第6話 八柱、月の宮に住みつく
誓約は終わった。
神は八柱増えた。
大地を揺るがすほどの姉上とスサノオの喧嘩も、ひとまず収まった。
ひとまず。
そう、ひとまずである。
天地が裂けるような気配は消えた。
川面も静まった。
逃げていた神々も、少しずつ戻ってきた。
だが。
「そもそも、あなたが高天原を揺らしながら来るからでしょう」
「俺は挨拶に来ただけだって言ってるだろ!」
「挨拶で大地を震わせる者がありますか」
「気合いだ!」
「その気合いが問題なのです」
「兄上!」
「私を見るな」
言い合いは、終わっていなかった。
姉上は、完全武装こそ解いた。
スサノオも、嵐を起こすほどの気迫は抑えた。
だが、口は止まらない。
太陽神と嵐の神の口論である。
声量だけでも、周囲の神々の胃に悪い。
そして。
生まれたばかりの八柱は、私の後ろで小さく固まっていた。
ホミミが、私の衣の袖を掴む。
「ツクヨミおじさま」
「何だ」
「私たちは、どこにいればよいのでしょう」
その声は、少し不安そうだった。
無理もない。
生まれたばかりである。
その直後に、姉上とスサノオの言い合いを見せられている。
いや、生まれる前から見ていたのかもしれない。
神である。
その辺りは、よく分からない。
だが少なくとも、八柱は今、明らかに困っていた。
私は、姉上とスサノオを見た。
まだ言い合っている。
「あなたは昔からそうです。説明より先に勢いで来る」
「姉上だって、いきなり武装して出てきただろ!」
「高天原を守るためです」
「俺は攻めに来たんじゃねぇ!」
「ならば、大地を揺らさず来なさい」
「だから気合いだって!」
「気合いを抑えなさい」
「無理だ!」
「なぜです」
「俺だからだ!」
「開き直らないでください」
私は、八柱を見た。
全員、不安そうにこちらを見ている。
私は、深く息を吐いた。
「……ひとまず、お前たちは私の宮へ来い」
八柱が、ぱっと顔を上げた。
「よいのですか?」
「ここにいるよりはいい」
本当に、ひとまずのつもりだった。
姉上とスサノオが落ち着くまで。
八柱の正式な扱いが決まるまで。
神名録が整うまで。
一時的に、私の宮で預かる。
それだけのはずだった。
それだけのはず、だったのだ。
だが、数日後。
八柱は、私の宮で普通に暮らしていた。
朝には、ホミミが書庫の整理をしていた。
ホヒは、台所の神々とすっかり仲良くなっていた。
ヒコネは、月の宮の間取りを把握していた。
イクツは、庭を走っていた。
クスビは、縁側で静かに空を見ていた。
三女神は、庭の池のそばにいた。
タキリは、水面の揺れを見ている。
イチキは、供えられた花を整えている。
タギツは、水路の流れを面白そうに眺めている。
おかしい。
ここは私の宮である。
八柱の住まいではない。
「ツクヨミおじさま! ただいま帰りました!」
夕方。
外で学んできた八柱が、元気よくそう言った。
私は筆を止めた。
ただいま。
今、この者たちは、ただいまと言ったか。
ここは私の宮である。
お前たちの家ではない。
そう言おうとした。
言おうとしたが、その前にホミミが丁寧に頭を下げた。
「本日は、アマテラス様の宮で光の扱いと礼法について学んでまいりました」
真面目である。
非常に真面目である。
続いて、ホヒがにこにこと言った。
「神々への挨拶の仕方も教わりました。アマテラス様は、やはり尊い御方ですね」
「そうか」
「ただ、少し眩しかったです」
「……そうか」
分かる。
非常に分かる。
ヒコネは小さな板に何やら書きつけている。
「高天原の各部署の配置を確認しました。後で図にまとめます」
「部署と言うな」
「では、神々の座所一覧と」
「余計に仕事の匂いがする」
イクツは、すでに庭の方を見ていた。
「ツクヨミおじさま、庭を走ってきてもよいですか」
「食事の後にしろ」
「はい!」
返事はよい。
返事はよいが、足が半歩出ている。
「イクツ」
「はい!」
「座れ」
「はい!」
クスビは静かに周囲を見回していた。
「この宮は、境が落ち着いています」
「境?」
「光と影の境です。音も静かです」
そうか。
褒められているのだろう。
たぶん。
三女神も戻ってきた。
タキリは庭の池をのぞき込みながら、静かに言った。
「今日は、スサノオ様のところで海の荒れ方を見ました」
「見ただけか」
「はい。近づくと危ないので」
賢い。
とても賢い。
イチキは少し困ったように笑った。
「スサノオ様は、海を教える時も全力なのですね」
「そうだな」
「船は逃げていました」
「教え方が悪い」
タギツは目を輝かせている。
「でも、波の力はすごかったです! 潮の動きも、ぐわーって!」
「擬音がスサノオに似てきたな」
「えっ」
「直せ」
「はい!」
私は額を押さえた。
八柱は、姉上の宮にも行く。
スサノオのところにも行く。
そこで、それぞれ学ぶ。
姉上のところでは、礼法、光、統治、高天原のあり方。
スサノオのところでは、海、嵐、武、現場での胆力。
それはよい。
非常によい。
姉上にも、スサノオにも、学ぶべきところはある。
問題は、その後である。
夕方になると、八柱は揃って私の宮へ戻ってくる。
そして言う。
「ただいま帰りました!」
完全に自宅の挨拶である。
「お前たち」
私はゆっくりと口を開いた。
「姉上の宮やスサノオのところでは、食事は出ないのか」
「出ます!」
八柱が素直に頷いた。
「では、なぜここで食べる」
八柱は顔を見合わせた。
そして、当然のように口々に言った。
「落ち着くので」
「胃に優しいので」
「豪華すぎないので」
「食べたあと眠くなっても怒られないので」
「本も読めるので」
「分からないところを聞けるので」
「光が強すぎないので」
「急に大地が揺れないので」
私は、しばし沈黙した。
最後の二つは、姉上とスサノオへの感想ではないのか。
いや、分かる。
非常に分かる。
分かってしまうのが嫌である。
「お前たちの父と母だぞ」
つい、そう言ってしまった。
八柱が、ぱちぱちと瞬きをした。
「父と母」
「いや、厳密にはややこしい」
私はすぐに訂正した。
誓約で生まれた神々である。
持ち物の由来や、生まれた順で所属が決まる。
父母という言い方が正しいかは微妙である。
微妙であるが。
「とにかく、姉上とスサノオは、お前たちにとって大事な神だ」
「はい」
「避けているわけではありません」
ホミミが真面目に言った。
「アマテラス様も、スサノオ様も、すごい御方です」
「それはそうだ」
「でも、すごすぎるので」
「……」
「休憩が必要です」
私は何も言えなくなった。
休憩。
なるほど。
姉上は眩しい。
スサノオは荒い。
どちらも偉大で、どちらも強い。
そして、どちらも近くにいると疲れる。
非常に疲れる。
「だから」
タキリが、そっと私の衣の袖を掴んだ。
「ツクヨミおじさまのところで、少し休んでから戻ります」
「戻るのか」
「はい」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんと言うな」
「いいんじゃない、ツクヨミ」
いつの間にか、部屋の隅で茶を飲んでいる者がいた。
オモイカネである。
「いつ来た」
「『ただいま帰りました』あたりから」
「聞いていたなら止めろ」
「面白かったから」
「友人とは、時に止めるものではないのか」
「面白い時は見守るものだよ」
嫌な知恵袋である。
オモイカネは、八柱を見てにこにこしている。
「ここは避難所みたいなものだね」
「私の宮を勝手に避難所にするな」
「でも、必要でしょ?」
私は黙った。
必要ではある。
アマテラスとスサノオの間で生まれた八柱が、どちらか一方に偏らず、落ち着いて育つ場所。
眩しすぎず、荒すぎず。
夜のように静かで、月のようにほどほどに明るい場所。
……なるほど。
私の宮である。
認めたくない。
とても認めたくない。
「それに、この子たちは覚えがいい」
オモイカネは楽しそうに言った。
「五柱は交渉と系譜整理の筋がいい。三女神は潮と風の読みが上手い。教えれば教えるほど吸収する」
「だからといって、私の宮で教えるな」
「静かで集中しやすいから」
「それは私の宮だからだ」
「うん。だから使いやすい」
「使うな」
すると、八柱が一斉に手を上げた。
「ツクヨミおじさま!」
「何だ」
「今日はオモイカネ様が、揉めごとの収め方を教えてくれました!」
「まず相手を褒める!」
「次に相手の言い分を整理する!」
「最後に、こちらの要望をそっと差し込む!」
「実務上のお願いは、最後に言うと通りやすいそうです!」
私はオモイカネを見た。
オモイカネはにこにこしている。
「何を教えている」
「必要なことだよ」
「八柱を何にするつもりだ」
「将来有望な調整役」
「やめろ」
「でも、必要でしょ?」
私は黙った。
必要である。
とても必要である。
高天原には、話の通じる神が必要だった。
とても。
切実に。
「ツクヨミおじさま」
今度はホミミが、少し遠慮がちに口を開いた。
「私たち、ちゃんと役に立ちたいのです」
「……」
「アマテラス様も、スサノオ様も、すごい御方です。でも、すごすぎて、周りが困ることがあります」
ある。
大いにある。
「だから、私たちは、間に入れるようになりたいのです」
私は、何も言えなくなった。
生まれた時から、あの姉弟喧嘩を見ていた八柱である。
反面教師としては、あまりにも強烈だったのだろう。
ああはなるまい。
国を揺らす挨拶はやめよう。
完全武装で身内を迎えるのもやめよう。
何かあったら、まず話し合おう。
ただし、話し合いで駄目ならツクヨミおじさまを呼ぼう。
最後だけおかしい。
呼ぶな。
自分たちで何とかしろ。
そう言いたかった。
だが、八柱は真剣だった。
私は、深く息を吐いた。
「……分かった」
八柱の顔が明るくなる。
「ただし、私の宮に来るなら決まりを守れ」
「はい!」
「食後の器は片付ける」
「はい!」
「書庫の本は元の場所に戻す」
「はい!」
「夜更かしはしない」
「はい!」
「スサノオの真似をして、大声を出さない」
「はい!」
「姉上の真似をして、眩しくならない」
「はい!」
「イクツとタギツは、廊下を走らない」
「はい!」
二柱の返事が、少しだけ遅れた。
「返事が遅い」
「はい!」
今度は早かった。
「オモイカネ」
「何かな」
「変な知識を詰め込みすぎるな」
「必要な知識だけにするよ」
「お前の『必要』は広すぎる」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めていない」
八柱は、楽しそうに笑っている。
静かなはずの私の宮は、少し賑やかになった。
だが、不思議とうるさくはない。
姉上のように眩しすぎることもない。
スサノオのように大地が揺れることもない。
ただ、八柱が本を読み、問い、食事をし、時々オモイカネが余計な知恵を足していく。
悪くはない。
悪くはないが。
夜になった。
八柱は食事をし、風呂に入り、書庫で少し本を読み、やがてそれぞれの布団へ向かった。
布団。
そう。
布団である。
しかも全員分、ある。
「ホミミ」
「はい」
「お前の布団はそちらではない」
「すみません、間違えました」
私は何気なく言った。
本当に、何気なく言った。
その瞬間、オモイカネがにこりと笑った。
「へぇー」
嫌な声だった。
「専用の布団があるんだー?」
私は固まった。
しまった。
「違う」
「何が?」
「そういう意味ではない」
「じゃあ、どういう意味?」
「配置の問題だ」
「配置」
「ホミミは寝相がよい。ホヒは寝入りが早い。ヒコネは寝る前に確認を始める。イクツは寝る直前まで動く。クスビは端が落ち着く。タキリは窓辺がよい。イチキは明かりの調整が必要。タギツは寝相が水流のように動く。だから場所を分けているだけだ」
「詳しいね」
「……」
「すごく詳しいね、ツクヨミ」
私は額を押さえた。
違う。
私は養育係ではない。
子守りの神でもない。
ただ、八柱が毎晩来るので、仕方なく寝床を整え、食事を用意し、書物を揃え、体調を見ているだけである。
……それを世間では、養育と言うのかもしれない。
いや。
認めない。
「ツクヨミおじさま」
ホミミが布団の中から顔を出した。
「何だ」
「明日も、行ってきますを言ってから出てもいいですか?」
私は、しばし沈黙した。
「……好きにしろ」
「はい!」
翌朝。
八柱は、きちんと身支度を整え、私の宮の玄関に並んだ。
「ツクヨミおじさま」
「何だ」
「行ってきます!」
元気な声だった。
私は、無意識に答えていた。
「……行ってらっしゃい」
オモイカネが、横で肩を震わせていた。
笑うな。
夕方。
八柱は、また元気よく戻ってきた。
「ただいま帰りました!」
私は筆を止めた。
「……おかえり」
言ってから、私は固まった。
言ってしまった。
オモイカネが、ついに声を出して笑った。
「ツクヨミ」
「黙れ」
「完全に家だね」
「黙れ」
「月の宮、実家化」
「黙れと言っている」
八柱はにこにこと笑っている。
なぜ嬉しそうなのだ。
私は日記を開いた。
本日の八柱。
昼は姉上とスサノオの宮で学ぶ。
夜は私の宮で寝る。
食事も私の宮。
朝は「行ってきます」。
夕方は「ただいま帰りました」。
私は「行ってらっしゃい」と言った。
さらに「おかえり」とも言った。
完全に自宅の挨拶である。
追伸。
私は夜を治める神である。
家主ではない。
託児所の主でもない。
学舎の主でもない。
避難所の主でもない。
……ないはずである。
さらに追伸。
ホミミの布団は、やはり右から三番目がよい。
本人もよく眠る。
オモイカネには、絶対に言わない。




