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境界線の融解

 土曜日の午前。世界がゆるやかに動き出す時間、湊のマンションのキッチンには、これまでになかった「生活の音」が響いていた。

 まな板を叩く規則正しい包丁の音。湯気の上がる小さな片手鍋。そして、それらすべての音の背後で、湊のすぐ後ろを静かに付いて回る凪の、微かな衣擦れの音。


「……凪、危ないから。あっちに座っててくれ」

「やだ。ここで見てるの。みーくんが私のために何かしてくれてるの、一秒も見逃したくないんだもん」


 凪は湊の背中にそっと寄り添い、エプロン越しに彼の体温を確かめるように立っていた。その距離感は、かつての「義兄妹」という建前をとうに踏み越えていたが、今はまだ、壊れ物を扱うような慎重さが二人を包んでいる。

 湊は、手元の野菜を切る作業に集中しようと努めるが、背後から漂う凪の甘い香りと、時折肩に触れる彼女の髪の感触に、どうしても意識が逸れてしまう。


 湊は、自分の中に巣食うこの微かな痛みの正体を知っている。

 五年前、家族という名の檻の中にいた頃から、彼は凪を単なる「妹」としてだけ見ていたわけではなかった。透き通るような肌、自分に向けられるひたむきな信頼、そして時折見せる、子供らしくない孤独な陰り。それらすべてを愛おしいと感じ、守りたいと願っていた。けれど、それは許されない背徳であり、告げれば家族という形を根底から壊してしまう猛毒だと自分に言い聞かせ、彼はその想いを「責任感」という名の下に封じ込めていたのだ。


 そして凪もまた、同じ想いを抱えていた。

 孤独だった自分を救ってくれた、血の繋がらない兄。誰よりも優しく、誰よりも遠い、絶対的な太陽。彼女にとって湊は、世界で唯一の居場所であると同時に、決して手に入らない絶望の象徴でもあった。だからこそ、彼女は「完璧な妹」を演じることで、彼の隣に居続ける権利を必死に守り続けてきた。


 あの日、離れ離れになったことで、二人の想いは成就する機会を失い、代わりに「喪失」という名の消えない傷痕となった。

 それが五年という月日を経て、今、「共依存」という歪な形を借りて、ようやく静かに呼吸を始めていた。


「できたぞ。……簡単なオムレツだけど」

「わあ……。みーくん、すごいや。本当にお料理できるんだね」


 湊が差し出した皿を、凪は両手で大切そうに受け取った。食卓に並んで座る。

 一人暮らし用の、膝が触れ合うほどに小さなテーブル。そこに二人の食事が並んでいる光景は、あまりに不自然で、それでいてひどく「しっくり」ときていた。


「いただきます」

 凪が一口、オムレツを口に運ぶ。

「……美味しい。ねえ、みーくん。これ、これからは毎日食べられるんだよね?」

「ああ。……飽きないなら、いくらでも作る」

「飽きるわけないよ。……私、これのために生きてきたのかもしれない」


 凪は冗談めかして笑ったが、その瞳にはどこか切実な光が宿っていた。本気で、この矮小な日常の断片に、自分の全人生を賭けようとしている。その危うさが、湊の胸を締め付けた。


 湊は食事を進めながら、凪の横顔を盗み見た。

 かつては「妹」だから守らなければならないと思っていた。今は、この歪な生活を維持するために支え合わなければならないと考えている。だが、その義務感の底にあるのは、もっと純粋で、執着に近い感情だ。

(今の俺たちには、もう邪魔するものはないんだ)

 親の離婚によって、二人の間にあった「兄妹」という法的な紐帯はすでに断ち切られている。世間から見れば、今の二人はただの同居人に過ぎない。あるいは、ただの男女だ。

 共依存という名の隠れ蓑を被れば、かつて隠し通さなければならなかった想いさえも、支え合いという名目で、ゆっくりと育てていけるのではないか。

 凪を傷つけたくない、しかし彼女を自分のものにしたいという思いで湊は毒されていた。


「……凪」

「なあに?」

「……本当に、いいんだな? 友達も、今までの生活も……俺との関係も変わるんだぞ」

 

 凪は食事の手を止め、湊の目を真っ直ぐに見つめた。

「みーくん。……私は、五年前にもう全部捨てたんだよ。あの日、みーくんがいなくなった瞬間に、私の『外側の世界』は全部止まっちゃったの。みーくんがいてくれるならそれでいい」


 凪はテーブルの下で、湊の膝に自分の手をそっと重ねた。

「私をここに置いてくれるなら、私は何にでもなる。みーくんの妹でも、家政婦でも……それ以外の、なんだって。……みーくんは、私が『ただの妹』じゃなくなっても、嫌いにならない?」


 湊は、重なる彼女の手の微かな震えに、胸が熱くなるのを覚えた。

 その問いは、彼女自身の中に眠る、まだ形にできない恋心の表出だった。そして湊にとっても、それは答えを出すのを先送りにしていた究極の問いだった。


「……嫌いになるわけないだろ。……お前が、お前でいてくれるなら、それでいい」


 湊は、凪の手を優しく握り締めた。

 指と指が静かに絡み合い、お互いの脈拍が共有される。それは、一歩ずつ、確実に「禁忌の向こう側」へと足を踏み入れるための、静かな契約だった。


 食事を終えた二人は、そのまま狭いリビングのソファで、どちらからともなく寄り添い合った。

 テレビをつけることもなく、スマホを見ることもない。ただ、窓から差し込む陽光が、時間の経過と共に床の模様を変えていくのを、静かに眺めていた。


「ねえ、みーくん。……昔、お祭りのときに、私の手、ずっと繋いでてくれたの覚えてる?」

「……ああ。迷子にならないように、って言ったやつか」

「私、あの時……。迷子になりたかったんだ。みーくんに、もっと強く握ってほしくて、わざと人混みの中に隠れようとしたんだよ。……悪い妹だよね」


 凪がクスクスと笑いながら、湊の肩に頭を預けた。

「……俺も、迷子になればいいと思ってたよ。……そうすれば、二人でどこか遠くへ、誰にも見つからない場所へ行ける気がしてたから」


 湊の告白に、凪が息を呑むのが分かった。

 五年前には決して口にできなかった、互いの小さな反逆。それが今、この閉ざされた空間で、ようやく陽の目を見ようとしていた。


 支え合うための共依存。失った時間を取り戻すための共同生活。

 それらはすべて、二人の中に燻り続けている「恋」という名の情熱を、誰にも、そして自分たち自身にも咎められないようにするための、精巧な装置のようだった。


 凪は、湊の腕の中で、幸せそうに目を閉じた。

 彼女の指先が、湊のシャツの袖を小さく掴む。その控えめな動き一つ一つが、湊の理性を少しずつ、けれど確実に溶かしていく。


 外の風は完全に止み、春の穏やかな陽気が部屋を満たしていた。

 急ぐ必要はない。失った五年分を埋めるように、二人はただ、静かに重なり合う鼓動を感じていた。

 義兄妹という殻を少しずつ剥がし、一人の人間として向き合う。

 その日は、そう遠くないことを確信しながら、二人はまだ言葉にしない約束を交わすように、深く、深く寄り添い合っていた。


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