第12話 豊作の神、恋でしおれる
ホアカリは、豊作に関わる神である。
天より光をもたらし、地に実りを促し、穀物を育てる。
明るく、穏やかで、過剰ではない。
ほどよく照らし、ほどよく温め、ほどよく育てる。
そういう神だと思っていた。
少なくとも、私はそう思っていた。
……そう思っていた時期が、私にもあった。
「ツクヨミ大おじ様」
五日後。
約束の日が来た。
本来なら、ホアカリは三日に一度、イワナガ姫へ挨拶に行くつもりだった。
だが、私は止めた。
最初の一度だけは五日空けろ、と言った。
返事を急かすな。
婚礼準備を見せるな。
贈り物で囲むな。
仮の髪飾りも作るな。
正式な髪飾りも作るな。
住まいの候補も一旦忘れろ。
そう言い聞かせた。
ホアカリは、耐えた。
たぶん。
かなり耐えた。
月の宮へ現れたホアカリは、いつも通り礼儀正しく、落ち着いて見えた。
だが、足元の草が妙に元気だった。
庭の草が伸びている。
花が咲いている。
なぜか、小さな稲穂のようなものまで頭を垂れている。
ここは月の宮の庭である。
田ではない。
「ホアカリ」
「はい」
「落ち着け」
「落ち着いております」
「足元を見ろ」
ホアカリは足元を見た。
草花が、これでもかというほど生き生きしていた。
季節ではない花まで咲いている。
「……申し訳ございません」
「戻せ」
「はい」
ホアカリは深呼吸した。
すると、草花は少しだけ落ち着いた。
少しだけである。
まだ元気である。
「豊作の神が恋で季節を壊すな」
「申し訳ございません」
「謝るな。制御しろ」
「はい」
返事はよい。
返事はよいのだが、草花はまだ嬉しそうに揺れている。
これは駄目だ。
かなり駄目である。
「ホアカリ」
「はい」
「今日、持って行くものは」
「菓子を一種類だけにいたしました」
「よい」
「天の蜜を少し使い、山の木の実に合うよう整えたものです」
「よい」
「それから、文を」
「よい」
「布は持ってきておりません」
「よい」
「髪飾りも持ってきておりません」
「よい」
「婚礼後の住まいの図も」
「持ってきていたら怒るところだった」
「持ってきておりません」
「よい」
ホアカリは、真面目な顔で頷いた。
本当に、真面目である。
真面目すぎる。
「それと」
私は念のため、最後に確認した。
「イワナガ姫に返事を迫るな」
「はい」
「『妻に』と毎回言うな」
「はい」
「可愛いと連呼するな」
ホアカリが一瞬だけ黙った。
「ホアカリ」
「……はい」
「返事が遅い」
「申し訳ございません」
「言うな」
「心の中では」
「心の中なら、まあよい」
「ありがとうございます」
礼を言うな。
何に礼を言っているのだ。
「それと、断られた時のことも考えておけ」
私がそう言った瞬間だった。
ホアカリの動きが止まった。
「断られ……」
その声は、かすれていた。
次の瞬間。
庭の草花が、しなしなと萎れた。
「……」
「……」
「……お前」
私は、ゆっくりと庭を見た。
先ほどまで元気だった草花が、明らかに元気をなくしている。
花は項垂れ、稲穂らしきものは力なく傾き、葉は湿ったように伏せていた。
「豊作の神ではなかったか」
「申し訳ございません」
「謝るな。戻せ」
「……少し、時間をいただければ」
「今戻せ。月の宮の庭を恋で枯らすな」
ホアカリは深呼吸した。
何度も。
ようやく草花が少し持ち直す。
忙しい。
本当に忙しい。
恋する豊作神は、天候より扱いが難しい。
「ま、まあ」
私は咳払いをした。
「イワナガ姫の返事次第だ」
「はい」
「だから、急かすな」
「はい」
「断られるとは決まっていない」
「はい」
「だが、受けてもらえるとも決まっていない」
草花がまた揺れた。
上がったのか、下がったのか分からない。
「揺れるな」
「申し訳ございません」
「草に言った」
「はい」
ホアカリは、かなり真剣に草を見た。
違う。
お前が制御するのだ。
「ツクヨミ」
横から声がした。
いつの間にか、オモイカネがいた。
「いつからいた」
「庭がしおれたあたりから」
「見ていたなら助言しろ」
「面白くて」
「友人とは、時に助言するものではないのか」
「面白い時は観察するものだよ」
嫌な知恵袋である。
オモイカネは庭を見て、ホアカリを見た。
「ホアカリ」
「はい」
「感情と神力が連動してるね」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいよ。制御法を考えよう」
珍しくまともなことを言った。
「まず、イワナガ姫の前では深呼吸」
「はい」
「返事を急がせない」
「はい」
「断られる想像で草木をしおれさせない」
「はい」
「受け入れられる想像で花を咲かせすぎない」
「はい」
「あと、嬉しくても稲を実らせない」
「……はい」
今、少し迷ったな。
実らせる気だったのか。
「ホアカリ」
「はい」
「今日は、私も同行する」
「お願いいたします」
「オモイカネもだ」
「うん」
「なぜ嬉しそうなのだ」
「だって、面白そうだから」
「面白くない」
「面白いよ」
否定できないのが腹立たしい。
私たちは、大山津見神のもとへ向かった。
道中、ホアカリの足元の草が何度か元気になった。
そのたびに、私は低く名を呼んだ。
「ホアカリ」
「はい」
草が落ち着く。
また少しして、花が咲く。
「ホアカリ」
「はい」
また落ち着く。
犬のしつけか。
いや、豊作神の制御である。
大山津見神の領域に入ると、山の空気は以前より少し落ち着いていた。
怒りはまだ残っている。
当然だ。
ニニギの無礼が消えたわけではない。
だが、地を砕くような怒りではなくなっている。
そこに、私たちは通された。
大山津見神は、相変わらず重い顔をしていた。
山の神である。
存在感が岩のように重い。
「月読命」
「大山津見神」
「また来たか」
「来た」
「そちらの男神もか」
大山津見神の視線がホアカリへ向く。
ホアカリは深く頭を下げた。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「まだ返事はしておらぬぞ」
「承知しております」
「では、何をしに来た」
「まずは、改めて非礼をお詫びに」
ホアカリは、丁寧に頭を下げた。
落ち着いている。
礼儀も正しい。
ここまではよい。
「そして、イワナガ姫のお心を急かすつもりはないことを、お伝えに参りました」
よい。
非常によい。
私は少し安心した。
大山津見神も、少しだけ目を細める。
「本当に急かすつもりはないのか」
「はい」
「三日に一度来ると聞いたが」
私は目を逸らした。
ホアカリも一瞬だけ黙った。
オモイカネが楽しそうにしている。
やめろ。
「……当初は、毎日参るつもりでした」
ホアカリが正直に言った。
正直すぎる。
「月読命に止められました」
「止めた」
私は即座に言った。
「一日おきも止めた」
「それも止めた」
「三日に一度で落ち着いたと」
「……落ち着いたというより、抑え込んだ」
大山津見神は、重く沈黙した。
そして、低く言った。
「月読命」
「何だ」
「天の神々は、ああいう感じで手籠めにするのがやり方か?」
「……それに関しては、本気で謝る」
私は深く頭を下げた。
「だが、あれは手籠めにしようとしているのではない」
「では、何だ」
「そこまで気に入ってしまったらしい」
大山津見神は、ホアカリを見た。
ホアカリは、真剣な顔で控えている。
誠実である。
誠実ではある。
ただし、熱量が高い。
「豊作の神であるホアカリ殿と、我がイワナガが結ばれれば」
大山津見神は、重々しく言った。
「豊作が長く続くという意味では、悪くない」
「そうだな」
「山の恵みと天の実りが結びつく。意味としてもよい」
「そうだな」
「だが」
大山津見神は、少しだけ眉間にしわを寄せた。
「……あれが義理の息子になるのは少し……」
その気持ちは分かる。
非常に分かる。
すると、背後からオモイカネが口を挟んだ。
「ニニギ様が義理の息子になられたことに比べれば、ホアカリ様はかなりましかと思われますが?」
大山津見神が沈黙した。
私も沈黙した。
ホアカリも少しだけ目を伏せた。
反論できない。
本当に、反論できない。
「……確かに」
大山津見神が、重々しく頷いた。
頷くな。
いや、頷くしかないのだが。
「オモイカネ」
「何?」
「事実で刺すな」
「でも、効いたでしょ」
「効けばよいというものではない」
「そうかな」
嫌な知恵袋である。
その時、奥から衣擦れの音がした。
現れたのは、イワナガ姫だった。
静かで、穏やかで、岩のようにそこに在る姫。
以前より少しだけ顔色がよいように見えた。
気のせいかもしれない。
だが、少なくとも前回のような痛々しい諦めだけではなかった。
ホアカリの足元の草が、ふわりと揺れた。
「ホアカリ」
「はい」
「制御しろ」
「はい」
ホアカリは深呼吸した。
草が落ち着く。
イワナガ姫が、少しだけ首を傾げた。
「今のは?」
「お気になさらず」
ホアカリが答えた。
気にするだろう。
普通に気にするだろう。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
ホアカリは、イワナガ姫へ丁寧に頭を下げた。
「お返事を急がせるつもりはございません」
「はい」
「ただ、あなたが健やかでいらっしゃるか、お顔を拝見できればと」
「……はい」
「それから、もしお困りのことがあれば、いつでも私に」
「はい」
「いいえ、今すぐでなくとも」
「はい」
「三日後でも」
「三日後」
「いえ、五日後でも」
「五日後」
「お望みなら、明日でも」
「ホアカリ」
私は低く名を呼んだ。
ホアカリは、はっとした顔でこちらを見た。
「明日は駄目だと言った」
「申し訳ございません」
イワナガ姫は、少しだけ視線を逸らしていた。
耳が赤い。
嫌がってはいない。
嫌がってはいないのだが、明らかに圧されている。
私は額を押さえた。
隣で、大山津見神も額を押さえていた。
山の神と月の神が、同じ顔をしている。
かなり珍しい光景である。
「ホアカリ殿」
イワナガ姫が、静かに言った。
「はい」
ホアカリの返事が、少しだけ明るい。
草が揺れる。
「制御」
「はい」
草が落ち着く。
忙しい。
「そのようにお気遣いいただかずとも、私は大丈夫です」
イワナガ姫は、少し困ったように言った。
「父もおりますし、山の者たちもおります」
「はい」
「ですから、その……毎度、そこまで心配されずとも」
「心配なのです」
即答だった。
草がふわりと伸びた。
「ホアカリ」
「申し訳ございません」
ホアカリは深呼吸した。
イワナガ姫は、ぱちぱちと瞬きをした。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「変わった御方ですね」
「よく言われます」
「それは、前にも聞きました」
「はい」
「本当に、よく言われるのですね」
「はい」
ホアカリは真面目に頷いた。
イワナガ姫の笑みが、少しだけ深くなった。
山の空気が、わずかにやわらぐ。
大山津見神の眉間のしわも、少しだけ緩んだ。
「イワナガ姫」
ホアカリは、改めて言った。
「私は、あなたの返事を急かしたくありません」
「はい」
「ただ、あなたに軽んじられたと思ってほしくありません」
イワナガ姫は、静かにホアカリを見た。
「私は、弟が見なかったものを見ました」
その言葉に、イワナガ姫の指がわずかに動いた。
「岩の寿ぎを持つ姫」
ホアカリの声は、落ち着いていた。
先ほどまでの圧は、少しだけ引いている。
「静かで、強く、長く在る方」
「……」
「私は、その在り方を美しいと思いました」
草花は、揺れなかった。
よし。
今のは、きちんと言えた。
私は心の中で頷いた。
イワナガ姫は、しばらく何も言わなかった。
だが、視線は逸らさなかった。
耳は赤い。
しかし、逃げてはいない。
「……考える時間は、まだいただきます」
「はい」
ホアカリは、すぐに頷いた。
「いくらでも」
「いくらでも?」
「はい」
「では、十年ほど」
ホアカリが固まった。
足元の草が、しなしなと萎れかけた。
「ホアカリ」
「……はい」
「制御」
「はい」
ホアカリは、必死に深呼吸した。
イワナガ姫が、口元を袖で隠した。
笑っている。
大山津見神も、少しだけ驚いたように娘を見た。
「冗談です」
イワナガ姫が言った。
「ホアカリ殿が、あまりにも真剣なお顔をなさるので」
「……」
ホアカリは、しばらく言葉を失っていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「驚きました」
「そのようですね」
「草が、しおれました」
「見えておりました」
「申し訳ございません」
「豊作の神でいらっしゃるのに?」
「はい……」
イワナガ姫は、また少し笑った。
静かな笑みだった。
派手ではない。
だが、確かにそこにある笑み。
ホアカリの目が、明らかに柔らかくなった。
「ホアカリ」
「はい」
「花を咲かせるな」
「……はい」
危ない。
今、咲きかけた。
「大山津見神」
私は低く言った。
「見ての通り、ホアカリはかなり本気です」
「見れば分かる」
「ただし、イワナガ姫の意志を無視するつもりはない」
「それも、まあ分かる」
「圧はあるが」
「あるな」
「かなりあるが」
「かなりある」
ホアカリが少しだけ小さくなった。
「そこは、私とオモイカネで調整する」
「頼む」
大山津見神の声には、疲れが滲んでいた。
山の神を疲れさせるな。
「それと」
大山津見神は、ホアカリを見た。
「三日に一度は多い」
「……はい」
「五日に一度だ」
ホアカリが固まった。
私は目を細める。
「ホアカリ」
「はい」
「耐えろ」
「……はい」
草が、ほんの少しだけしおれた。
「制御」
「はい」
イワナガ姫が、今度ははっきり笑った。
「では、五日に一度」
その一言で、草花が一気に元気になった。
「ホアカリ」
「申し訳ございません」
「戻せ。いや、戻しすぎるな。ほどほどにしろ」
「はい」
本当に忙しい。
だが、悪くない。
イワナガ姫が笑った。
大山津見神の怒りも、少しずつ別のものへ変わり始めている。
まだ許したわけではない。
まだ婚姻が決まったわけでもない。
だが、話ができる。
それだけで、かなり違う。
「オモイカネ」
「うん」
「文面を整え直すぞ」
「五日に一度版だね」
「そうだ」
「贈り物は?」
「菓子一種類」
「布は?」
「なし」
「花は?」
「なし」
ホアカリが少しだけ反応した。
「ホアカリ」
「はい」
「なしだ」
「……はい」
イワナガ姫が、また笑った。
ホアカリは、それだけで満ち足りたような顔をした。
重い。
しかし、可愛げはある。
困ったことに。
帰り道。
ホアカリの周囲の草木は、ほどよく元気だった。
ほどよく、である。
行きよりは制御されている。
少しは学んだらしい。
「ツクヨミ大おじ様」
「何だ」
「五日に一度になりました」
「よかったな」
「はい」
「毎日から五日に一度だ」
「はい」
「かなり減ったな」
「はい……」
少し悲しそうにするな。
「だが、イワナガ姫が笑った」
ホアカリは、静かに言った。
その声は、先ほどまでより落ち着いていた。
「それだけで、十分です」
私は、少しだけホアカリを見た。
本当に、十分だと思っている顔だった。
少なくとも今は。
「ならば、その気持ちを忘れるな」
「はい」
「返事を得ることだけを目的にするな」
「はい」
「イワナガ姫が笑えることを、大切にしろ」
ホアカリは、深く頷いた。
「肝に銘じます」
よい返事だった。
今度は、本当によい返事だ。
「ツクヨミ」
オモイカネが横から言った。
「何だ」
「なんだかんだ、うまくいきそうだね」
「まだ分からん」
「でも、悪くない」
「……そうだな」
悪くない。
本当に、悪くない。
ニニギの無礼から始まった騒動である。
山の神は怒り、イワナガ姫は傷つき、天と地の関係は危うくなった。
だが、その中でホアカリはイワナガ姫を見た。
見目ではなく。
返された姫としてでもなく。
詫びのための相手としてでもなく。
イワナガ姫として。
そこだけは、悪くない。
むしろ、少しよい。
本日のホアカリ。
イワナガ姫に会えると、草木が元気になる。
断られる可能性を考えると、草木がしおれる。
豊作の神とは。
追伸。
大山津見神に、天の神々はああいう感じで手籠めにするのかと聞かれた。
本気で謝った。
さらに追伸。
オモイカネが、ニニギが義理の息子になったことに比べれば、ホアカリの方がましと言った。
反論できなかった。
さらにさらに追伸。
イワナガ姫は、嫌がってはいない。
たぶん。
ただし、かなり圧されている。
ホアカリ。
押すな。
いや、少しは押してもよい。
だが、押し潰すな。
さらにさらにさらに追伸。
訪問は五日に一度になった。
ホアカリは耐えている。
草は少ししおれた。
父上。
夜とは。
恋する豊作神の出力調整も含むのか。




