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共犯者


 カーテンの隙間から差し込む光が、湊の視界を白く焼き付かせていた。

 フローリングに座り込んだままの身体は、石のように重く、節々が鈍い悲鳴を上げている。けれど、腕の中に収まる凪の柔らかな重みと、重なり合う額から伝わる彼女の確かな体温が、湊をこの現実へと繋ぎ止めていた。


 湊は、腕の中でようやく安らかな笑みを浮かべた凪を、ただじっと見つめていた。

(……離したくない。もう、絶対に)

 その思いは、もはや理屈や道徳を超えていた。五年間、必死に守り抜いてきたはずの「自分一人の静寂」が、今では砂の城のように脆く、価値のないものに思える。彼女がいない五年間、自分はどうやって息をしていたのだろうか。今の湊にとって、凪という熱源を失うことは、再びあの無酸素の深海へと沈むことと同義だった。


「みーくん……起きてる?」

 額を合わせたまま、凪が囁いた。その瞳は、涙の腫れを微かに残しながらも、春の陽光を反射して、湊の心臓を抉るほどに澄み渡っている。

「……ああ。起きてるよ」

「よかった。夢じゃなかった……。朝になっても、みーくんが隣にいる」


 凪は、湊の首筋に再び腕を回し、まるで彼の存在を確認するようにぎゅっと力を込めた。湊もまた、彼女の華奢な背中に手を添え、その感触を指先に刻み込む。


「……今日は、土曜日だな」

 湊が掠れた声で呟くと、凪の顔にぱっと明るい色が差した。

「……本当? 授業、ないの?」

「ああ。休みだ。急いでどこかへ行く必要も、誰かに会う必要もない」


 その事実が、二人を包む空気をさらに濃密なものに変えた。カレンダーという社会的な鎖から解き放たれた時間は、凪という巨大な引力に引き寄せられ、この四畳半のリビングだけに停滞し始める。今この部屋を満たしているのは、壊れた二人だけが共有できる、純粋で濃密な「共犯関係」の空気だけだった。


 湊は、腕の中の凪を抱き上げ、重い足取りでソファへと移動した。痺れた足がふらついたが、彼女を離すまいとする意思が、それを支えた。ソファに二人並んで座り、凪は湊の胸に深く顔を埋めた。


「みーくん……。さっきの言葉、嘘じゃないよね? もう離さないって……一人になるのは耐えられないって……」

「嘘じゃない。……俺のほうが、お前に依存してるのかもしれない」

 湊は自嘲気味に笑い、凪の肩を強く抱きしめた。

「お前を追い出して一人でこの部屋にいる想像をしただけで、吐き気がした。……五年前、俺たちが引き裂かれたとき、俺は自分の心に蓋をして逃げたんだ。でも、お前が昨日、ここまで来たのを見て……あの日、俺がなくしたのは、俺自身の魂だったんだって気づいた」


 凪の肩が、小さく震えた。

「私もだよ。……お淑やかな凪ちゃんを演じるのは、もう限界だった。みんなが望む『完璧な娘』になれば、いつか報われると思ってたけど……。みーくんがいない世界で、何を積み上げても、全部ゴミみたいに思えちゃって」


 凪は湊を見上げ、その瞳に強い光を宿した。

「ねえ、みーくん。……私、もうあの家には帰りたくない。お母さんの期待に応えるだけの、人形みたいな毎日は嫌。……ここに、居させて? 学校が終わったら、毎日ここへ帰ってきてもいい?」


 湊は一瞬、戸惑った。それは世間一般で言えば「家出」であり、法や倫理を揺るがす重大な決断だ。しかし、今の湊に彼女を拒む選択肢など、端から存在しなかった。

「……ああ。いいよ」

「本当……?」

「一緒に暮らそう」


 その言葉が湊の唇から出た瞬間、お互いの心の穴が埋まったような気がした。

「ほんとに……? みーくんと、ずっと一緒にいられるの……?」

「ああ。……お前の部屋は、そこの寝室を使えばいい。俺はリビングでもどこでも寝る。……食費も、光熱費も、俺がなんとかする。お前はただ、俺のそばにいてくれればいい。もう二度と、あの日みたいに不意にいなくなるようなことがないように……鍵も、合鍵を作って渡す」


 凪の瞳から、再び涙が溢れ出した。けれど、それは昨夜の絶望の色ではなく、救済を見つけた者の、光り輝く雫だった。

「……いいの? 本当に、わがまま言ってもいいの……?」

「わがままじゃない。これは、俺たちの権利だ。……五年間奪われてきた時間を取り戻すための」


 湊は凪の涙を指ですくい、そのまま彼女の頬を包み込んだ。

「親には、適当な理由をつけておけ。……あるいは、何も言わなくてもいい。俺が守る。お前の母親も、俺の父親も、もう俺たちの間には入らせない」


 かつての「お兄ちゃん」としての優しさではない。一人の男として、あるいは一人の孤独な人間として、目の前の少女を自分の所有物のように囲い込みたいという、傲慢で切実な欲求。それが湊の中に芽生え、急速に根を張っていく。


「嬉しい……。ねえ、みーくん。……これから、ずっと一緒だね。朝起きたらみーくんがいて、夜寝るときもみーくんがいる。……私、世界で一番幸せかもしれない」

 凪は、湊の首に両腕を回し、その耳元で熱く、湿った吐息を漏らした。

「……ああ。俺もだ。凪」


 湊は、凪を抱きしめる腕に力を込めた。

 外では日常の歯車が回り始め、人々が当たり前の土曜日を過ごしている。しかし、このマンションの一室だけは、世界から切り離された絶対的な「檻」となった。それは、二人を縛り付ける呪いであり、同時に、二人を孤独から救う唯一の聖域。


 湊は、窓の外の日常を完全に背にした。

 これから始まるのは、平穏などではない。お互いの欠落を埋めるために、より深く、より執拗に絡み合う共依存の生活。二人だけの閉じた世界で、お互いだけを頼りに生きていく。


「お腹、空いてないって言ったけど……みーくんが作ってくれるなら、食べたいな」

 凪が、甘えるように湊の胸に顔を擦り寄せた。

「……わかった。簡単なものしか作れないけど」

「みーくんが作ってくれるなら、何でもいい。……だって、これからは毎日、みーくんのご飯を食べられるんだもんね」


 凪の無邪気な微笑みに、湊は眩暈を覚えた。

 その微笑みを守るためなら、自分はどうなってもいい。何を失っても構わない。

 湊は立ち上がり、凪の手を引いてキッチンへと向かった。


 朝日がより一層強く部屋を照らし出し、二人の影を壁に長く引き伸ばしていく。

 二人の指先は、祈るように深く絡み合ったまま、二度とほどけないほど強固に結ばれていた。

 

 かつての「静寂」はもう戻ってこない。

 けれど、湊の心には、凪の吐息と体温が刻む、不規則で熱いリズムが、新しい生きる意味として確かに鳴り響いていた。


「……大好きだよ。みーくん」

「……ああ。俺もだ。……凪」


 二人の声が重なり、未明の静寂を塗り替えていく。


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