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またあなたと一緒に


 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 湊は、リビングのフローリングに座り込んだまま、浅い眠りと覚醒の境界を漂っていた。背中を預けているソファの縁が硬く、身体の節々が強張っている。だが、腕の中に収まる確かな熱量と、規則正しくなった凪の寝息が、ここが夢の中ではないことを冷酷に、あるいは慈悲深く教えていた。


 窓の外の風は、いつの間にか凪いでいた。

 カーテンの隙間から差し込み始めたのは、青白く、冷たい未明の光だ。その光が、湊の無機質な部屋を少しずつ浮き彫りにしていく。昨夜、凪が置いたまま空のグラス。彼女の甘いにおい。そして、湊のシャツを濡らし、今は乾いてゴワついている涙の跡。


 湊は、腕の中の少女を静かに見下ろした。

 眠りに落ちた凪の顔は、昨日の学校で見せていたあの仮面のような微笑とも、先ほどまでの激しい慟哭とも違う、ただの幼い子供のようだった。少しだけ開いた唇から漏れる吐息が、湊の鎖骨のあたりをくすぐる。

 

 五年前、家族という形が壊れたあの日。

 湊は、こうして彼女を抱きしめることを、自分から放棄したのだ。失うことが怖くて、繋がっていることの重圧から逃げるために、彼女を一人、暗闇の中に置き去りにした。仲良くならなければ、失う痛みもない。そう信じて、心を殺してきた。だが、その結果として彼女の中に植え付けた孤独が、これほどまでに深く、重いものだとは思い至らなかった。

「……すまなかったな」

 届くはずのない謝罪が、湊の唇から零れ落ちた。その言葉は、凪への贖罪であると同時に、孤独に耐えきれず鎧を脱ぎ捨ててしまった自分への言い訳でもあった。


 湊がわずかに身じろぎをすると、凪が「ん……」と小さな声を漏らし、さらに深く湊の懐に顔を埋めた。彼女の指先は、眠りの中でも湊のシャツを固く握りしめたままだ。ほどこうとすれば、彼女は再びあの絶望の淵へ戻ってしまうだろう。彼女の指の強さは、そのまま「二度と離さない」という、祈りに似た呪縛の強さでもあった。


湊が数年かけて守り抜いてきた「誰にも依存しない、静かで清潔な人生」は、この一夜を境に修復不可能なほど歪み、塗り替えられてしまった。

 だが、湊の心にあるのは、不思議なほどの静寂だった。

 かつての孤独な、冷たい静寂とは違う。嵐が過ぎ去った後の、重苦しくもどこか安らかな静寂。彼女の痛みを受け入れ、自分の弱さを認めてしまったことで、張り詰めていた緊張の糸が解けてしまったのかもしれない。


「……みーくん」

 凪が、目を閉じたまま、掠れた声で呟いた。

「……起きたのか」

「起きたくない。……このまま、時間が止まっちゃえばいいのに。朝が来て、また私が『誰でもない人』に戻らなきゃいけないなら、一生このままでいい」


 凪は顔を上げないまま、湊の心音を確かめるように胸に耳を押し当てた。

「学校に行きたくない。みーくんが遠くにいるのを見るのは、もう嫌。ずっと、ここにいたい。みーくんの匂いの中に、溶けてなくなっちゃいたい」


その震える声が、湊の胸板を通して鼓動に直接響いた。

 昨夜までの彼なら、これを「依存」や「執着」と呼び、拒絶の言葉を並べていたはずだ。しかし、一晩かけて注がれた彼女の涙と熱が、湊の心に厚く張り付いていた防衛心という名の氷を、静かに溶かし去っていた。


「……ああ。俺も、もう嫌だ」


湊の口から漏れたのは、自分でも驚くほど素直な、本音の吐息だった。

 他人を遠ざけ、整然とした静寂の中に一人でいることは、確かに「安全」だった。だが、それは生きていながら死んでいるのと変わらなかった。凪のいない五年間、自分がいかに薄暗い底で呼吸を止めていたか。彼女の震える指先に触れ、その痛切な叫びを聞いた今、もう元の「孤独なシェルター」には戻れないことを、湊は確信していた。


「みーくん……?」

 凪が驚いたように、ようやく顔を上げた。涙で縁取られた瞳が、湊を不安げに見つめる。

「……また、一緒にいたい。お前と」


湊は、凪の頬に残った涙の痕を親指でそっとなぞった。

 彼女を突き放すことが「正解」だとしても、その正解の先に待つ未来に、もはや湊の居場所はなかった。失うことが怖いから遠ざけるのではない。失うことが死ぬほど怖いからこそ、もう二度と、自分の視界から彼女を消さないように、この腕の中に閉じ込めておく。そんな歪で、けれど湊にとって唯一の、切実な救済がそこにはあった。


「いいの……? 本当に、いいの? また、あの時みたいに、私の隣にいてくれるの?」

「……もう、離さない。……また一人になるのはもう耐えられない」


湊は、彼女を抱き寄せる腕に、これ以上ないほど力を込めた。

 自律心も、理性も、世間の目も、この薄暗い光の中ではもはや塵に等しい。自分に縋り、震えながら救いを求めているこの温もりを、これ以上冷たくしたくない。その一点だけが、今の湊にとって、この世界で唯一の、確かな真実だった。


窓の外、太陽が街を少しずつ白く塗り潰し始め、日常という名の騒音が遠くで聞こえ始める。

 湊は、ほどけない指先と、混じり合う二人の体温を噛み締めながら、かつての「お兄ちゃん」に戻るのではなく、もっと深い、逃げ場のない関係性へと足を踏み入れていた。


そこにはもう、自分を守るための壁はない。

 あるのは、お互いの消えない傷口を舐め合い、埋め合うような、深く、泥濘のような愛着だけだ。

 失うことが怖いからこそ、もう一瞬たりとも手放すことができない。そんな矛盾した愛情が、未明の部屋を、かつてないほどの熱量で満たしていく。


「みーくん……もう離れないでね」

「……ああ」


湊はそう答えて、彼女の額にそっと自分の額を預けた。



朝日がカーテンを透過し、二人の姿を黄金色に縁取る。

 それは新しい一日の始まりを告げる光であると同時に、二人を繋ぐ鎖をより強固に焼き付ける、残酷で温かな灯火でもあった。

 湊は、腕の中でようやく安らかな笑みを浮かべた凪を見つめながら、一緒にいたい、話したくないと強く思った。

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