天つ神の側は、この話をどう扱う」
重い問いである。
ここを誤れば、また火種になる。
「まず、ニニギの無礼とは分けて扱います」
私は答えた。
「イワナガ姫への謝罪は、天つ神の側より正式に行うべきものです。ホアカリの願いは、それとは別に、改めて婚姻の申し入れとして整えます」
「同じ話にしてしまえば、我が娘は詫びとして差し出されることになる」
「そのような形にはさせません」
私ははっきりと言った。
「イワナガ姫が望まぬなら、この婚姻は進めません」
ホアカリが一瞬だけこちらを見た。
分かっている。
お前が本気なのは分かっている。
だが、だからこそ急ぐな。
「ただし」
私は続けた。
「イワナガ姫が望むなら、天つ神の側は礼を尽くし、正式な婚姻として迎えます」
ホアカリが、静かに頭を下げた。
「必ず、礼を尽くします」
大山津見神は、しばらく黙っていた。
やがて、重く息を吐く。
その息で、山の空気が少しだけ緩んだ。
「考える時間は与える」
「ありがとうございます」
ホアカリは深く頭を下げた。
「ただし」
大山津見神の声が再び低くなる。
「ニニギの件は、これで済んだわけではない」
「承知しております」
そこは当然である。
ホアカリがイワナガ姫を妻に望んだからといって、ニニギの無礼が消えるわけではない。
サクヤ姫との婚姻も、別の火種を抱えたままだ。
天と地の関係も、慎重に整え直さねばならない。
やることが多い。
多すぎる。
「オモイカネ」
「うん」
「手続きの筋を整えろ」
「もう考えてる」
「早いな」
「こうなる気はしてた」
「なぜだ」
オモイカネは、ホアカリを見た。
「ホアカリ様が、イワナガ姫をちゃんと見るだろうと思ったから」
私は少しだけ黙った。
嫌な知恵袋である。
こういうところまで読む。
「それと」
オモイカネは、にこりと笑った。
「ツクヨミが、急ぐなって言うところまで」
「黙れ」
「当たったでしょ」
「黙れと言っている」
ホアカリは、イワナガ姫へ向き直った。
「イワナガ姫」
「はい」
「私は、また参ります」
「……はい」
「その時は、弟の兄としてではなく」
ホアカリは、少しだけ表情をやわらげた。
「あなたを妻に望む者として、参ります」
イワナガ姫は、返事をしなかった。
ただ、視線を逸らした。
耳が赤かった。
ホアカリの顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ホアカリ」
「はい」
「今、顔が緩んだ」
「申し訳ございません」
「謝る気がない顔だな」
「申し訳ございません」
まったく同じ口調で言った。
これは駄目だ。
かなり浮かれている。
「大山津見神」
私は、最後にもう一度頭を下げた。
「此度の無礼、改めて天つ神の側より詫びを入れます」
「待っている」
「イワナガ姫」
私が呼ぶと、彼女は静かにこちらを見た。
「はい」
「あなたの言葉を、軽く扱わせはしません」
イワナガ姫の目が、少しだけ揺れた。
「……ありがとうございます」
その声は、先ほどより少しだけやわらかかった。
私たちは、大山津見神の領域を後にした。
山の怒りは、まだ完全には消えていない。
だが、最初のような地を砕く気配は薄れていた。
「ツクヨミ大おじ様」
帰り道、ホアカリが口を開いた。
「何だ」
「手続きは、どの程度急いでもよろしいでしょうか」
「急ぐなと言った」
「承知しております」
「本当に承知しているか」
「はい」
「では、なぜ聞いた」
「最速で礼を尽くす方法を確認したく」
私は額を押さえた。
言い方を変えただけで、急ぐ気ではないか。
「ホアカリ」
「はい」
「本気なのは分かった」
「はい」
「だからこそ、待て」
ホアカリは少しだけ黙った。
そして、静かに頷いた。
「……はい」
その顔は、確かに残念そうだった。
本気である。
かなり本気である。
オモイカネが横で笑っている。
「よかったね、ツクヨミ」
「何がだ」
「弟の尻拭いのはずが、縁談になった」
「よくない」
「でも、悪くないでしょ」
私は黙った。
悪くはない。
確かに、悪くはない。
ニニギが見なかったものを、ホアカリは見た。
それだけでも、この場へ来た意味はあったのかもしれない。
本日のホアカリ。
弟の尻拭いに来る。
そして、イワナガ姫を妻に望む。
最初は、そこまでするとは思わなかった。
だが、違った。
ホアカリは、尻拭いとして婚姻を申し出たのではない。
ただ、見たのだ。
ニニギが見なかったものを。
イワナガ姫という姫を。
追伸。
イワナガ姫は賢い姫である。
自分の傷を、自分だけの問題にも、父神の怒りだけにも、妹の婚姻の火種にもさせまいとしていた。
強い。
静かで、強い。
さらに追伸。
手続きは急ぐなと言った。
ホアカリは不服そうだった。
本気である。
かなり本気である。
さらにさらに追伸。
兄は、弟の尻拭いをするものらしい。
ただし、その尻拭いの先で妻を見つけることもあるらしい。
……解せぬ。
だが、悪くない。




