崩れる防波堤
朝は、これ以上ないほど残酷な快晴だった。
カーテンの隙間から差し込む光が、湊の寝不足の眼球を無慈悲に突き刺す。湊は重い身体を引きずるようにしてベッドから這い出し、いつものルーティンをこなした。一杯の白湯を飲み、制服に袖を通す。鏡に映る自分の顔は、昨日よりも一層険しく、眉間には消えない皺が刻まれていた。
「もう、関わるな」
その言葉で、凪との歪な繋がりをすべて断ち切ったはずだった。彼女がどれほど壊れていようと、どれほど過去を盾に縋り付いてこようと、自分には関係のないことだ。自分は、この静かな生活を守らなければならない。
マンションを出て、駅までの道を歩く。
周囲には同じ制服を着た生徒たちがちらほらと見えたが、そこに凪の姿はなかった。
(……これでいいんだ)
湊は自分に言い聞かせるように、電車の窓に映る自分の無表情な顔を見つめた。凪は賢い。湊が本気で拒絶していると分かれば、プライドの高い彼女のことだ、これ以上の深追いはしないはずだ。
学校に到着し、昇降口を抜ける。
いつものように図書室へ寄ってから教室へ向かおうとした湊の足が、廊下の角で止まった。
前方から、笑い声が聞こえてくる。
「ねえ凪、今日の放課後どうする? 駅前に新しくできたカフェ行かない?」
「あ、ごめん! 今日もちょっと……お勉強しなきゃいけなくて」
取り巻きの女子生徒たちに囲まれ、中心で微笑む凪。
彼女は、湊がすぐ近くにいることに気づいているはずだった。だが、彼女は一度もこちらを見ようとしなかった。湊の言葉通り、完璧に「赤の他人」を演じている。
その徹底した拒絶――いや、「遵守」に、湊は安堵よりも先に、説明のつかない不気味さを感じた。
教室に入ると、空気は奇妙に弛緩していた。
昨日の「家に行く」発言であれほど騒ぎ立てた連中が、今日は湊に一切の関心を示さない。それどころか、湊が席に着いても、凪は自分の机で熱心に英単語帳をめくっている。
(……本当に、諦めたのか?)
授業中も、休み時間も、凪からの接触は一切なかった。
視線が合うことも、背後からあの石鹸の香りが漂ってくることもない。
湊が望んでいた、完璧な「静寂」がそこにはあった。
だが、その静寂は、以前のそれとは何かが決定的に違っていた。以前の静寂は自立した平穏だったが、今のそれは、凪という巨大な質量が「あえて存在を消している」ことによって生み出された、不自然な空白だった。
昼休み。湊は屋上へ続く階段の踊り場で、独りパンを齧っていた。
スマホをチェックしても、やはり凪からの通知はない。連絡先をブロックする必要すらないほど、彼女は静かだった。
湊はふと、昨夜の彼女の肩の震えを思い出した。
『どうして? あんなに優しく教えてくれたのに』
あの時、彼女の瞳に浮かんでいたのは、狂気ではなく、もっと根源的な「孤独」ではなかったか。
「……余計なことを考えるな」
湊は自分を叱咤した。彼女は毒だ。同情という名の隙を見せれば、そこから一気に血管を駆け巡り、脳を侵食する。
放課後のチャイムが鳴った。
湊は、昨日と同じように素早く荷物をまとめる。
凪はといえば、友人たちと談笑しながら、楽しげに教室を出ていった。湊には目もくれず、まるで最初から彼のことなど存在しないかのように。
湊は一人、駅へと向かった。
図書館へ行く必要はない。今日は真っ直ぐ家に帰り、誰にも邪魔されない夜を過ごす。
それが、自分の勝ち取った平穏なのだから。
最寄駅に着き、湊はいつもの道を歩く。
だが、湊の意識は、どうしても昨日の「あの日」の記憶に引きずられていた。
学習室で触れた彼女の体温、耳元で囁かれた掠れた声、そしてあの日のこと。
振り払おうとすればするほど、過去の断片がノイズのように脳内を駆け巡る。周囲の足音も、向こうから来る通行人の視線も、すべてが昨日から続く「不協和音」の一部のように感じられ、湊の感覚はひどく散漫になっていた。
マンションの敷地に入り、オートロックの操作パネルの前に立ったその時。
「……みーくん」
背後から、風が吹くようなか細い声がした。
湊は飛び上がるようにして振り返った。そこには、呼吸を微かに乱し、顔を赤らめた凪が立っていた。
「……お前、なんでここに」
「ずっと、後ろを歩いてたんだよ? 信号待ちのときも、コンビニの前を通ったときも、すぐ後ろにいたのに。みーくん、一度も気づいてくれなかったね」
凪は苦笑いとも、寂しげな笑みとも取れない表情で湊を見つめた。
彼女は学校を出てからずっと、湊に悟られないよう、細心の注意を払って「影」に徹していたのだ。湊が昨日の残響に囚われ、周囲への警戒を疎かにしていた隙を突いて。
「……何の真似だ。学校では『他人のふり』をする約束だろう」
「うん。だから学校では一言も喋らなかったよ。偉いでしょ? ……でも、ここは学校じゃない。みーくんの、お家だもん」
凪が一歩、近づく。
夕闇の中で、彼女の瞳だけが異常なほど輝いて見えた。
「住所、教えないって言ってたけど……歩いてれば分かっちゃうんだね。みーくんが毎日、どんな景色を見て、どんな角を曲がってここに帰るのか。それをなぞるだけで、なんだか……胸がいっぱいになっちゃった」
何か特別な手段を使ったわけではない。ただ、湊の背中を、その視線が届かない死角から、執念だけで追いかけてきたのだ。
「……もう帰れ。警察を呼ぶぞ」
「呼べばいいよ。私、ただ『お兄ちゃんと仲直りしたくてついてきちゃいました』って泣くだけだもん。……それより、みーくん」
凪が湊の袖を、昨日と同じように、だが昨日よりも強く、逃がさないという意思を込めて掴んだ。
「喉、乾いちゃった。一駅分、ずっと歩いてたから。……ねえ、お水だけでいいの。一口飲んだら、ちゃんと帰るから。……ダメかな?」
彼女の唇は乾燥し、少し震えている。
「学校では他人のふり」という約束を逆手に取り、学校外での自分を「正当化」しようとする理屈。
彼女の指先から、冷えた執着が伝わってくる。
湊は、自分の築いた防波堤が、彼女の歩みの前に、音もなく崩れ去っていくのを感じていた。




