箱根旅行3日目①
旅の三日目、箱根の朝は、夜の熱気が嘘のような清々しい光に包まれていた。
窓から差し込む朝日は、障子越しに部屋を柔らかく温め、昨日とは違う一日が始まる予感を運んでくる。朝方まで続いたあの濃密な時間の余韻が、肌の奥底にまだ熱を帯びたまま残っている。隣を見るとシーツから少しだけはみ出した彼女の肩が、朝日の加減で薄桃色に輝いている。昨夜の激しさが嘘のように、今の凪はただただ無防備で、愛おしい。その繊細な肌を何度か優しく撫でていると、彼女はゆっくりとまつ毛を震わせ、夢の縁から意識を引き戻した。
「……ん、おはよう……みーくん」
とろんとした瞳が俺を捉えた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。彼女はまだ少し眠気に包まれているのか、身体を小さく丸めながら、布団の重みを跳ね除けるようにして腕を伸ばしてくる。そのまま俺の首に絡みつくと、彼女は甘えるように胸元へ顔をすり寄せてきた。その仕草の無防備な愛らしさに、俺は抗うことなく彼女の額に口づけを落としていた。
「おはよう。……昨夜は、よく眠れたか?」
「うん……みーくんと一緒だったから、幸せだったよ」
凪は眠たげな顔で俺の胸に顔を埋め、子猫のようにすり寄ってくる。布団の中という聖域で、二人の呼吸が静かに重なる。俺たちはそのまま、言葉を交わすよりも先に互いの体温を確かめ合うようにして、もう一度唇を重ねた。昨夜のような情熱的な求め合いとは違う、とても穏やかなキスだった。
「……ねえ、朝風呂、行こう?」
凪がふと顔を上げて、いたずらっぽく笑う。彼女の瞳には、昨夜の情熱が少しだけ落ち着き、代わりに穏やかな愛情が溢れていた。
「いいけど、離してくれないと起きれないよ……なんか昨日もこんなこと言ったな」
「じゃあ、もう少しだけ……このまま」
「うん、それも昨日聞いたな」
凪が布団の中で俺の身体に一層強くしがみついてくる。このまま永遠に時間が止まればいいと本気で思うような、甘美な朝の微睡み。何度か繰り返されるキスと、布団の中で絡み合う足先。朝の静寂は、そんな二人のひそやかな営みを優しく包み込んでいた。私たちはただ抱き合い、互いの鼓動が重なるリズムに耳を澄ませる。行為に及ばずとも、その肌のぬくもりだけで、心が満たされていくのを感じた。まるで長い年月を共に歩んできた夫婦のような、静かで、それでいて確かな充足感。
ようやく重い腰を上げて浴場へ向かうと、そこには朝の柔らかな陽光が注ぎ込まれていた。露天風呂へと続く扉を開けると、ひんやりとした朝霧が肌を刺し、その直後に温かな湯気が全身を包み込む。誰もいない大きな湯船に二人が滑り込むと、心地よい沈黙が訪れた。
湯船の縁に頭を預け、凪が俺の隣で目を閉じる。湯気に霞む彼女の横顔は、昨夜の情熱的な表情とは別人のように穏やかだ。
「……気持ちいいね。このままここで一日過ごしたいな」
「ふやけちゃうぞ」
凪は俺の手を握りしめ、お湯の中で指を絡ませてくる。ただこうして隣り合って、同じ景色を眺めているだけで十分だった。彼女の穏やかな横顔を見つめていると、幸せを実感する。
「……ねえ、みーくん」
「ん?」
「また一緒にお出かけとか旅行とかしようね」
凪がそう言って、少しだけはにかみながら俺の肩に頭を預けてくる。彼女の体温が、お湯の熱と共に俺の身体の芯まで染み渡る。言葉にしなくても、お互いの未来が自然とそこにあるような、そんな不思議な安心感。昨夜の情熱が、今は穏やかな日常の光へと昇華されていくのを感じた。
「新婚旅行どこ行こうか」
俺のその言葉に、凪は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから湯気を纏った顔をさらに赤く染めた。まるで予想外のプレゼントをもらった子どものように、嬉しさと照れくささが入り混じった表情で、俺の肩にさらに深く顔を押し付けてくる。
「……っ、しんこん、りょこう?」
彼女の小さな声が、湯けむりの中に溶けていく。
「凪とならどこへ行っても最高だろうし、今のうちに夢くらい見ておいてもいいだろ?」
俺が当たり前のことかにように尋ねると、凪は顔を上げ、俺の瞳をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、昨夜の情熱的な揺らぎではなく、これから続く長い人生を共に歩もうとする、穏やかで強い意志が宿っていた。
「……ずるいよ、そんなこと言われたら、もう今日からカタログ集めちゃうよ?」
凪はそう言ってふふっと笑うと、お湯の中で俺の手にそっと自分の手を重ねた。
「いろんなところ行こうな」
「うん!次は、今回とは違った季節がいいな。冬の北海道で雪景色を見ながら温泉に入るのもいいな。でも沖縄の海も見てみたいな」
彼女は次々と夢を口にする。その楽しそうな姿を見ているだけで、俺も自然と笑みがこぼれた。
「全部行こう。一つずつ、時間をかけて」
「うん、絶対だよ。約束ね」
凪は小指を立てて俺の前に差し出す。その小さな指に自分の小指を絡めると、指先から伝わる温もりが、約束の証のように心に深く刻まれた。
「凪、俺のこと好きになってくれてありがとう」
凪はその言葉を聞いた瞬間、驚いたように瞬きを二、三回繰り返すと、今度は湯気に負けないほど顔を真っ赤に染めて、クスクスと嬉しそうに笑った。
「……っ。私の方こそありがとう」
彼女は照れくささを隠すように、俺の胸元に顔を埋める。濡れた髪が俺の肌をくすぐり、温かい湯船の中での密着が、より一層心地よく感じられた。凪はしばらく俺の胸に額を押し付けたまま、トクトクと鳴る俺の鼓動を聴いているようだった。やがて、彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を見つめてくる。
「……私を選んでくれて、私と一緒にいてくれて、本当にありがとう。みーくんと過ごした時間、全部全部、私の宝物だよ」
「……そんなに言われたら、照れるだろ」
俺が少しだけ口元を隠して笑うと、凪は「ふふっ」と優しく微笑んで、また俺の手に自分の手を重ねた。指の隙間を埋めるように絡め合う手。
「これから先、楽しいことばかりじゃないかもしれないけれど。……でも、みーくんとなら、どんなことでも乗り越えられると思う」
彼女の問いかけは、確信に満ちていた。その真っ直ぐな瞳に映る自分が、昨日よりも少しだけ「誰かを守る強さ」を持てたような気がして、俺は強く彼女の肩を抱き寄せた。
「どんなことがあっても、俺が凪を幸せにするから」
「……うん。信じてる。……大好きだよ、みーくん」
お湯の中で静かに重なる指先は、さっきの約束をなぞるように、ずっと離れることはなかった。
朝食を済ませ、身支度を整えて旅館をチェックアウトした。名残惜しさはあるが、旅の最終日はまだ始まったばかりだ。タクシーに揺られ、俺たちが向かった先は、箱根観光のハイライトとも言える「大涌谷」行きのロープウェイ乗り場だ。
目指すのは箱根ロープウェイの頂上。ロープウェイのゴンドラが乗り場を離れ、地上を離れていく。グングンと高度を上げていくにつれ、眼下に広がる箱根の山肌は、まるで職人が縫い合わせたかのような鮮やかな緑のパッチワークから、次第に荒々しい火山の表情へと姿を変えていく。
「わっ……すごい! どんどん高くなっていく!」
凪は目を輝かせて窓の外を眺めていたが、ゴンドラが支柱を越えてふわりと揺れた瞬間、表情をこわばらせて俺の腕にぎゅっとしがみついた。
「……ねえ、みーくん。ここ、昨日よりもさらに高くない? 揺れるよ……」
俺は彼女の肩を抱き寄せ、安心させるように背中をさすった。凪は俺の手を握りしめ、恐る恐る窓の外を見下ろしている。その瞳には、絶景への感動と、高いところへの少しの恐怖が入り混じっていた。
「……あ、でも、見て。あっちの山肌、なんだかすごいね。煙が上がってる?」
ゴンドラが大涌谷の谷底へと差し掛かると、そこには劇的な光景が広がっていた。山肌から白い噴煙がもうもうと立ち上り、剥き出しの荒涼とした岩肌が広がっている。植物が一本も生えないその場所は、まるで地獄絵図のように異様で、それでいて神秘的な美しさを放っていた。
「うわぁ……! 本当に地獄みたい……」
凪が感嘆の声を漏らす。眼下の谷底から蒸気が吹き出し、熱湯が沸き立っているのが見える。
「凄い……。地球ってすごいんだね」
大涌谷駅に降り立つと、鼻を突く独特の硫化水素の香りが辺り一面に立ち込めていた。さっきまでの爽やかな空気とは打って変わった、火山活動の息吹を感じさせる荒々しい環境だ。
「うっわ……! すごい匂い!」
凪は好奇心いっぱいに辺りを見渡す。岩場からは至る所から蒸気が吹き上がり、熱湯が沸き立っている。
「名物の『黒たまご』、食べに行こう。食べると寿命が延びるらしいよ」
「ほんと? じゃあ、みーくんとずっと一緒にいられるように、たくさん食べないとね!」
そう言ってはしゃぎながら、凪は売店へと向かって歩き出した。荒涼とした岩場を歩いていると、硫黄の香りが身体を包み込む。時折、風が強く吹き抜け、谷の反対側から蒸気がごうごうと音を立てて噴き出しているのが見える。
しかし、その岩場を歩いている途中、凪がの靴が偶然「キュ」と小さく音を鳴らした。
「……ねえ、今……おならした?」
俺が冗談っぽく尋ねると、凪は顔を真っ赤にして俺の腕をバシバシと叩いてきた。
「してないもん! ……今の音は、靴の摩擦音! 」
「ふーん、そうなの?」
「もう! みーくんのいじわる! …… あー、もう! 早く卵食べに行こう!」
彼女は羞恥を隠すように、俺の手を引いて足早に歩き出した。その横顔が、夕日のように真っ赤に染まっているのが分かって、俺はたまらなく愛おしくなり、笑いを堪えて彼女の背中を追った。
売店で手に入れた熱々の黒たまごは、殻が真っ黒で、少し不思議な見た目をしていた。凪は恐る恐る殻を剥き、中から現れた白身を見て「あ!中は真っ白なんだ!」と目を丸くする。
「熱いっ、熱いっ」
言いながらも、一口食べて「美味しい!」と声を弾ませる凪の姿を見ているだけで、ここに来て本当によかったと心から思えた。荒々しい火山のパワーを借りて、俺たちは今日という日を、そして明日以降も続いていく未来を、噛み締めるように卵を頬張った。
「寿命、延びたかな?」
凪が俺を見上げていたずらっぽく笑う。
「ああ、きっと延びたよ。ずっと二人でいられるくらいに」
俺がそう答えると、彼女は満足そうに微笑み、また俺の手を握りしめた。荒涼とした地獄のような場所で、彼女の体温だけがこの上なく温かい。大涌谷の風が、二人の髪を揺らして吹き抜けていく。それはまるで、旅の終わりが近づいていることを告げるような、少し切なく、しかしこの上なく幸福な風だった。
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