第14話 山の神、娘の酒を醸す
娘を傷つけられた。
そう思った時、山が鳴った。
岩が軋み、木々がざわめき、地の奥で眠っていた怒りが目を覚ました。
我は山の神である。
大山津見神。
山を抱き、山を治め、山に生きるものを守る神である。
ゆえに、我が怒れば山も怒る。
だが、怒りとは厄介なものだ。
正しき怒りであったとしても、荒れれば山を崩す。
ニニギ。
天つ神の御子。
娘二柱を贈った相手。
我が娘、サクヤとイワナガ。
その二柱を共に贈ったのは、ただの婚姻ではなかった。
花のように咲く命。
岩のように長く在る命。
天の血筋が、地に根づき、咲き、長く続くように。
その願いを込めて、二柱を贈った。
それを、ニニギは返した。
イワナガだけを。
見目が美しくない。
そのような言葉で。
怒らぬ父がいるものか。
怒らぬ山があるものか。
我は怒った。
怒り、山も怒った。
そして、山は崩れた。
岩が割れ、土が流れ、田が沈んだ。
その田は、ただの田ではなかった。
天つ神へ差し出すための田ではない。
詫びのための田でもない。
我が、父として用意していた田だった。
もしイワナガが、己の意志で天火明命――ホアカリ殿を選ぶなら。
もしホアカリ殿が、我が娘を詫びでも代わりでもなく、妻として望むなら。
その時、我は山の神として、父として、最上の神酒を持たせるつもりだった。
山の清水を使い。
岩の間を通った水で仕込み。
長く在ることを寿ぐ酒。
花のように咲いて終わるのではなく、岩のように揺らがぬ縁を寿ぐ酒。
そのための稲を育てる田だった。
それが、我の怒りで沈んだ。
愚かである。
ニニギの愚行を怒った我が、娘を祝うための田を崩した。
父として。
山の神として。
これほど愚かなことがあるか。
「……神酒が作れぬ」
そう呟いた時、我の声には怒りだけではなく、悔いが混じっていた。
イワナガは、その横で静かに立っていた。
泣いてはいなかった。
怒鳴りもしなかった。
あの子は、昔からそうだ。
サクヤは花のように笑い、怒り、泣く。
咲くものは、感情も鮮やかだ。
だが、イワナガは違う。
岩のように静かに立つ。
傷ついても、まず周りを見る。
己の傷が誰かの火種にならぬよう、言葉を選ぶ。
それが、父としては痛ましかった。
怒ればよい。
泣けばよい。
父に縋ればよい。
だが、あの子はそうしなかった。
「父上」
静かな声だった。
「いっそ、私の身柄を天つ神へ受け渡す代わりに、一年の猶予を頂いたらどうでしょうか」
その瞬間、我の中で何かが切れた。
「イワナガ」
「私は一度、返された身です」
あの子は淡々と言った。
あまりにも淡々と。
「ならば、今さら惜しまれるものでもありません。天に仕える身となることで、神酒の件を一年待っていただけるなら――」
「そんなことをさせるわけなかろう!」
山が震えた。
また震わせてしまった。
我は、怒りを抑えきれなかった。
だが、あの子は引かなかった。
袖を結び、泥に膝をつき、崩れた土に手をかけた。
「お前がすることではない」
そう言った。
父として、そう言わずにはいられなかった。
だが、イワナガは振り返らなかった。
「では、誰がするのですか」
その言葉に、我は動けなくなった。
「父上が嘆いている間にも、田は沈んでおります」
その通りだった。
嘆いている場合ではなかった。
怒っている場合でもなかった。
崩れたものを前に、立ち尽くしている場合ではなかった。
我は、娘の隣に膝をついた。
山の神である我が。
己の怒りで崩した土へ手をかけた。
「……そうだな」
声が掠れた。
「嘆いている場合ではないな」
それから、山の者たちも動き始めた。
石を運び、木をどかし、水を抜こうとした。
だが、沈んだ田は重かった。
一度崩れた山は、簡単には戻らぬ。
その時だった。
「イワナガ姫」
声がした。
ホアカリ殿だった。
五日ぶりの訪問。
本来なら、座敷で迎えるべきだった。
正式に言葉を交わし、礼を尽くし、娘の意志を確かめるはずだった。
だが、我らは泥にまみれていた。
イワナガも、袖を結び、膝を汚し、手を泥に沈めていた。
「……お見苦しいところを」
娘がそう言いかけるより先に、ホアカリ殿は田を見た。
崩れた山を見た。
土に埋もれた稲を見た。
そして言った。
「何でしょう」
穏やかな声だった。
「力強い場所ですね」
我は、ホアカリ殿を見た。
力強い。
この沈んだ田を。
我の怒りで崩れた場所を。
神酒を造れなくなった、悔いの跡を。
そう呼ぶのか。
「土の奥に、まだ力があります。水も悪くありません。根も、すべて死んだわけではない」
ホアカリ殿は、泥を恐れなかった。
白い衣が汚れることも気にせず、膝をつき、地へ手を当てた。
月読命が低く言った。
「ホアカリ」
「はい」
「分かっているな」
「やりすぎるな、ということですね」
「そうだ」
「努めます」
「努めるではなく、制御しろ」
「はい」
そのやり取りを聞きながら、我はわずかに眉を寄せた。
どうやら月読命は、ホアカリ殿の手綱を握るために来たらしい。
なるほど。
必要だ。
あれほど娘を真っ直ぐに見つめる男神は、止める者がいなければ、確かに少々危うい。
だが、その時のホアカリ殿は静かだった。
地に手を当てたまま、深く息をした。
光が、土へ染み込んだ。
眩しい光ではない。
朝のような光だった。
山の冷えをほどき、沈んだ根を呼び、眠る命を起こす光。
田から芽が出た。
一つ。
二つ。
いくつも。
青々と伸び、葉を広げ、やがて黄金の稲穂となって頭を垂れた。
我は、言葉を失った。
沈んだ田が、立ち上がった。
神酒の田が。
我が娘を祝うための稲が。
「……やはり、天つ神か」
思わず、そう呟いた。
横で、思金神がさらりと言った。
「ホアカリ様は、腐っても天孫ですからね」
沈黙した。
ホアカリ殿が、困ったように笑う。
「オモイカネ様」
「褒めていますよ」
「腐っても、は褒め言葉でしょうか」
「この場合は、かなり」
月読命が額を押さえた。
「言葉を選べ、オモイカネ」
「選んだ結果だよ」
「なお悪い」
言葉は悪い。
確かに悪い。
だが、事実ではあった。
地がまだ力を持っていた。
そこへ、天孫であり豊作に関わる神であるホアカリ殿が手を添えた。
立ち上がらぬ方がおかしい。
そういう理屈なのだろう。
理屈では分かる。
だが、目の前の光景は、理屈だけではなかった。
沈んだ田に、稲穂が立っている。
黄金に揺れている。
まるで、山がもう一度息をしたようだった。
「元々、力強い場所ですからね」
ホアカリ殿は、泥のついた手を見ながら、穏やかに言った。
「少しの力で、立ち上がりました」
少しではない。
少しの力であるものか。
だが、ホアカリ殿はそう言った。
この田が駄目になったのではない。
山が終わったのではない。
まだ力があったから立ち上がったのだと。
その言葉が、イワナガに届いたのが分かった。
娘の手が震えていた。
そして、次の瞬間。
イワナガは、ホアカリ殿に抱きついた。
「ありがとうございます」
声が震えていた。
「ありがとうございます、ホアカリ殿」
我は、動けなかった。
イワナガが。
あの、いつも静かで、己の感情を奥にしまい込む娘が。
泥も、父の目も、天つ神の前であることも忘れて。
ホアカリ殿に抱きついた。
ホアカリ殿は固まっていた。
それから、恐る恐る娘の背に手を添えた。
「いいえ」
その声は、少し上ずっていた。
「貴女の暗い顔は見たくありませんので、このぐらいお安い御用ですよ」
その瞬間、稲穂がさらに実った。
ざわり、と黄金の波が広がる。
「ホアカリ」
月読命の声が飛ぶ。
「はい」
「制御しろ」
「……はい」
稲の実りが、少し落ち着く。
だが、イワナガが顔を上げると、ホアカリ殿の耳が赤くなった。
また稲穂が揺れる。
「ホアカリ」
「申し訳ございません」
「謝るな。制御しろ」
月読命が額を押さえた。
我も額を押さえた。
山の神と月の神が、同じ顔をした瞬間だった。
思金神が肩を震わせていた。
笑うな。
いや、笑いたくなる気持ちは分かる。
イワナガが笑ったのだ。
小さく。
本当に小さく。
だが、確かに。
娘が笑った。
それを見た時、我の中で何かがほどけた。
ニニギに返された娘。
己を天へ差し出そうとした娘。
神酒のために、自分の身柄を使おうとした娘。
その娘が、笑った。
ホアカリ殿の隣で。
「イワナガ」
我は、低く呼んだ。
イワナガは慌てて離れようとした。
だが、ホアカリ殿の袖を掴んだままだった。
気づいて、慌てて手を離す。
ホアカリ殿が、少しだけ残念そうな顔をした。
稲穂が揺れる。
「ホアカリ殿」
我は重々しく言った。
「それ以上、実らせるな」
「申し訳ございません」
「謝るな、制御しろ」
月読命と声が重なった。
この男神、本当に制御する者が必要である。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「イワナガ」
我は、娘を見た。
「お前は、どうしたい」
今度は、山のためではない。
天との約束のためでもない。
我の怒りを鎮めるためでもない。
イワナガ自身へ向けた問いだった。
娘は、ホアカリ殿を見た。
泥のついた衣。
赤い耳。
けれど、まっすぐに娘を見る目。
「私は」
その声は、まだ少し震えていた。
だが、確かだった。
「この方の隣で、この稲が酒になるところを見てみたいです」
ホアカリ殿の周囲の稲が、また少し実った。
「ホアカリ」
月読命の声が飛ぶ。
「申し訳ございません」
「もはや返事の前に制御しろ」
「はい」
我は、深く息を吐いた。
認めるしかあるまい。
その時、心は決まった。
「ただし」
我は、ホアカリ殿を見た。
「我が娘は、山のための代償ではない」
「はい」
ホアカリ殿は、すぐに頭を下げた。
「天との約束の穴埋めでもない」
「承知しております」
「返された姫を拾うのでもない」
「もちろんです」
ホアカリ殿は顔を上げた。
その目は真剣だった。
「私は、イワナガ姫を妻に望みます」
稲穂が、静かに揺れた。
今度は暴走ではなかった。
穏やかな風のようだった。
「この方の強さも、賢さも、静かに立つ姿も、笑った顔も」
一つずつ、言葉を置くように言った。
「すべて、私が見て、望みました」
ならば、よい。
少なくとも、我が娘はもう、誰かの代わりではない。
誰かの詫びでもない。
この男神に、見つけられたのだ。
イワナガとして。
「……ならば、認めるしかあるまい」
そう言うと、娘が息を呑んだ。
ホアカリ殿も、静かに目を見開いた。
月読命が、小さく息を吐く。
「正式な婚姻として、天つ神の側も礼を尽くす」
月読命は言った。
「ニニギの無礼とは分けて扱う。イワナガ姫の意志を第一とする。よいな、ホアカリ」
「はい」
「喜びすぎるな」
「……はい」
「婚礼準備を今すぐ始めるな」
「……はい」
「返事が遅い」
「申し訳ございません」
我は思わず少し笑いそうになった。
なるほど。
ホアカリ殿は、誠実ではある。
だが、かなり強い。
月読命がついていなければ、婚礼の準備で山が埋まりかねない。
それから、神酒を造る日々が始まった。
立ち上がった稲は、見事だった。
ただ実っただけではない。
一粒一粒に、山の力と天の光が宿っていた。
崩れた土を吸い上げた稲。
沈んだ田より立ち上がった稲。
イワナガが泥にまみれて守ろうとした田。
ホアカリ殿の光で実った稲。
我は、その稲を刈らせた。
山の清水で洗わせた。
岩の間を通った水で仕込ませた。
長く在ることを寿ぐ祝詞を添えた。
醸し始めた時から、香りが違った。
山の奥にある清い風。
朝日を受けた稲穂。
濡れた岩の冷たさ。
そして、長く続くものの静けさ。
それらが、酒の中で一つになっていった。
出来上がった神酒を初めて盃に注いだ時、我は悟った。
これは、ただの神酒ではない。
よい酒だ。
いや、よいなどという言葉では足りぬ。
天つ神も、国つ神も、誰もが欲しがる酒になる。
差し出せば、天との関係を整えるにも使えるだろう。
ニニギの無礼で荒れた空気を鎮めるにも、十分すぎるほどの酒だ。
姉神へ献上すれば、天の顔も立つ。
地の神々に振る舞えば、山の力を示せる。
誰もが、この酒を欲しがる。
そういう酒だった。
だが。
我は、盃を見下ろした。
これは、詫びの酒ではない。
これは、娘を傷つけられたことを埋めるための酒ではない。
天つ神の機嫌を取るための酒でもない。
まして、ニニギの愚行をなかったことにするための酒でもない。
これは、イワナガの婚姻に添える酒だ。
岩の寿ぎを持つ娘と、豊作をもたらす天つ神。
崩れた山に稲穂を立てた二柱の縁を寿ぐ酒。
ならば、他の誰にも先に渡すものか。
どれほど欲しがられようと。
どれほど価値があろうと。
この酒は、我が娘のためにある。
我が娘が、返された姫ではなく。
詫びの品でもなく。
山の神が誇りをもって送り出す姫であることを示すためにある。
婚礼の日。
我は、この酒を添える。
イワナガと共に。
いや、違う。
娘を酒に添えるのではない。
酒を、娘の祝いに添えるのだ。
我が娘は、長く在る姫。
岩の寿ぎを持つ姫。
そして今、豊作の神に見初められ、自らその隣を望んだ姫である。
ならば、父としてできることは一つ。
最高の酒を持たせよう。
誰もが欲しがる酒を。
誰にも渡さず。
我が娘の婚姻のためだけに。
「イワナガ」
誰もいない酒殿で、我は静かに呟いた。
「お前は、返された姫などではない」
盃の中で、神酒が淡く光った。
山の水と、天の光と、岩の寿ぎを宿して。
「山が寿ぐ姫だ」
そう言って、我は盃を置いた。
婚礼の準備は、これでよい。
あとは、あの豊作の神が喜びすぎて稲を実らせすぎぬよう、月読命に任せるとしよう。




