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ふたりのシェルター

マンションの一室。

 遮光カーテンが夜風に膨らみ、サッシの隙間から入り込む冷気が、無機質なフローリングを這う。リビングのシーリングライトは、この場に相応しくないほど白々と二人を照らし、壁に落ちた二人の影は、まるで一つの巨大な怪物のようにもつれ合っていた。


 湊の足元で崩れ落ちた凪の身体は、いまだに細い痙攣を繰り返している。湊のズボンの裾を掴む彼女の指先。白く浮き上がった関節。それは、激流の中で唯一見つけた流木を、決して離すまいとする遭難者のそれだった。


 湊は動けなかった。

 背中に回した自分の手のひらから、凪の震えが、彼女の絶望が、拍動のように伝わってくる。彼女の流す熱い涙が、湊の膝から皮膚へと浸透し、まるで自分の体液が外へ漏れ出しているような、あるいは彼女の痛みが自分の内側へと逆流してくるような錯覚に陥る。


 湊が他人と関わらないように生きてきたのは、けっして彼が冷淡だからではない。むしろ、その逆だ。一度でも他人の熱に触れれば、それを失ったときの氷のような静寂に耐えられないことを、彼は幼い頃から本能的に理解していた。仲良くならなければ、失う痛みもない。深く愛さなければ、裏切られたときの傷も浅くて済む。この無彩色で、整然とした部屋は、彼が自分を守るために築き上げた、傷つかないための「孤独という名のシェルター」だったのだ。


 だが今、そのシェルターの最深部に、最も遠ざけたかったはずの存在が入り込み、その中心で「喪失」という名の爆弾を破裂させていた。


「お兄ちゃん……。みーくん、お願い……。私のこと、もう二度と、一人にしないで……。あの日、車が走り出したとき、私、本当に死んじゃいたかったんだよ……っ」


 凪が、濡れた顔を湊の膝に押し付け、掠れた声でこぼした。

 その言葉は、湊が五年間、意識の奥底に重石を沈めて封印してきた罪悪感を、一寸の狂いもなく射抜いた。あの日、引き裂かれる自分たちをただ見ていることしかできなかった無力な少年。彼女の泣き声から逃げるようにして、心を閉ざした自分の卑怯さ。彼女の慟哭は、湊が守り抜いてきた「偽りの平穏」を、根底から瓦解させるに十分な威力を持っていた。


 彼女もまた、湊と同じ、あるいはそれ以上に深い「喪失」のトラウマに苛まれていたのだ。

 五年前。一番大好きな義兄であり、幼い恋心を寄せていた唯一の異性であった湊。歪な家庭環境の中で、唯一自分を「凪」として見てくれた光。それを奪われたあの日から、彼女の時間は止まっていた。鏡の前で完璧な少女を演じ、成績を上げ、周囲を欺きながら、彼女の魂はあの日、湊と別れた雪道に立ち尽くしたままだった。


「……お願い、みーくん、お願い…… 」


 湊の指が、ためらいながらも、彼女の濡れた髪に触れた。

 サラリとした指通りの中に、外の埃と、彼女の焦燥した熱が混じっている。その生々しさに、湊は吐き気すら覚えるほどの恐怖を感じた。このまま彼女を受け入れてしまえば、もう二度と「安全な孤独」には戻れない。いつかまた訪れるかもしれない喪失の予感に、一生、内臓を削られながら生きることになる。


 それでも。

 自分に縋り付き、子供のように顔を濡らしている彼女を、今この瞬間に放り出すことは、湊の僅かに残った「人間」としての機能を麻痺させた。


「……わかった。わかったから……もう、泣くな、凪」


 湊はゆっくりと膝をつき、彼女と同じ高さで床に座り込んだ。

 震える彼女の身体を、今度は両腕でしっかりと抱き寄せる。石鹸の香りと、涙の匂い。そして、長時間の尾行による汗と夜気の混ざった、あまりに生々しい「人間」の匂い。湊の胸の中に、彼女の華奢な骨格が沈み込み、重なる。


「……ああ。悪かった。……すまなかった、凪」


 その一言が、湊の最後の防波堤だった。

 それを口にした瞬間、湊の中で何かがぷつりと音を立てて切れた。それは、彼が五年間、誰にも触れさせず、自分でも見ないようにしてきた「愛着」という名の急所だった。


 凪の激しい慟哭は、湊の腕の中で次第に小さなしゃくり上げへと変わっていった。緊張の糸が完全に切れたことで、極限まで張り詰めていた彼女の精神が、安堵という名の底なし沼に沈んでいく。


「……ねえ、みーくん。……今夜は、帰したくないって、言って?」


 顔を上げた凪の瞳は、涙で潤み、真っ赤に充血していた。だが、その奥にある光は、獲物を仕留めた確信と、湊を自分と同じ泥濘へ引きずり込んだ悦びに満ちているようにも見えた。彼女の指が、湊の首筋に触れる。冷え切っていたはずの指先は、今や湊の動悸を煽るように熱い。


「……もう夜だから。……こんな時間に帰すのは、危ないだろ。……泊まっていけ」


 湊は、自分でも驚くほど空虚で、それでいてひどく湿った声で答えた。

 それは理屈による判断ではなく、もはや生存本能に近い譲歩だった。彼女を追い出すエネルギーは、もう今の湊には一滴も残っていない。


「うん。……ありがとう、お兄ちゃん」


 凪は、湊の首に両腕を回し、その胸に深く顔を埋めた。

 先ほどまでの嵐のような慟哭は影を潜め、彼女の呼吸は次第に穏やかなリズムを刻み始める。湊は、自分の腕の中に収まるその小さな体温を感じながら、ただ静かに彼女の背中を撫で続けた。


かつて、この部屋にあった「静寂」は、他人を拒絶することで成り立つ冷たく無機質なものだった。しかし今、この部屋を満たしているのは、二人の体温が混ざり合い、湿り気を帯びた、ひどく柔らかな静寂だった。


湊は、自分が何を失い、何を受け入れてしまったのかを考えるのをやめた。明日になればまた学校へ行き、演じなければならない役割があることも、今は遠い世界の出来事のように思えた。ただ、この瞬間に腕の中で震えを止めた少女を、これ以上傷つけないこと。そのことだけが、湊に残された唯一の義務であるかのように感じられた。


「……疲れただろ。少し休め」

「……うん。どこにも、行かない?」

「ああ。ここにいるよ。……ずっと、ここに」

「……ありがとう、お兄ちゃん」


湊の声は、凪を包み込む毛布のように、優しくリビングに響いた。

 凪は湊の胸に頬を寄せたまま、満足そうに小さく呟いた。彼女の髪から漂う微かな香りが、湊の意識をゆっくりと、しかし確実に支配していく。


窓の外、春の砂嵐は依然として吹き荒れていたが、分厚い壁に隔てられたこの部屋だけは、世界の終わりから切り取られたかのような平穏に包まれていた。

 湊は、彼女の背中を優しく叩く手の動きを止めなかった。それが彼女を慰める唯一の手段であり、同時に、自分自身の空虚を埋めるための儀式でもあったから。


二人は、床に座り込んだまま、寄り添い合って動かなかった。

 暗闇に沈みゆく部屋の中で、ただ二人の心臓の音だけが、静かに重なり合っていた。

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