第7話 ツクヨミおじさまは、だいたい何とかする
私たちは、ツクヨミおじさまの宮で暮らしている。
正確には、暮らしているつもりはない。
一時的にお世話になっているだけだ。
……と、ツクヨミおじさまは言う。
けれど、私たちは知っている。
私たちの布団は、もう決まっている。
私の布団は右から三番目。
ホヒは寝入りが早いので、端。
ヒコネは寝る前に明日の予定を確認するので、書き物台の近く。
イクツは寝る直前まで動こうとするので、壁側。
クスビは静かな場所が好きなので、影の近いところ。
タキリは窓辺。
イチキは明かりが強すぎない場所。
タギツは寝相が水流のように動くので、少し広めのところ。
ツクヨミおじさまは、それを全部覚えている。
それでも、おじさまは言う。
「私は養育係ではない」
けれど、私たちは知っている。
ツクヨミおじさまは、私たちが出かける時に「行ってらっしゃい」と言ってくれる。
帰ってくると、「おかえり」と言ってくれる。
誰かが疲れていれば、夕餉を少し軽くしてくれる。
誰かが眠れなければ、月明かりを少しだけやわらかくしてくれる。
イクツとタギツが走り回れば、「廊下を走るな」と叱る。
ホヒが誰かと仲良くなりすぎて帰ってくるのが遅くなれば、「懐に入りすぎるな」と眉を寄せる。
クスビが境の気配を見すぎて黙り込むと、何も聞かずに温かい茶を置く。
タキリが遠い海の気配に耳を澄ませている時は、部屋を静かにしてくれる。
イチキが花を整えている時は、灯りを強くしすぎない。
そして私が考え込みすぎると、必ず言う。
「ホミミ。今日はもう寝ろ」
だから、ここはきっと、私たちの帰る場所なのだと思う。
ツクヨミおじさまは、すごい御方だ。
そう言うと、おじさまは嫌そうな顔をする。
「やめろ」
きっと、そう言う。
だから私は、本人の前ではあまり言わないようにしている。
けれど、私たちは知っている。
ツクヨミおじさまは、だいたい何とかする。
たとえば、アマテラス様が天岩戸にお隠れになった時。
高天原は大騒ぎだったらしい。
太陽が隠れ、世界が闇になり、神々は泣き、叫び、慌てふためいた。
そんな中で、ツクヨミおじさまは言ったそうだ。
「宴を開け」
短い。
とても短い。
聞いただけなら、少し雑に聞こえる。
けれど、おじさまは知っていた。
アマテラス様は、ああ見えてミーハーである。
外で何か面白そうなことをしていれば、絶対に覗く。
家族だから知っていること。
近くで見ていたから分かること。
その一言を受け取ったのが、オモイカネ様だった。
思金神。
高天原の知恵袋であり、ツクヨミおじさまの友人である。
公の場では、ツクヨミおじさまを「ツクヨミ様」と呼ぶ。
けれど、二人きりになると「ツクヨミ」と呼ぶ。
それを見た時、私は少し驚いた。
でも、ツクヨミおじさまは怒らなかった。
ただ、少し嫌そうな顔をしただけだった。
きっと、そういう距離なのだ。
オモイカネ様は、ツクヨミおじさまの短い言葉を受け取ると、すぐに策へ変えた。
「では、岩戸の前に祭りの場を整えましょう」
そう言って、鏡を用意した。
勾玉を用意した。
祝詞を整えた。
踊り手を呼び、鶏を集め、神々が笑い、歌い、騒げる場を作った。
ツクヨミおじさまは、本質を言う。
オモイカネ様は、それを形にする。
そうして、アマテラス様は岩戸を少し開けた。
高天原に光が戻った。
皆はアマテラス様を讃えた。
もちろん、それは正しい。
太陽が戻ったのだから。
けれど、その裏で、どうすればアマテラス様が外を見るかを知っていたのは、ツクヨミおじさまだ。
そして、その一言を神々が動ける策に変えたのは、オモイカネ様だった。
私は、それを聞いた時、とても不思議な気持ちになった。
すごい御方というのは、強い光で照らす御方だけではないのだと思った。
時には、暗いところで、静かに道を見つける御方もいる。
たとえば、スサノオ様のこともそうだ。
スサノオ様が高天原で暴れた時、ツクヨミおじさまは怒鳴らなかった。
いや、困ってはいたらしい。
とても困っていたらしい。
眉間にしわも寄っていたらしい。
けれど、ただ叱るだけではなかった。
おじさまは考えた。
スサノオ様は強い。
とても強い。
ただ、その力の向きが悪い。
高天原で暴れれば、神々が困る。
海が荒れれば、地上も困る。
ならば、その力を、困っている者を助ける方へ向ければよい。
それで、おじさまは言った。
「出雲へ向かわせろ。あちらにヤマタノオロチという厄介なものがいる」
追放。
そう呼ばれた。
けれど私は、少し違うと思っている。
ツクヨミおじさまは、スサノオ様を捨てたのではない。
スサノオ様の力が、誰かを壊すのではなく、誰かを助ける方へ向かうようにしたのだ。
オモイカネ様は、その言葉を受けて言ったそうだ。
「では、地上への配置転換として整えましょう。高天原から離す理由を立て、出雲の厄災対処と結びつけます」
配置転換。
厄災対処。
書類の言葉は、少し難しい。
でも、意味は分かる。
力のある神を、必要な場所へ送る。
ただ怒って追い払うのではなく、行った先で役目を持たせる。
それは、きっと、とても大事なことだ。
そしてスサノオ様は、ヤマタノオロチを倒した。
姫を救った。
神剣を得た。
……その神剣が瘴気まみれで届いて、またツクヨミおじさまの胃を痛めたことは、ここでは置いておく。
けれど、その時もおじさまは言った。
「浄化して、正式な献上品に整えろ」
これも、短い。
とても短い。
でも、そこには全部が入っている。
瘴気まみれの剣を、そのまま姉上に見せてはいけない。
スサノオ様の詫びを、ただの迷惑な荷にしてはいけない。
地上で得た神剣を、天に納めるなら、儀礼として整えなければならない。
オモイカネ様は、またそれを形にした。
浄化の手順。
封印の布。
献上の文。
神名録への記載。
どの神が祓い、どの神が運び、どの神が姉上へ伝えるか。
一つずつ、整えていった。
ツクヨミおじさまの言葉は、月のようだ。
暗い場所に、必要なところだけ光を落とす。
オモイカネ様の策は、その光の下に敷かれる道のようだ。
どちらか片方だけでは足りない。
本質を見抜く目と、形にする知恵。
その両方があって、初めて神々は動ける。
私は、それを見ているのが好きだ。
もっとも、ツクヨミおじさまは、あまり認めない。
「私は何もしていない」
よく、そう言う。
「面倒事を処理しているだけだ」とも言う。
けれど、それを聞くたびに、私たちは顔を見合わせる。
面倒事を処理できる御方が、どれほど貴重か。
きっと、おじさまは分かっていない。
私たちは、誓約で生まれた。
アマテラス様とスサノオ様の言い争いの中で生まれた。
生まれる前のことも、少しだけ覚えている。
光が強かったこと。
風が荒れていたこと。
大地が震えていたこと。
川面が波立っていたこと。
神々が逃げていたこと。
そして、その間に立っていた月の神がいたこと。
ツクヨミおじさまだ。
後世では、アマテラス様とスサノオ様は川を挟んで向かい合ったことになっているらしい。
けれど、私たちは知っている。
本当に挟んでいたのは、川ではない。
ツクヨミおじさまである。
物理的に。
姉上様とスサノオ様は、清めた注連縄で木の杭に固定されていた。
ツクヨミおじさまは、その間に立っていた。
本当に、間にいた。
そこから、誓約が始まった。
「もう面倒くさいので、神産みで潔白証明してください」
そう言ったのは、おじさまだ。
雑である。
とても雑である。
だが、たぶん、あの時はそれが一番よかった。
口で言い合っても、姉上様とスサノオ様は止まらなかった。
武装を解けと言っても、姉上様は解かなかった。
大地を揺らすなと言っても、スサノオ様は揺らした。
ならば、言葉ではなく、形で示すしかない。
オモイカネ様は、それをすぐに整えた。
「誓約ですね。互いの持ち物を交換し、清め、生まれた神々によって潔白を示す形にすれば、儀礼として成立します」
そうして、私たちは生まれた。
女神三柱。
男神五柱。
合計、八柱。
私たちは、生まれた。
目を開けると、そこにツクヨミおじさまがいた。
疲れた顔をしていた。
とても疲れた顔だった。
けれど、逃げなかった。
私たちを見て、困った顔をした。
それから、少しだけ目を細めた。
その顔を、私は覚えている。
「ツクヨミおじさま」
そう呼んだ時、おじさまは固まった。
「私はお前たちの父ではない」
そう言った。
「母でもない」とも言った。
「提案しただけだ」とも言った。
けれど、私たちは知っている。
生まれたばかりの私たちが不安そうにしていると、おじさまは私たちを月の宮へ連れて帰った。
「ひとまず」と言って。
「一時的に」と言って。
けれど、その「ひとまず」は、もう何日も続いている。
今朝も、私たちは月の宮から出かけた。
「行ってきます」と言った。
おじさまは、「行ってらっしゃい」と言った。
夕方には帰ってきた。
「ただいま帰りました」と言った。
おじさまは、「おかえり」と言った。
それを聞いたオモイカネ様が笑った。
ツクヨミおじさまは、少し怒った。
でも、私たちは嬉しかった。
私は、ツクヨミおじさまの宮で、たくさんのことを学んでいる。
アマテラス様の宮では、光の扱いを学ぶ。
礼法を学ぶ。
高天原を統べる御方の姿を学ぶ。
スサノオ様のところでは、海を学ぶ。
荒れた波を学ぶ。
力の使い方を学ぶ。
けれど、月の宮では、その両方をどう収めるかを学ぶ。
強すぎる光を、どうやわらげるか。
荒れすぎる風を、どう通すか。
怒っている相手に、どう言葉をかけるか。
困っている者に、どう場所を作るか。
神名録をどう整えるか。
食後の器をどう片づけるか。
布団をどう畳むか。
最後の二つは、神として必要なのか少し分からない。
けれど、ツクヨミおじさまは言う。
「自分の使ったものは、自分で片づけろ」
だから、きっと大事なのだと思う。
オモイカネ様は、よく月の宮へ来る。
そして、私たちにいろいろなことを教えてくれる。
「揉め事を収める時は、まず相手を褒める」
「次に、相手の言い分を整理する」
「それから、こちらの要望をそっと差し込む」
「実務上のお願いは、最後に言うと通りやすい」
私たちは、真剣に聞く。
すると、ツクヨミおじさまが言う。
「変な知識を詰め込むな」
オモイカネ様は笑う。
「必要な知識だよ」
「お前の必要は広すぎる」
「褒め言葉として受け取るね」
「褒めていない」
二柱のやり取りは、少し面白い。
とても親しいのだと思う。
オモイカネ様は、ツクヨミおじさまをよく刺す。
言葉で。
ツクヨミおじさまは嫌そうな顔をする。
けれど、追い出さない。
だから、きっと本当に友人なのだ。
ある日、私はオモイカネ様に聞いた。
「オモイカネ様」
「何かな、ホミミ」
「ツクヨミおじさまは、なぜ自分のことをすごいと思っていないのですか」
オモイカネ様は、少しだけ目を丸くした。
それから、楽しそうに笑った。
「それはね、ツクヨミが本当にすごいからだよ」
「本当にすごいと、自分ですごいと思わないのですか」
「そういう神もいるね」
「アマテラス様やスサノオ様とは違いますね」
「うん。あの二柱は、すごさが外に出る」
確かに、そうだ。
アマテラス様は、光で分かる。
スサノオ様は、風と海で分かる。
でも、ツクヨミおじさまは静かだ。
「ツクヨミは、すごさが外に出にくい」
オモイカネ様は言った。
「月だからですか」
「それもあるかもね」
「でも、私たちは分かります」
「そうだね。君たちは近くで見ているから」
私は頷いた。
ツクヨミおじさまは、月のようだ。
太陽のように、すべてを眩しく照らすわけではない。
嵐のように、すべてを動かすわけでもない。
けれど、暗くて迷う時、そこに光がある。
強すぎない。
でも、確かに見える。
その光があるから、歩ける。
私は、そういう神になりたいと思った。
派手でなくてもいい。
名前が長くてもいい。
勝が多すぎてもいい。
……いや、名前は少し短い方がいい。
でも。
誰かが困った時に、道を照らせる神になりたい。
「ホミミ」
その時、ツクヨミおじさまの声がした。
私は顔を上げた。
おじさまが、少し離れたところからこちらを見ている。
「何を書いている」
「日記です」
「日記?」
「はい。ツクヨミおじさまについて」
おじさまは、少しだけ嫌そうな顔をした。
「やめろ」
「なぜですか」
「嫌な予感がする」
「大丈夫です。おじさまがすごい御方だと書いているだけです」
「なおさらやめろ」
私は首を傾げた。
なぜだろう。
本当のことなのに。
「ホミミ」
「はい」
「その日記を、オモイカネに見せるな」
「なぜですか」
「笑うからだ」
「笑うだけですか?」
「たぶん、神名録の備考に何かを書き足す」
それは困るかもしれない。
オモイカネ様の備考は、とても細かい。
寝相。
好物。
得意分野。
感情が荒れた時の対処法。
そして最近は、ツクヨミおじさまについての備考も増えているらしい。
私は少しだけ考えた。
「では、見せません」
「そうしろ」
「でも、書くのは続けます」
「なぜだ」
私は筆を握った。
「いつか、誰かが神々の物語を語る時」
ツクヨミおじさまは、黙って私を見た。
「太陽の御方や、嵐の御方ばかりではなく」
私は、言葉を選んだ。
「夜に静かに立って、皆を支えていた御方のことも、少しくらい残ればよいと思うからです」
おじさまは、しばらく何も言わなかった。
困ったような顔をした。
少し怒ったような顔にも見えた。
少し照れたようにも見えた。
やがて、おじさまは深く息を吐いた。
「……好きにしろ」
「はい」
許された。
たぶん。
その時、廊下の向こうから、タギツの声が響いた。
「ツクヨミおじさま! イクツが走りました!」
すぐにイクツの声もした。
「走ってません! 早歩きです!」
イチキの声が続く。
「早歩きにしては速すぎます!」
ホヒの声もする。
「まず落ち着いて話しましょう」
ヒコネが言う。
「廊下の使用規則を確認するべきです」
クスビが静かに言う。
「足音が境を越えました」
タキリが小さく言う。
「水面が揺れました」
ツクヨミおじさまは、ゆっくりと目を閉じた。
「……お前たち」
声が低い。
けれど、怖くはない。
「良い子は」
八柱が一斉に静かになる。
「廊下を走らない」
「はい!」
私も慌てて返事をした。
おじさまは額を押さえた。
私は日記に書き足す。
本日の私。
ツクヨミおじさまについて書く。
おじさまは「やめろ」と言った。
でも、私は書く。
ツクヨミおじさまは、だいたい何とかする。
アマテラス様の光が強すぎる時も。
スサノオ様の嵐が荒すぎる時も。
神々が困った時も。
私たちが迷った時も。
だいたい、何とかする。
追伸。
おじさまは、自分を養育係ではないと言う。
けれど、今日も私たちを叱り、茶を出し、布団の場所を直していた。
私は、知っている。
それを、たぶん、養育という。




