第86話 水族館の報告
数日後の朝、凪は起きてすぐにスマートフォンを確認した。
「千尋から?」
俺が尋ねると、ベッドの隣で何度もうなずく。
「今日、水族館へ行くって。緊張してあまり眠れなかったみたい」
「俺たちに報告しなくても、二人で楽しめばいいのにな」
「千尋は、誰かに言わないと落ち着かないんだよ」
凪は返信を打ちながら笑った。
『普段どおりで大丈夫。涼くんも緊張してると思うよ』
送信した画面が一瞬見える。
「涼が緊張するか?」
「好きな子と二人で出かけるんだよ。するに決まってる」
「いつもと変わらない顔で来そうだけどな」
「みーくんだって、最初のデートでは平気な顔してたよ」
「凪のほうが緊張してただろ」
「私は隠してなかっただけ」
言い返せず、俺はベッドを出た。
今日は二人とも予定がない。
旅行の荷物は片づけ終わり、アルバムもほとんど完成している。久しぶりに何も決めずに過ごせる一日だった。
朝食を作っている間も、凪のスマートフォンには千尋から何度かメッセージが届いた。
服装を決めた。駅へ着いた。涼がまだ来ない。
そのたびに凪は一緒になって落ち着かなくなる。
「凪がデートするわけじゃないだろ」
「親友の大事な日だもん」
「返信しすぎると、千尋が目の前の涼に集中できないぞ」
「それもそうだね」
凪はスマートフォンを伏せた。
「夕方まで見ない」
「十分もつか?」
「もつよ」
結果として、二十分後にはまた手に取っていた。
ただし千尋からの連絡ではなく、写真を撮るためだった。
「今日は私たちも家で思い出を作る」
「朝食の写真までアルバムに入れるのか?」
「特別な日だけじゃなくて、普通の日も残したいの」
凪は、二人分のトーストと卵が並んだテーブルを撮影した。
箱根の景色ほど見栄えはしない。
それでも数年後に見返せば、こういう一枚のほうが懐かしく思えるのかもしれない。
朝食後は、旅行中に撮った動画をテレビへ映した。
遊覧船から見た湖。ロープウェイで揺れた瞬間の凪の声。大涌谷で黒たまごの殻をむきながら熱がっている俺。
「みーくん、これ見て。すごい顔」
「撮ってるなら言えよ」
「自然な顔を残したかったから」
「消してくれ」
「大切に保存します」
凪は動画をお気に入りへ登録した。
昼を過ぎると、二人で近所を散歩した。
何かを買う目的もなく、並んで歩く。
旅行先では、次にどこへ行くかを考え続けていた。今日は見慣れた道を、気になる店へ寄りながら進むだけだ。
「あのケーキ屋さん、今度行こうよ」
「今日は入らないのか?」
「涼くんと千尋が来るかもしれないから、四人分を選ぶのは難しいでしょ」
「来るって連絡があったのか?」
「ないけど、たぶん来る」
凪の予想は当たった。
夕方、マンションへ戻ってしばらくすると、インターホンが鳴った。
画面には涼と千尋が映っている。
「ほらね」
凪は得意そうに笑い、エントランスの鍵を開けた。
二人がリビングへ入ると、昨日までとは明らかに雰囲気が違っていた。
並んで座る距離が近い。千尋は照れながらも、涼の隣を避けようとはしなかった。
「どうだった?」
凪が飲み物を出す前に尋ねる。
「まず座らせてよ」
千尋は苦笑し、ソファへ腰を下ろした。
涼も隣へ座り、俺が差し出した炭酸水を一口飲む。
「水族館は楽しかったよ」
「それだけ?」
「凪、急かすな」
俺が止めると、涼が助かったように息を吐いた。
「湊からも言ってやってくれ。駅からずっと、この調子なんだ」
「だって気になる」
凪は千尋の隣へ座り、顔をのぞき込んだ。
千尋は頬を赤くしながら、涼へ視線を向ける。
「私から話していい?」
「ああ」
涼がうなずいた。
「水族館を見たあと、海の見えるところで話したの」
「何を?」
「凪、分かって聞いてるでしょ」
千尋は困ったように笑った。
「涼くんが、好きだって言ってくれた」
凪の顔が一気に明るくなる。
「それで?」
「私も好きだって答えた」
凪は声を上げ、千尋を抱きしめた。
「よかった!」
「苦しいって」
そう言いながら、千尋も笑っている。
俺は涼へ目を向けた。
「ちゃんと言えたんだな」
「何とか」
「もっと堂々としろよ」
「お前にだけは言われたくない。市川と付き合うまで、どれだけ周りを巻き込んだと思ってる」
否定できなかった。
凪が千尋から離れ、俺の隣へ戻ってくる。
「今日から二人も恋人同士なんだね」
「一応、そうなる」
涼は照れくさそうに言った。
千尋はその言い方に不満そうな顔をする。
「一応って何?」
「いや、違う。ちゃんと付き合う」
「ならよろしい」
二人のやり取りに、凪が笑った。
俺も自然に笑っていた。
「それで、どっちから手をつないだの?」
凪がさらに尋ねる。
「そこまで聞くのかよ」
涼が抗議する。
「大事なところだよ」
千尋は少し迷ってから、自分の右手を見た。
「私から。帰りの電車が混んでたから、はぐれないように」
「理由をつけたんだ」
「最初は必要でしょ」
凪は俺の手を取り、指を絡めた。
「私たちは理由がなくてもつなぐけどね」
「張り合うな」
「張り合ってない。先輩として見本を見せてるの」
「何の先輩だよ」
四人の笑い声がリビングへ広がった。
恋人になったからといって、涼と千尋が急に別人になるわけではない。
少し照れ、互いを意識しながらも、いつもの二人だった。
それでいいのだと思う。
俺と凪も、恋人になった瞬間にすべてが変わったわけではない。
一緒に食事をし、喧嘩をし、話し合いながら関係を作ってきた。
「二人の写真、撮った?」
凪が尋ねると、千尋がスマートフォンを取り出した。
水槽の前で並んだ写真。イルカショーで水を浴び、二人とも笑っている写真。夕暮れの海を背景にした一枚。
最後の写真だけ、二人の手が画面の端でつながっていた。
「アルバム作る?」
凪が楽しそうに提案する。
「凪たちみたいな大作じゃなくていいけど、少し作ってみたいかも」
千尋が答えた。
「今度、一緒に材料を買いに行こう」
二人はすぐに次の予定を決め始めた。
涼は俺の隣へ少し身を寄せる。
「なあ、湊」
「何だ」
「昨日、お前が言ってくれたから、デートだって認められた気がする」
「俺は何もしてない」
「それでも、ありがとな」
「礼なら千尋に言え。誘いに応えてくれたのはあいつだ」
「もう言ったよ」
涼は穏やかに笑った。
以前なら、こういう話を照れてごまかしていただろう。
少しだけ変わったのは、俺たちと同じだった。
夜になる前に、二人は帰ることになった。
玄関で、凪が千尋へ耳打ちする。
「今度、二人だけで詳しく聞かせてね」
「凪も箱根の話、まだ全部聞いてないからね」
「それは話せる範囲で」
千尋が意味ありげに笑い、凪の顔が赤くなる。
「じゃあ、また学校で」
二人を見送る。
ドアが閉まると、凪は俺の胸へ背中を預けた。
「二人、うまくいってよかったね」
「ああ」
「私たちが幸せだから、周りも幸せになったみたい」
「そこまで自分たちの手柄にするな」
「分かってる。でも、うれしいんだもん」
俺は後ろから凪の肩を抱いた。
大切な人が増えるほど、失う怖さも増える。
以前の俺なら、そう考えて距離を置いた。
今は違う。
関わることで得られる喜びを知っている。
凪だけではなく、涼と千尋も、俺たちの日常を支える大切な存在だった。
「次は四人でどこへ行こうか」
凪が尋ねる。
「二人のデートが落ち着いてからだな」
「夏祭りは?」
「いいんじゃないか」
「じゃあ、二人にも聞いてみる」
凪は早速メッセージを送った。
数分後、千尋から四人で行きたいという返事が届く。
夏休みは、まだ続く。
箱根旅行のあとにも、水族館の報告のあとにも、新しい予定が生まれていく。
一つの幸せが終わるのではなく、次の時間へつながっていく。
凪と肩を寄せながら、俺はそのことをようやく自然に信じられるようになっていた。
テーブルには、四人で撮った写真と、水族館で笑う二人の写真が並んでいる。
恋の形はそれぞれ違っても、大切な相手と同じ未来を望む気持ちは同じだった。
俺たちは次の予定を楽しみにしながら、二人だけになった静かな夜をゆっくり過ごした。
読んでくださってありがとうございます。
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