箱根旅行3日目②
黒たまごの温かさが胃の腑に落ち、心地よい満足感に包まれながら、俺たちは大涌谷を後にした。箱根の山を下るロープウェイの中、凪は少しだけ名残惜しそうに、遠ざかる火山の煙を眺めていた。
「大涌谷、想像してたよりずっと凄かったね。……なんか、本当に寿命が延びたような気がする」
「そうだな。お互い、健康で長生きしないとな」
「うん。……あ、ロープウェイ終わっちゃう。この世に戻ってきたみたい」
凪がふっと寂しそうな顔をした。三日間の濃密な時間が、終わりへと向かっている。箱根湯本駅へ戻り、土産物店で少しだけ足止めをして、自分たちのための思い出の品を選んだ。凪が「これ、今回の旅行の写真飾る時に使おうよ」と選んだのは、温かみのある箱根寄木細工の額縁だった。
帰りのロマンスカー。座席に深く腰を下ろすと、旅の疲れが心地よい重みとなって全身を包み込む。
「……楽しかったね、みーくん」
凪が俺の肩に頭を乗せ、自分の手を俺の膝の上に重ねてくる。車窓の外を流れる景色は、次第に箱根の緑から、都会の雑踏へと姿を変えていく。
「あっという間だったね」
俺の呟きに、凪は小さく頷いた。
「でも、夏休みはまだあるんだし、これからも思い出たくさん作ろうな」
「うん、楽しみ。……でも、みーくんからのご褒美の1週間は、明日で終わりだね」
凪が寂しげに微笑む。テストを頑張った凪に与えた、「1週間、俺を好きにしていい権利」。それが終われば、また少しだけ日常が戻ってくるような気がして、俺は膝の上の彼女の手をぎゅっと握り直した。
「1週間、俺にとっても最高の時間だったよ。だからさ……」
「ん?」
「1週間じゃなくて、俺の命が尽きるまで、はどうかな」
凪がパチリと瞬きをした。きょとんとした表情のあと、彼女の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「それって……この前言ってた、プロポーズ?」
「……うん、まぁ、ほんとは、もっとしっかりした雰囲気とか、素敵な場所をセッティングして、ちゃんと指輪も用意して伝えたかったんだけど。……なんか、今が幸せすぎて我慢できなくて。ごめん」
俺が不器用に頭をかくと、凪は驚いたように目を見開き、それから弾けるような笑顔を見せた。
「なんで謝るの? 嬉しいに決まってるじゃん」
彼女は感極まったように身を乗り出し、俺の胸に抱きついてくる。
「それに元から、私は一生離れるつもりはないよ。みーくんだってそうだったでしょ? ……それにね、指輪はもう、私の誕生日の時にくれたじゃない」
「あれは、あくまで誕生日プレゼントだ」
俺がそう言うと、凪は俺の胸元で顔を上げ、揶揄うかのように小首をかしげた。
「じゃあ、今度のはなんなの?」
「婚約指輪、だよ」
はっきりと言った俺の言葉に凪は一瞬だけ息を呑み、そして頬を赤くして俺を見つめた。
「指輪もすっごく嬉しいけど、そうやって何度でも真っ直ぐに気持ちを伝えてくれるのが、一番嬉しいんだよ。だから、何度だってプロポーズして。何度だって受け取るから。……その代わり、返品不可だからね?」
彼女の茶目っ気のある言葉に、俺は思わず吹き出してしまった。
「ああ、返品なんてしないよ。他の人には渡したくない」
「……ありがとう」
「高校卒業したら、その時はちゃんと……指輪もらってください」
凪は俺の手を握りしめ、自分からそっと唇を重ねてきた。箱根の空気に包まれていた三日間よりも、この車内で交わした確かな言葉の方が、ずっとずっと温かい。
慣れ親しんだ街並みを抜けて、俺たちは俺の家へと辿り着いた。玄関の扉を開けると、そこには二人が積み重ねてきた三日間の温もりとはまた違う、静かな日常の空気が流れている。
ソファに深く腰を下ろすと、旅の心地よい高揚感が、じんわりと穏やかな疲労に変わっていくのがわかった。
「……楽しかった」
凪がそう言って、俺の隣にすっぽりと収まる。その華奢な身体の重みが、彼女が確かに俺のそばにいるという現実を教えてくれる。
「……ねえ、明日からはどうする?」
凪が小さく呟く。彼女の頭をそっと撫でると、その髪からほんのりと、あの宿の柔らかなシャンプーの香りと、大涌谷の硫黄の香りが微かに混ざり合った、この旅だけの懐かしい匂いがした。
「決まってるだろ、凪と一緒にいる」
俺がそう答えると、凪は俺の胸元で小さく微笑んだ。
「いつも一緒でしょ。朝から夜までずっと」
「凪のことが好きすぎて、なんだかおかしくなりそうだよ……ほんとに、ほんとに大好きだ」
俺の情熱的な言葉に、凪は少しだけ驚いたように瞬きをしたあと、今度はとろけるような笑顔で俺の視線を受け止めた。
「もう……そんなこと言われたら、私もどうにかなりそう」
彼女は俺の頬を両手で優しく包み込み、ゆっくりと自分の額を俺の額に押し当てた。鼻先が触れ合う近さ。
「……こんなに独占したくて、離したくなくて。俺の愛情、重くてごめんな」
自嘲気味にこぼした俺の言葉に、凪は首を振った。
「重いなんて思ったことないよ。私ね、好きな考え方があってね。愛し合う二人が同じくらいの愛情を送って、同じくらい頼っていれば天秤は釣り合うの。これが、両方重い『両思い』。たとえ少し傾いたとしても、助け合えばいい。それが支え合いだよ。私はみーくんを愛してる。死ぬまでずっとそばにいる。……みーくんは?」
「俺も、凪を愛してる。……必ず、一生かけて幸せにする」
「なら私たちは、完璧な両思いだよね」
「そうだな」
凪は満足そうに目を細め、続けた。
「確かに、これから喧嘩することだってあるかもしれない。天秤が傾くこともあると思う。でも、私はみーくんを信じてるし、みーくんにも私のことを信じてほしいの。……こんなに重い愛をお互いに向けてるんだもん、そんなの誤差でしょ?」
その無邪気で、それでいて強固な信頼に満ちた言葉に、俺は胸の奥が熱くなるのを感じて、抱きしめる腕に一層力を込めた。
「誤差、か……そうだな」
自嘲気味に笑った俺に、凪は顔を上げ、濡れた瞳で真っ直ぐに俺を射抜いた。
「うん。だからね、みーくん……私の愛の重さを甘く見ないでね?」
それは決して脅しではなく、俺の人生のすべてを自分ひとりで受け止めるという、彼女なりの覚悟の宣言だった。
「ありがとう、凪」
俺がそう告げると、彼女は安堵したようにふにゃりと笑い、再び俺の胸に額を預けた。彼女の体温がシャツ越しに心地よく伝わってくる。
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