第2話 その料理、作り方を見せてはいけない
「ツクヨミ様!」
廊下の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
私は、茶碗に触れた指を止めた。
駆け込んできた神の顔色は、先ほどよりも悪い。
姉上の時よりも。
弟の時よりも。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
……今度は何だ。
「アマテラス様より、お呼び出しでございます!」
姉上。
私は目を開けた。
「……姉上が?」
「はい」
「神剣の件か」
「いえ」
違うのか。
ならば何だ。
瘴気まみれの神剣を浄化し、正式な献上品として整え、弟の不器用すぎる詫びを、どうにか美談へ変えたばかりである。
これ以上、何を求められるというのか。
「葦原中国に、保食神という食物を司る神がおられるそうです」
「食物を司る神」
「はい。アマテラス様が、その様子を見てくるよう、ツクヨミ様へお命じです」
私は、無言になった。
出張である。
夜を治めよ。
父上は、確かにそう言った。
黄泉より戻られ、禊をなされた父上――伊邪那岐命は、私にそう命じられた。
夜を治めよ、と。
実に分かりやすい。
夜である。
月が昇り、星が瞬き、神々も人も眠りにつく、静かな時間。
私はそれを治めればよかった。
はずだった。
ところが、いつの間にか話が変わっていた。
太陽に並んで、天のことを治めよ。
……話が大きくなっている。
夜ではなかったのか。
私は夜を治めればよかったのではなかったのか。
なぜ姉上と並んで、天のことを治める話になっているのか。
職務範囲が広がっている。
しかも、誰も説明しない。
「ツクヨミ様?」
「いや」
私は静かに息を吐いた。
「姉上のお命じなら、行くしかあるまい」
断れるわけがない。
姉上である。
太陽である。
眩しい。
そして何より、私は太陽に並んで天のことを治めることになっているらしい。
いつの間にか。
つまり私は、夜を治めつつ、天のことも気にしつつ、姉上と弟の間に入り、時に地上との調整も行う神になったということだ。
中間管理職である。
そんなわけで、今。
私は出張中である。
食事会、なう。
「ツクヨミ様、本日はようこそお越しくださいました」
目の前で、保食神――ウケモチ神が、にこやかに微笑んでいる。
柔らかな笑み。
整えられた席。
並べられた器。
実に丁寧な出迎えだった。
食物を司る神の饗応。
天と地を繋ぐ儀礼。
姉上の代理として、失礼は許されない。
私はツクヨミ。
夜を司り、今やなぜか天のことまで任されている神である。
冷静に。
穏便に。
品位をもって。
そう自分に言い聞かせ、私は席についた。
「本日は、心を込めておもてなしをさせていただきます」
「ありがたく頂戴する」
ここまでは、よかった。
ここまでは。
「まずは、国の幸を」
ウケモチ神は、国に向かって口を開いた。
飯が出た。
「……」
私は黙った。
見間違いだろうか。
いや、見間違いではない。
今、出た。
口から。
「続いて、海の幸を」
ウケモチ神は、今度は海へ向かって口を開いた。
魚が出た。
「……」
私は、さらに黙った。
高天原の空気が遠い。
帰りたい。
「そして、山の幸を」
ウケモチ神は、山へ向かって口を開いた。
獣が出た。
その瞬間、私の視界に虹色の光がかかった。
ありがたい。
高天原の検閲である。
神々しい虹色キラキラモザイクが、そこにあった。
非常にありがたい。
だが、見えないからといって、起きた事実が消えるわけではない。
私は、そっと箸を置いた。
「ウケモチ神」
「はい」
「もてなしの心は分かった」
「まあ!」
「食物を生み出す神徳も分かった」
「ありがとうございます」
「だが」
私は深く息を吸った。
「製造工程を見せるな」
ウケモチ神は、不思議そうに首を傾げた。
「製造工程、でございますか?」
「そうだ」
「ですが、これは私の神徳でございます」
「神徳でも見せるな」
「心を込めたおもてなしを、最初から最後までご覧いただこうと」
「最初から最後まで見せなくていい」
「まあ」
「料理には、見せてよい部分と、見せてはいけない部分がある」
「見せてはいけない部分……」
「ある」
私は真顔で頷いた。
あるのだ。
たとえ神徳であろうと、たとえ豊穣の奇跡であろうと、たとえ国の幸、海の幸、山の幸であろうと。
客の前で見せてはいけないものはある。
それが饗応というものだ。
「しかし、ツクヨミ様」
ウケモチ神は、にこやかに言った。
「まだ、特別な一品が残っております」
「待て」
私は片手を上げた。
「はい?」
「待て」
「せっかくですから、ツクヨミ様のために、最高のおもてなしを」
「待てと言っている」
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
ウケモチ神は、ゆっくりとこちらを向いた。
そして、にこりと笑った。
「心を込めて――」
「やめろ」
「私の神徳のすべてを――」
「やめろと言っている」
「ご覧に――」
限界だった。
私は懐から、神具を取り出した。
名を、祓いの紙扇。
通称、ハリセン。
「せいっ!」
すぱーん。
実に良い音がした。
虹色キラキラモザイクの向こうで、ウケモチ神が目を丸くする。
そして、そのまま後ろへ倒れた。
「……」
「……」
場が静まり返った。
私は、手にしたハリセンを見た。
倒れたウケモチ神を見た。
周囲の神々を見た。
「……気絶しただけだな?」
周囲の神々が、青ざめた顔で頷いた。
「は、はい。おそらく」
「よし。医療班を呼べ」
「か、かしこまりました!」
「それと、料理は一度下げろ。製造工程を見てしまった以上、こちらの胃が持たない」
「かしこまりました!」
私は深く息を吐いた。
危なかった。
本当に危なかった。
姉上の代理として来ておきながら、饗応の場で失礼をするところだった。
いや、ハリセンで叩いた時点で、かなり失礼ではある。
だが。
斬ってはいない。
斬ってはいないのだ。
ここが大事である。
私は斬っていない。
ただ、叩いた。
……今思えば、それも十分まずかった。
ウケモチ神は別室へ運ばれた。
その間、饗応の場には、先ほど生み出された食物だけが残った。
飯。
魚。
獣。
その他、虹色キラキラモザイクの向こうで見えなかった何か。
豊かである。
実に豊かである。
食物を司る神として、ウケモチ神の力は確かなものだった。
問題は、過程である。
「ツクヨミ様、饗応はいかがいたしましょう」
「続行は無理だろう」
「では、中止で?」
「中止だ。ただし、先方への礼は尽くせ。ウケモチ神が目を覚ましたら、もてなしへの感謝は伝える。あと、こちらの非礼も詫びる」
「非礼……」
「ハリセンで叩いた件だ」
「はっ」
神々は慌ただしく動き出した。
私は額を押さえた。
これで、どうにか収まる。
ウケモチ神は気絶しただけ。
私は斬っていない。
饗応は中止。
後日、正式に礼と詫びを入れる。
天と地が揉めることもない。
……そう思っていた時期が、私にもあった。
噂というものは、早い。
特に、悪い噂ほど早い。
ツクヨミが饗応の場で怒った。
ウケモチ神が姿を消した。
大量の食物だけが残された。
そして誰かが言ったらしい。
「ツクヨミ様が、ウケモチ神を斬ったのでは……?」
斬っていない。
叩いた。
ハリセンで。
だが、その訂正が高天原に届く前に、噂は姉上の耳へ入った。
「ツクヨミが、ウケモチ神を斬った?」
姉上の声は、いつもより低かった。
後に聞いた話では、その場の空気が一瞬で冷えたらしい。
太陽神が怒ると、暑いのではない。
冷える。
光が鋭くなるからである。
「正確には、まだ確認中で……!」
報告役の神は、慌てて弁明したらしい。
「では、ウケモチ神は?」
「饗応の場には、お戻りにならず……」
「ツクヨミは?」
「食物を前に、『製造工程を見せるな』と……」
「……」
姉上は沈黙した。
非常にまずい沈黙である。
私はその場にいなかったが、想像できる。
姉上は責任感が強い。
太陽神であり、高天原の中心であり、神々の模範たる御方である。
その姉上の代理として出向いた私が、饗応先で相手の神を斬った。
そう伝わったのなら。
怒る。
当然、怒る。
違うのだ、姉上。
私は斬っていない。
ハリセンで叩いただけである。
……いや、だからといって許されるわけでもないが。
「ツクヨミには、しばらく会いません」
姉上は、静かにそう言ったらしい。
私は後でそれを聞いた。
「……待て」
私は、報告に来た神を見た。
「姉上が、何と?」
「しばらく、ツクヨミ様とはお会いにならないと」
「なぜだ」
「ウケモチ神を斬った件で」
「斬っていない」
「はい」
「私は斬っていない」
「はい」
「ハリセンで叩いた」
「はい」
「気絶した」
「はい」
「それだけだ」
「はい」
「では、なぜ斬ったことになっている」
「噂が、そのように……」
噂。
私は目を閉じた。
噂で太陽と月の関係が壊れるな。
「今すぐ訂正を――」
「恐れながら」
報告役の神が、気まずそうに言った。
「すでに、太陽と月は別々に空へ出るよう、調整が始まっております」
「調整」
「はい。アマテラス様は昼。ツクヨミ様は夜」
「……」
「勤務時間の分離でございます」
私は、しばし沈黙した。
勤務時間。
分離。
なるほど。
私はもともと夜を治めればよかったはずである。
それが、いつの間にか太陽に並んで天を治めることになり、姉上の代理として地上へ出張し、食事会で製造工程を見せられ、ハリセンを振るい、斬ったと誤解され、結果として昼と夜の勤務時間が分けられた。
つまり。
戻った。
最初に戻った。
夜である。
私は、夜を治めることになった。
「……解せぬ」
「ツクヨミ様?」
「いや」
私は、深く息を吐いた。
「父上の命に戻っただけだ。そう考えれば、問題はない」
「では……」
「問題はない」
私は、虚無の顔で言った。
「ただし、訂正はしろ」
「訂正、でございますか」
「そうだ。私はウケモチ神を斬っていない」
「はい」
「ハリセンで叩いた」
「はい」
「そこは正確に伝えろ」
「かしこまりました」
神は一礼し、去っていった。
私は一人、残された。
目の前には、報告書。
隣には、冷めきった茶。
そして、手元には例のハリセン。
私はそれを見つめた。
ハリセンは刃物ではない。
何度見ても刃物ではない。
紙である。
祓いの紙扇である。
たしかに、神具ではある。
だが、刃物ではない。
私は筆を取り、日記に書いた。
本日の私。
姉上の代理として、ウケモチ神の饗応に出席。
食物を司る神徳を見る。
なお、神徳には虹色の検閲が必要だった。
製造工程を見せられる。
耐えきれず、ハリセンで叩く。
ウケモチ神、気絶。
結果。
斬ったことになった。
解せぬ。
追伸。
ハリセンは刃物ではない。
本当に、刃物ではない。
私は筆を置いた。
太陽は昼。
月は夜。
姉上と私は、別々に空へ出ることになった。
これで、しばらく姉上とは顔を合わせずに済む。
姉上が怒っている以上、顔を合わせない方がいいのも確かだ。
時間が経てば、きっと誤解も解ける。
ウケモチ神も目を覚ます。
私が斬っていないことも伝わる。
そして、私はようやく、本来の仕事である夜を治めることに集中できる。
そう。
私は、夜を治めればいい。
静かな夜。
穏やかな夜。
誰にも邪魔されず、月が空に昇る夜。
ようやく、平穏が戻ってきたのだ。
私は、少しだけ安堵して茶に手を伸ばした。
その時だった。
「ツクヨミ様!」
私は、茶碗に触れた指を止めた。
……なぜだ。
私は昼の勤務から外れたはずではないのか。
夜を治めるだけでよくなったはずではないのか。
廊下の向こうから、またしても慌ただしい足音が近づいてくる。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
父上。
夜とは。
「今度は何だ」




