共鳴する「喪失」
夜は、深まるほどに冷え込んでいった。
湊は、自分の袖を掴む凪の指先を、忌々しげに見つめた。ここで彼女を突き放し、オートロックの中へ逃げ込み、二度と外へ出ない。それが唯一の正解であることを、湊の脳は痛いほどに理解していた。だが、夕闇に沈むエントランスの前、街灯の頼りない光に照らされた凪の瞳には、拒絶すればその場で消えてしまいそうな、危うい光が宿っていた。
「……飲んだら、すぐに帰れ。二度と後をつけてくるな」
結局、湊の口から出たのは、敗北を認める言葉だった。
目の前で冷たい夜風に吹かれながら肩で息をする彼女の前では、どんな正論も空虚だった。彼女は、湊という存在への渇望という、剥き出しの執念だけでここまで辿り着いたのだ。その重みに、湊の理性は音を立てて軋んでいた。
湊は震える手でカードキーをかざし、重厚な自動ドアを開けた。
凪が、音もなく後ろに続く。エレベーターの中、鏡張りの四角い空間に、二人の姿が映し出された。一言も発さず前を見据える湊と、どこか恍惚とした表情で床の一点を見つめる凪。密閉された空間に、彼女の微かな体温が充満していくようで、湊は眩暈を覚えた。まるで、この狭い箱ごと異世界へ運ばれていくような、そんな錯覚さえ抱いた。
自室のドアを開け、湊はリビングの明かりをつけた。
誰も招き入れることなど想定していない、無機質で清潔な部屋。整理整頓されすぎたその空間に、這いずるようにして自分を追ってきた凪が入り込む。それだけで、湊が数年間かけて積み上げてきた「平穏」という名の城壁が、一箇所、また一箇所と侵食されていく。
「そこに座れ。水を持ってくる」
湊は逃げるようにキッチンへ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。グラスに注ぐ手が、自分でも驚くほど小刻みに震えている。冷たい水の感触が、高ぶった神経をいくらか鎮めてくれることを期待したが、現実は残酷だった。リビングに戻ると、凪はソファの端に、壊れ物を扱うような慎重さで、しかし確かにそこに居場所を占めるように腰を下ろしていた。
「……みーくん、ずっと、一人でここにいたの?」
凪の声は、静寂に満ちた部屋に波紋のように広がった。
「……ああ」
「寂しくなかった? 壁も、机も、全部……なんだか、色がなさすぎて、死んじゃいそう」
凪はふらふらと、壁際に並んだ専門書だらけの本棚に視線を投げた。そこには、湊が「湊」として生きるために必要だった、合理性と学問の記録が並んでいる。彼女の存在そのものが、その合理性を真っ向から否定しているように見えた。
「……水だ。飲んだら帰れ」
湊はテーブルにグラスを置いた。凪はゆっくりと手を伸ばし、グラスを両手で包み込むようにして持ち上げた。そして、湊の視線を逃さないようにしながら、一口ずつ、喉の渇きを癒すというよりは、湊の提供したものを体内に刻み込むようにして飲んでいく。ごくり、という嚥下の音が、静まり返った部屋に不自然なほど生々しく響き、湊の耳を打った。
グラスが空になり、テーブルに置かれた。
カツン、という小さな乾いた音が、張り詰めていた空気の均衡を壊す合図だった。
「……っ、う、あああああ……っ!」
突如、凪の目から、大粒の涙が溢れ出した。
それは今まで必死に自分を繋ぎ止めていた何かが、限界を迎えてぷつりと断ち切れたような、激しい慟哭だった。
「凪……!? おい、何を」
「やだ……っ、もう、目の前からいなくならないで……っ! お願い、みーくん、私を一人にしないで……!」
凪はソファから崩れ落ちるように床に膝をつき、湊の足元に縋り付いた。
しゃくり上げるたびに、彼女の細い肩が激しく波打つ。制服の生地越しに伝わってくる彼女の熱量は、先ほどまでの冷たい夜風とは対照的に、焼けるように熱かった。
「学校で、私を見てくれないのが、本当に怖かったの……っ。また、あの日みたいに、私の前から消えちゃうんじゃないかって思って……っ。無視しないで……お願い、みーくん、お願い……!」
顔をぐちゃぐちゃにして泣き叫ぶその姿には、かつて「家族」という形を失った時の、あの幼い少女の面影が、呪いのように深く刻まれていた。これは計算された誘惑でも、緻密な罠でもない。
彼女もまた、湊と同じ、あるいはそれ以上に深い「喪失」のトラウマを抱えていた。
五年前。一番大好きな義兄であり、幼い恋心を寄せていた唯一の異性であった湊と、親の都合で引き裂かれたあの日。凪にとって、世界から色が消えたのはその瞬間だった。湊を失ったあの日から、彼女の時間は止まり、ただ空虚を埋めるためだけに「完璧な少女」を演じ続けてきたのだ。
ただ、暗闇の中で独りになることを死ぬほど恐れ、光である湊の影を追いかけ続けてきた、一人の壊れた少女の、剥き出しの悲鳴だった。
「無視しないで……お願い……!どんなに冷たくされてもいい。後ろを歩いてるだけでいいから……。私を置いていかないで、どこにも行かないで……!」
湊のズボンの裾が、彼女の涙で瞬く間に濡れていく。
湊は、振り払うことができなかった。
彼女が泣き叫んでいるのは、今この瞬間のことだけではない。離れ離れになっていた五年間、ずっと一人で抱え込んできた「大好きな人を失った痛み」を、今ようやく、その本人の前で吐き出しているのだ。
彼女の熱い涙と、しがみついてくる指先の震え。それは、湊が意識の奥底に封印し、忘れたふりをし続けてきた「失う恐怖」という名の記憶を、容赦なく抉り出していく。彼女の慟哭は、湊自身の内側にあった「かつての優しさ」を呼び起こし、彼を内側から崩壊させていく。
失うのが怖いから遠ざけてきた湊と、失った痛みから逃れるために執着する凪。
二つの欠落した魂が、この無機質な部屋で、激しく共鳴していた。
「……わかった。わかったから……もう、泣くな」
湊は立ち尽くしたまま、絞り出すようにそう言った。
一度彼女を受け入れてしまえば、もう二度と、あの「安全で孤独な平穏」には戻れない。いつかまた訪れるかもしれない喪失の恐怖に、一生怯え続けることになるだろう。
それでも、自分に縋り付いて、子供のように顔を濡らしている彼女を放り出すことは、もうできなかった。
窓の外では、春の夜風が激しさを増し、窓ガラスをガタガタと震わせていた。
湊が守り抜いてきたはずの日常。それは今、目の前で泣きじゃくる少女の、五年越しの痛切な叫びによって、跡形もなく塗り替えられた。
「もう……どこにも、行かないよ」
湊の手が、ためらいを捨てて、彼女の震える背中に触れた。
応援よろしくお願いします




