第88話 夏祭り
夏祭りの日、凪は浴衣姿でリビングへ現れた。
淡い水色の生地に、白い朝顔が描かれている。髪はいつもより高い位置でまとめられ、箱根で買った小さな髪飾りが添えられていた。
「どう?」
その場で一度回り、袖を広げてみせる。
「似合ってる」
素直に答えると、凪は少し驚いたあと笑った。
「今日はすぐ言ってくれた」
「感想を聞いたのは凪だろ」
「みーくんも格好いいよ」
俺は紺色の甚平を着ていた。凪が浴衣にするなら合わせてほしいと言うため、旅行前に二人で選んだものだ。
「そろそろ出ないと、待ち合わせに遅れる」
「その前に写真」
凪はスマートフォンを取り出し、俺の隣へ並んだ。
鏡を使って二人を一枚へ収める。
撮影が終わっても、凪は腕を離さなかった。
「この写真もアルバムに入れようね」
「帰ってからな」
二人でマンションを出た。
夕方になっても空気は暑い。駅へ向かうだけで、額に汗がにじんだ。
凪は慣れない下駄で歩幅が小さくなっている。
「歩きにくいか?」
「少し。でも大丈夫」
俺は速度を落とした。
凪がそれに気づき、うれしそうに隣へ並ぶ。
会場に近づくにつれ、浴衣姿の人が増えていった。
駅前では、涼と千尋が待っていた。
涼は俺と似た色の甚平姿で、千尋は薄い桃色の浴衣を着ている。
「千尋、かわいい!」
凪が駆け寄る。
「凪も。髪、自分でやったの?」
「うん。帰ったら写真送るね」
二人が互いの浴衣を見せ合う横で、涼が俺へ小声で言った。
「千尋、似合ってるよな」
「本人に言ったのか?」
「一応」
「一応じゃなく、もう一度言え」
「お前、最近そういうことを平気で言うようになったな」
「経験者だからな」
「調子に乗るな」
四人で祭りの会場へ向かった。
神社へ続く道には、色とりどりの屋台が並んでいる。焼きそばやたこ焼きの匂い、呼び込みの声、子供たちの笑い声が混ざり合う。
凪は目を輝かせた。
「最初は何にする?」
「食べ物はあとだ。人が増える前にお参りしよう」
「金魚すくいもしたい」
「持って帰って育てられるのか?」
「じゃあ、ヨーヨー釣り」
「それならいい」
最初に立ち寄ったヨーヨー釣りでは、凪が一度で紙のこよりを切ってしまった。
「水につけすぎだ」
「分かってたなら先に言ってよ」
「すぐ取ろうとするから、言う暇がなかった」
千尋は慎重に糸を引き、青いヨーヨーを一つ釣り上げた。
「千尋、上手」
「子供の頃、よくやったから」
涼が隣から手を伸ばし、千尋の持つヨーヨーを軽く弾いた。
「俺の分も取ってくれよ」
「自分でやりなさい」
そう言いながら、千尋は二つ目に挑戦する。
俺と凪は顔を見合わせた。
恋人になったばかりでも、二人の会話は以前と大きく変わらない。ただ、互いを見る表情だけが少し柔らかくなっていた。
「私も、もう一回やる」
凪が新しいこよりを受け取る。
今度は俺が手元を見ながら、動かし方を伝えた。
「もっとゆっくり。輪の下へ入れてから上げる」
「こう?」
「今だ」
凪が腕を上げると、赤いヨーヨーが水面から持ち上がった。
「取れた!」
勢いよく振り返り、そのまま俺へ抱きつきそうになる。人目に気づいたのか、直前で止まり、代わりに俺の手を握った。
「みーくんのおかげ」
「凪が取ったんだ」
「二人で取ったの」
赤いヨーヨーは、そのあと祭りが終わるまで凪の手元で弾み続けた。
神社の石段を上り、四人で参拝した。
願い事を終えると、凪がすぐに尋ねる。
「みーくん、何をお願いした?」
「言ったらかなわないだろ」
「私は、みーくんとずっと一緒にいられますようにってお願いした」
「言ってるじゃないか」
「お願いというより、報告だから」
俺も、同じようなことを願っていた。
ただ一緒にいるだけではなく、二人ともやりたいことを続けながら、同じ未来へ進めるように。
境内を下り、屋台を回る。
凪と千尋がヨーヨー釣りに挑戦し、涼と俺は射的で勝負した。
「湊、こういうの得意そうなのに下手だな」
「銃の照準がずれてる」
「道具のせいにするなよ」
涼が小さな菓子を落とし、得意そうに千尋へ渡す。
「これ、景品。小さいけど」
「ありがとう」
千尋は大切そうに受け取った。
俺ももう一度狙い、白いウサギの小さな飾りを落とす。
凪へ渡すと、彼女は目を丸くした。
「私に?」
「凪の鞄についてるものに似てたから」
「覚えてたんだ」
「毎日見てる」
凪は飾りを手のひらへ載せ、何度も眺めた。
「大切にする」
やがて人の流れが増え、四人で並んで歩くのが難しくなった。
千尋と涼は少し先にいる。
凪が人にぶつかられ、俺の腕へつかまった。
「大丈夫か」
「うん。でも、はぐれそう」
俺は手を差し出した。
凪が迷わず握る。
子供の頃にも、同じ祭りで手をつないだ。
あのときは、妹を迷子にしないためだった。
凪はわざと離れようとし、俺がどこまで追ってくるか確かめたのだと、最近になって打ち明けた。
「今日は、わざと離れるなよ」
「離れないよ」
「本当に?」
「あの頃とは違うもん」
凪はつないだ手へ力を込めた。
「今は、みーくんが追いかけてくれるか試さなくても分かるから」
「ああ」
「それに、私もみーくんを離さない」
互いに相手を試すためではなく、一緒に歩くために手をつなぐ。
幼い日の記憶が、今の温度で上書きされていくようだった。
涼たちと合流し、四人で焼きそばとたこ焼きを分けた。
千尋の口元にソースがつき、涼がティッシュを差し出す。千尋は照れながら受け取った。
「自然になってきたね」
凪が耳元で囁く。
「見すぎだ」
「応援してるだけ」
日が完全に落ちると、境内の灯りが目立ち始めた。
花火を見るため、河川敷へ移動する。
人混みの中で場所を探し、四人で並んで座った。
凪は俺の右側、千尋は涼の隣だ。
最初の花火が夜空へ上がる。
大きな音とともに、金色の光が広がった。
凪の横顔が一瞬明るく照らされる。
「きれい」
「ああ」
「昔も一緒に見たね」
「凪が綿あめを服につけた年か」
「そこを覚えてるの?」
「帰ってから洗うのが大変だった」
凪は笑い、肩を寄せてきた。
次々と花火が上がる。
赤、青、白。夜空へ広がっては消えていく。
「写真に撮る?」
俺が尋ねると、凪は首を横に振った。
「今は見ていたい。写真は最後に一枚だけでいい」
隣では、千尋が涼の肩へ少しだけ頭を寄せていた。
涼は花火を見たまま、手探りで千尋の手を見つける。二人の指が触れ、ためらったあとで重なった。
凪もその様子に気づいたようだったが、今度はからかわなかった。
俺の耳元へ顔を寄せる。
「そっとしておこうね」
「最初からそうしてやれ」
「最初に少し背中を押したから、今があるんだよ」
「凪が押さなくても、二人なら自分で進んだ」
「それもそうかも」
凪は友人たちから視線を外し、夜空へ戻した。
大切な相手と見る景色は、隣にいる人の数だけ違う思い出になる。
四人で同じ花火を見ながら、それぞれが自分の隣にいる人の温度を感じていた。
俺たちはスマートフォンをしまい、同じ空を見上げた。
やがて連続した花火が終わり、少し静かな時間が訪れる。
凪がつないだ手を自分の膝へ置いた。
「お母さんに言われたこと、考えてた」
「進路のこと?」
「うん。私、陸上を続けられる大学をちゃんと探す。みーくんと一緒にいられるかだけで決めない」
「それがいい」
「でも、離れたいわけじゃないよ」
「分かってる」
「みーくんも、行きたいところを選んでね。もし遠くても、一緒に暮らす方法を考えよう」
「二人で考える」
「約束」
最後の大きな花火が上がり、夜空全体が白く染まった。
その光の中で、凪と指を絡め直す。
祭りが終われば、夏休みも少しずつ終わりへ近づく。
それでも、何かが終わるたびに不安になる必要はない。
次の季節にも、俺たちの生活は続いていく。
帰り道、四人で記念写真を撮った。
浴衣姿の凪と千尋、その隣に立つ俺と涼。後ろには祭りの提灯が並んでいる。
「アルバムの新しいページだね」
凪が画面を見ながら言う。
「旅行のアルバムじゃなかったのか?」
「私たちのアルバムになったの」
「なら、これから何冊も必要になるな」
「うん。いっぱい作ろう」
駅で涼たちと別れ、二人でマンションへ帰る。
玄関を開けると、凪が先に中へ入り、こちらを振り返った。
「ただいま、みーくん」
「ただいま、凪」
二人とも同じ家へ帰ってきたのだから、どちらかが「おかえり」と言う必要はない。
それがおかしくて、顔を見合わせて笑った。
子供の頃の祭りでは、終われば別々の部屋へ戻った。
今夜は同じ玄関をくぐり、同じ明日を迎える。
つないだ手は、部屋へ入ってからもしばらく離れなかった。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!





