第87話 母と娘の未来
夏祭りを数日後に控えた午後、凪の母親がマンションを訪ねてきた。
事前に連絡はもらっていた。それでもインターホンの画面に懐かしい顔が映ると、俺の体へ緊張が走った。
「そんなに固くならなくて大丈夫だよ」
凪が隣から言う。
「凪は自分の母親だから平気だろ」
「みーくんのお母さんだったこともあるよ」
「だから緊張してるんだ」
エントランスの鍵を開け、玄関で迎える。
「お久しぶりです」
俺が頭を下げると、彼女は少し困ったように笑った。
「そんなに改まらなくていいわ。お邪魔します、湊くん」
凪は母親の荷物を受け取り、リビングへ案内した。
三人でテーブルを囲む。
俺がいれたお茶を置くと、彼女は部屋を見回した。
以前訪れたときより、凪のものが増えている。
棚には二人の写真があり、ソファには凪が選んだクッションがある。ダイニングの端には、二人分の教科書とノートが積まれていた。
「きれいに暮らしているのね」
「みーくんが片づけるから」
「凪もやってるだろ」
「言われる前にやりなさい」
母親に注意され、凪は小さく返事をした。
そのやり取りに、張り詰めていた空気が少し和らぐ。
「箱根は楽しかった?」
「うん。すごく楽しかった」
凪は旅館や芦ノ湖、大涌谷の話を始めた。
アルバムを持ってきて、写真を一枚ずつ見せる。
母親は穏やかに聞いていたが、俺と凪が寄り添って写る写真を見ると、少しだけ表情を引き締めた。
「旅行へ行くことは認めたけれど、二人とも高校生だということは忘れていないわね」
「忘れてないよ」
凪が答える。
俺も姿勢を正した。
「無責任なことはしません」
「湊くんだけへ責任を押しつけるつもりはないの。凪も同じように考えなければいけない」
「分かってる」
凪は母親の目を見て答えた。
以前なら、反対されることを恐れて感情的になっていたかもしれない。
今は最後まで話を聞こうとしている。
「それで、今日は何を話しに来たの?」
凪が尋ねる。
母親はお茶を一口飲み、俺たちを交互に見た。
「箱根から帰ってから、凪が電話で話していたでしょう。高校を卒業したら、湊くんと結婚したいって」
凪の頬が赤くなる。
俺も、旅行中に何度も交わした約束を思い出した。
「本気なの?」
母親の問いに、凪は迷わなかった。
「本気だよ」
「湊くんは?」
「俺も、凪と将来を一緒に過ごしたいと思っています」
「思っています、じゃなくて?」
言葉の曖昧さを指摘され、俺は言い直した。
「凪と結婚したいです」
凪が隣で俺の手を握る。
母親はしばらく何も言わなかった。
反対される可能性は考えていた。
血のつながりはなく、今は戸籍上も他人だ。それでも、かつて兄妹だった二人が高校生のうちから結婚を口にすれば、心配するのは当然だ。
「気持ちを否定するつもりはないわ」
やがて母親が言った。
「二人が、ただ離れたくないという不安だけで一緒にいるわけではないことも、最近は分かってきた」
母親は一度言葉を切り、アルバムの最初のページへ目を落とした。
「あのとき、あなたたちを離したことを、ずっと正しかったと思い込もうとしていたの」
凪が母親を見る。
「離婚したとき?」
「ええ。大人同士の関係が終わった以上、子供同士も会わないほうが混乱しない。そう考えた。でも、本当は私自身が以前の家族を思い出すのがつらかったの」
凪の母親は、俺へ視線を向けた。
「湊くんが凪にとって、どれほど大切な存在だったか分かっていた。それでも連絡を取らせなかった。あなたにも、つらい思いをさせたと思う」
突然謝られ、俺はすぐに言葉を返せなかった。
五年前、誰か一人だけが悪かったわけではない。
父と彼女の間に何があったのか、子供だった俺は詳しく知らない。二人とも余裕を失い、自分たちの生活を立て直すことで精いっぱいだったのだろう。
「今さら謝ってほしいとは思っていません」
俺は正直に答えた。
「でも、そう話してもらえたことは、うれしいです」
「お母さんを許してくれる?」
凪が尋ねる。
「許すとか、許さないという話ではないと思う。過去は変えられないから、これからどうするかを考えたい」
母親は静かにうなずいた。
「そうね。私も、今度は二人の話を聞くようにする」
凪はテーブルの下で、俺の手を強く握った。
過去の傷が消えたわけではない。それでも、触れないように蓋をするのではなく、同じ出来事をそれぞれの言葉で話せた。
それだけでも、五年前から一歩進めたのだと思う。
凪の手に力が入る。
「でも、結婚は一緒にいたいという気持ちだけでは続かない。進学や仕事、お金のこと。生活をどう支えるか考える必要がある」
「はい」
「卒業したらすぐに、と決める前に、それぞれがどんな道へ進みたいのか話し合いなさい」
俺は進学を考えている。凪も陸上を続けながら、進路を決めなければならない。
どちらかが相手へ合わせ、後悔する形にはしたくない。
「凪は、卒業後どうしたい?」
母親が尋ねた。
「大学へ行きたい。陸上も、できるところまで続けたい」
「湊くんと離れる学校になったら?」
凪はすぐには答えなかった。
以前なら、離れるくらいなら進学しないと言ったかもしれない。
俺は握っていた手を少し緩めた。
「凪の進みたい学校を選んでほしい」
「でも」
「一緒にいるために、凪がやりたいことを諦めるのは違う。通う場所が離れても、帰る家を同じにする方法は考えられる」
凪は俺を見つめ、それからうなずいた。
「私も、みーくんにやりたいことを諦めてほしくない」
「それなら、二人とも進路を決めてから、具体的に考えよう」
母親の表情が少し柔らかくなる。
「その答えが聞けて安心したわ」
「試したの?」
凪が不満そうに尋ねる。
「確認したの。相手を愛することと、相手の人生を自分だけで埋めることは違うから」
その言葉は、俺たちにとって重要だった。
互いを必要とする気持ちは強い。
だが、強いからこそ相手の選択肢を奪わないようにしなければならない。
「卒業までは学業を優先します」
俺が言う。
「進路も、二人で相談しながら、それぞれが納得できる道を選びます。そのうえで、卒業したら改めて結婚の話をさせてください」
凪も続けた。
「私も約束する。みーくんと一緒にいたいからって、部活や勉強から逃げない」
母親は二人の言葉を聞き、静かにうなずいた。
「分かりました。卒業したとき、同じ気持ちでいられたなら、私は反対しません」
凪が息を呑む。
「本当に?」
「ただし、湊くんのお父さんとも話すこと。それから、まだ婚約したと周りへ言い回るのはやめなさい」
「言い回らないよ」
「凪なら、うれしくなって千尋ちゃんへ全部話しかねないでしょう」
「千尋には少しくらい……」
「少しの範囲を考えなさい」
俺は思わず笑った。
母親もつられて笑い、凪だけが納得できない顔をする。
その後は、生活の様子や学校の成績について話した。
凪の試験結果は上がり、俺も順位を維持している。家事は完全な半分ではないが、凪が料理を覚え、洗濯や掃除も分担していた。
「ちゃんと続けられているのね」
「みーくんが教えてくれるから」
「凪も頑張ったからだ」
俺が言うと、母親は安心したように微笑んだ。
帰る時間になり、三人で玄関へ向かう。
母親は靴を履いたあと、俺へ向き直った。
「湊くん」
「はい」
「凪を任せる、とは言わないわ。凪は誰かへ預けるものではないから」
「はい」
「二人で支え合って。どちらか一人だけが我慢する関係にはならないでね」
「約束します」
凪も隣でうなずいた。
エレベーターまで見送り、部屋へ戻る。
ドアが閉まると、凪は俺の胸へ飛び込んできた。
「反対しないって言ってくれた」
「卒業したときも同じ気持ちなら、だ」
「同じに決まってる」
「俺もそう思う。でも、言われたことは守ろう」
「うん」
凪は顔を上げた。
「私、大学も陸上も頑張る。それで、卒業したらもう一度ちゃんと聞いてね」
「何を?」
「結婚してくださいって」
「何度でも言うよ」
「そのたびに、何度でも受ける」
俺は凪の額へ口づけた。
旅行中に交わした約束は、二人だけの夢ではなくなった。
すぐに実現するわけではない。
勉強し、進路を選び、自分たちの生活を支えられるようになるまで、やるべきことは多い。
それでも、待つ時間まで二人の未来の一部だと思えた。
「夏祭り、もっと楽しみになった」
凪が言う。
「どうして」
「子供の頃は、離れないように手をつないでもらったでしょ。今度は、同じ未来へ行くために自分からつなぐの」
凪が俺の手を取り、指を絡めた。
数日後の祭りでは、この手を離さない。
それは依存から生まれた約束ではなく、互いの道を尊重しながら一緒に歩くための選択だった。
読んでくださってありがとうございます。
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