第3話 姉上、完全武装する
何故、私はこう忙しいのだろうか。
私は夜の国を治めればよかったはずである。
夜。
月が昇り、星が瞬き、神々も人も眠りにつく、静かな時間。
それを治める。
実に分かりやすい。
実に穏やか。
実に平和。
……だったはずである。
では、どこで間違えたのか。
私は筆を止め、しばし考えた。
ああ。
たぶん、あれだ。
少し、話を遡ろう。
すべての始まりは、スサノオが母上に会いたいと泣き喚き、海を大荒れにさせ、父上がついにぶち切れて追放を言い渡した時のことである。
その前に、スサノオよ。
我らに母はおらぬ。
姉上は父上の左目より生まれた。
私は父上の右目より生まれた。
お前は父上の鼻より生まれた。
つまり、父上が一人で産んだ。
……産んだ、でいいのか?
いや、父上は男神である。
しかし、実際に我らは父上より生まれている。
では、産んだでよいのか。
生んだ?
成った?
発生した?
いや、待て。
この件を深く考えると、神としての存在そのものに疑問が生じる。
やめよう。
細かいことは気にしない。
とにかく、少なくとも我ら三貴神を生んだ母はいない。
だが、スサノオは昔から、理屈で止まる弟ではなかった。
泣く。
喚く。
海が荒れる。
神々が困る。
父上が怒る。
だいたい、いつもの流れである。
「スサノオよ。お前はこの国に住むべきではない」
父上はそう仰った。
追放である。
当然である。
泣き喚くだけならまだいい。
いや、よくはない。
海が荒れる。
山もざわつく。
地も揺れる。
周囲の神々の胃が荒れる。
迷惑の規模が大きい。
父上が怒るのも無理はなかった。
問題は、その後である。
「姉上に、お別れを申し上げてから参ります!」
スサノオはそう言った。
まあ、そこだけ聞けば殊勝である。
追放される前に、姉へ別れを告げたい。
家族としては分からなくもない。
分からなくもないが。
スサノオよ。
お前の『挨拶』は、毎回うるさい。
案の定。
弟が高天原へ向かった瞬間、山川が鳴り、大地が震えた。
私は思った。
挨拶で天地を揺らすな。
当然、その報告は姉上の前に、まず私のところへ来た。
何故か。
知らぬ。
だが、来た。
「ツクヨミ様!」
「今度は何だ」
「スサノオ様が、高天原へ向かっておられます!」
「理由は」
「アマテラス様へ、お別れのご挨拶をなさりたいとのことです!」
「現在の状況は」
「山川が鳴り、大地が震えております!」
私は目を閉じた。
だから。
挨拶で天地を揺らすな。
「すぐに迎えを出せ。姉上にはまだ伝えるな」
「アマテラス様に、でございますか?」
「そうだ。姉上に先に伝えると、話が大きくなる」
姉上は賢い。
責任感が強い。
高天原を守る立場にある。
だからこそ、弟が地を揺らしながら近づいていると聞けば、最悪の事態を想定する。
そして姉上は、最悪の事態を想定した時、迷わない。
「まず私が話す」
私は急ぎ、スサノオのもとへ向かった。
遠くからでも分かる。
うるさい。
気配がうるさい。
山が鳴り、川が震え、空気が荒れている。
その中心に、弟がいた。
「兄上!」
「淑やかに来い」
開口一番、私はそう言った。
スサノオは目を瞬かせた。
「しとやか?」
「そうだ。ゆっくり歩け。大地を揺らすな。山川を鳴らすな。声を抑えろ。両手を見える位置に出せ。姉上を刺激するな」
「俺は挨拶に来ただけだぞ!」
「その挨拶で山川が鳴っている」
「気合いが入っているだけだ!」
「気合いを抜け」
「兄上、俺は姉上に別れを言いに来たんだ」
「分かっている。だからこそ、淑やかにしろと言っている」
「しとやか……」
スサノオは真剣な顔で考え込んだ。
考えるな。
そこは考えるところではない。
ただ静かに歩けばいいだけである。
「分かった。兄上」
「本当に分かったか」
「ああ。つまり、姉上に失礼のないよう、堂々と、正面から、俺の覚悟を見せればいいんだな!」
「違う」
まったく違う。
私が言ったのは、そういうことではない。
だが、その時には遅かった。
スサノオは、妙に背筋を伸ばした。
神妙な顔をした。
足音だけは少し静かになった。
ただし。
気迫が増した。
違う。
そうではない。
なぜ静かにした分、殺気のようなものが濃くなるのだ。
「スサノオ」
「任せろ、兄上」
「任せられない」
その瞬間だった。
「アマテラス様が、お出ましです!」
私は振り返った。
姉上が来た。
完全武装で。
本当に、完全武装で。
髪を結い上げ、勾玉をまとい、弓を手にし、矢を背負い、足元には地を踏みしめる気迫が満ちている。
太陽神の威光が、眩しいを通り越して痛い。
光が刺さる。
圧がある。
殺す気と書いて、ヤル気。
私は思わず呟いた。
「……姉上、マジパネェ」
隣の神がぎょっとした顔でこちらを見た。
「ツ、ツクヨミ様?」
「すまない。口が滑った」
だが、仕方がないだろう。
普段の姉上は、尊く、眩しく、神々の中心に立つ太陽である。
だが今の姉上は違う。
太陽砲である。
照らす気ではない。
焼く気である。
姉上は、凛とした声で言った。
「スサノオ」
「姉上!」
スサノオが一歩前に出た。
大地が、少し震えた。
姉上の目が細くなる。
私は頭を抱えた。
だから。
挨拶で大地を揺らすな。
「何のために高天原へ来たのです」
姉上の声は静かだった。
静かだが、光が鋭い。
「姉上に別れを言いに来た!」
「別れ?」
「俺は母上の国へ行く。その前に、姉上に挨拶をと思って――」
「その挨拶で、なぜ山川が鳴り、大地が震えるのです」
「気合いだ!」
「侵攻の間違いでは?」
「違う!」
「では、なぜそのような気迫で来るのです」
「俺の誠意だ!」
「誠意で大地を揺らす者がありますか」
「……兄上にも言われた」
「当然です」
会話が成立しているようで、していない。
姉上は高天原を守ろうとしている。
スサノオは本当に挨拶へ来ただけのつもりである。
どちらの言い分も、分からなくはない。
分からなくはないが。
姉上は殺す気と書いてヤル気だった。
スサノオは挨拶と書いて威圧だった。
高天原の空気は張り詰め、光と嵐がぶつかり合う直前だった。
姉上の足元に、太陽の熱が集まる。
スサノオの周囲で、風が唸る。
神々が息を呑んだ。
誰も動けない。
当然である。
太陽と嵐が本気でぶつかれば、高天原だけでは済まない。
天が裂ける。
地が揺れる。
海が荒れる。
国が壊れる。
私は、それを見た。
そして思った。
ああ。
これは駄目だ。
「姉上」
「ツクヨミ、下がりなさい」
「スサノオ」
「兄上、止めるな!」
止める。
止めるに決まっている。
止めなければ、誰が後始末をすると思っているのだ。
私である。
間違いなく、私である。
私は静かに息を吐き、懐から神具を取り出した。
祓いの紙扇。
通称、ハリセン。
「良い子は」
まず、姉上の後頭部に一発。
すぱーん。
「寝る時間」
次に、スサノオの後頭部に一発。
すぱーん。
「ということで」
すとん。
姉上が倒れた。
どさり。
スサノオも倒れた。
場が、静まり返った。
私はハリセンを見た。
倒れた姉上を見た。
倒れたスサノオを見た。
周囲の神々を見た。
「……気絶しただけだな?」
神々が、青ざめた顔で頷いた。
「は、はい。おそらく」
「よし」
私は深く頷いた。
「縛れ」
「し、縛るのでございますか!?」
「そうだ。姉上は右の柱。スサノオは左の柱。間に衝立を置け」
「衝立」
「目覚めた瞬間に再戦されては困る」
「か、かしこまりました!」
誤解しないでほしい。
これは拘束ではない。
安全確保である。
たぶん。
使用するのも荒縄ではない。
清めた注連縄である。
神聖である。
神聖ではあるが、縛っていることに変わりはない。
私は一瞬だけ考えた。
三貴神のうち二柱をハリセンで気絶させ、注連縄で柱に縛り付ける月神。
絵面がひどい。
だが、仕方がない。
あのままでは国が壊れていた。
いや、本当に壊れていた。
「ツクヨミ様、この後はいかがいたしましょう」
「目を覚ますまで、しばらく置け」
「よろしいのですか?」
「さすがに、時間を置けば冷静になるだろう」
私はそう言った。
実際、そう思っていた。
姉上は聡明で、責任感の強い太陽神である。
スサノオも、話せば分からない弟ではない。
たぶん。
きっと。
おそらく。
少し時間を置けば、互いに落ち着く。
それから、改めて話し合えばいい。
姉上は、高天原を守るために武装した。
スサノオは、ただ別れの挨拶に来た。
すれ違いである。
ならば、解ける。
そう思っていた。
私は、分かっていなかった。
姉上は、キレると面倒だということを。
そして弟は、思った以上にワガママぷーだったということを。
その時だった。
「ツクヨミ様!」
廊下の向こうから、悲鳴に近い声が響いた。
私は、茶碗に触れた指を止めた。
……今度は何だ。
「アマテラス様とスサノオ様が!」
私は、ゆっくりと目を閉じた。
さすがに、早くないか。




