箱根旅行2日目①
窓の外から差し込む淡い光が、まぶたの裏を叩く。昨夜の余韻が残る身体は驚くほど軽く、隣を見ると凪がまだ規則正しい寝息を立てていた。窓を少し開けると、箱根の朝の澄み切った空気が部屋を満たす。
「……ん、おはよう、みーくん」
凪がゆっくりと目を開ける。とろんとしたその瞳が俺を捉えた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「おはよう。よく眠れたか?」
「うん、みーくんと一緒だったから」
凪が布団の中から腕を伸ばし、俺の首に絡みついてくる。その無防備な愛らしさに、思わず彼女の額に口づけを落とした。
「ねえ、朝風呂、いく?」
「いいけど、離してくれないと起きれないよ」
「じゃあ、もう少しだけ……このまま」
凪が胸元に顔をすり寄せてくる。朝の静寂の中で、二人の呼吸が重なる。何度もキスをして、身体を寄せ合って、少しだけ甘い時間を過ごした。
朝風呂を済ませた、ちょうど朝食の時間になった。
朝食は、昨日と同じく部屋食だった。並べられた焼き魚、温かい湯豆腐、炊き立てのご飯。
「いただきます」
「朝ごはんも美味しいね」
「うん、旅館の朝食って美味しいんだよな」
「食後のコーヒーもあるみたいだよ」
「わあ、最高じゃん」
朝食を済ませ、身支度を整えて旅館を出ると、箱根の朝はすでに活気に満ちていた。タクシーに揺られ、芦ノ湖の湖畔にある箱根神社を目指す。
「あ、テレビで見たことあるやつだ!」
湖に浮かぶ「平和の鳥居」を見つけた凪が、子どものようにはしゃいで指をさす。その屈託のない笑顔を見ているだけで、ここに来て本当によかったと心から思える。湖面がキラキラと光を反射し、まるで宝石を散りばめたようだ。
「すごい綺麗!ねえ、あの鳥居まで行ってみよう!」
「まずは参拝してからな」
階段を登る足取りは驚くほど軽い。境内に足を踏み入れると、そこは別世界だった。高くそびえ立つ杉木立が空を覆い、時が止まったような厳かな空気に包まれている。木漏れ日が地面にまだら模様を描き、凪の髪を柔らかく照らしていた。
神聖な場所だというのに、凪と手を繋いでいるだけで、世界が色づいていくような不思議な感覚があった。
「みーくん、何お願いしたの?」
「それは秘密」
「えー、気になる!」
「凪こそ、何お願いしたんだよ」
「……内緒」
「ずるいぞ」
「ふふ、叶ってからのお楽しみ!」
楽しそうに目を細め、境内の木々を見上げる凪の横顔を見つめ、俺はこれ以上何を願う必要があるだろうかと、ふと思った。この穏やかな時間が、ずっと続けばいい。それだけで十分だった。
バスで箱根園へと移動し、プリンスホテル内のレストランへ。大きなガラス窓から芦ノ湖と周囲の山々が一望できる、贅沢なロケーションだ。外の喧騒とは隔絶された、ゆったりとした時間が流れている。
「ここ、すごく素敵! 山と湖が全部見えるね」
「落ち着いてていいところだな。ここならゆっくりできるだろ」
「ランチ、何にする? どれも美味しそうで迷っちゃう」
「俺はハンバーグかな。ここ、名物らしいし」
「私はパスタにしようかな! 季節の野菜がたっぷりの」
注文を済ませると、凪は嬉しそうに窓の外を眺めている。湖を渡る風が、レストランの窓辺をかすめていく。運ばれてきた料理の芳醇な香りに、俺たちのお腹は期待で鳴った。
「美味しそう! いただきます!……ん、すごい、ソースが濃厚!」
凪が目を輝かせながらパスタをくるくると巻いている。
「こっちのハンバーグも最高だぞ。肉汁がすごいんだ」
「ほんとだ。……ねえ、みーくん」
凪が小首をかしげ、いたずらっぽく笑みを浮かべる。彼女は手に持っていたフォークを一度置いて、じっと俺を見つめた。
「一口交換こしない? 私、みーくんのハンバーグ、あーんして食べたいな」
「え、ここでか?」
「だーめ? 恥ずかしい?」
凪は少し頬を染めながら、でも楽しそうに俺の反応を待っている。周囲の客はそれぞれの会話に夢中で、俺たちのことなんて見ていないはずだ。俺は少しだけ照れながらも、ハンバーグを小さく切り分け、ナイフの先で慎重にフォークに乗せた。
「……はい、どうぞ」
「……んっ、あーん」
凪が唇を少しだけ開いて、俺が差し出したハンバーグをそっと口に運ぶ。彼女が口を閉じて幸せそうに咀嚼する姿を、俺は少しの緊張と、それ以上の愛おしさで見つめていた。
「ん〜〜! やっぱり美味しい! 肉汁じゅわってなるね」
彼女が満足そうに笑うと、今度は逆に凪がパスタをフォークに巻いて、俺の口元へ近づけてきた。
「じゃあ、次は私から。あーん」
俺が口を開けると、凪は少しだけ手を伸ばして、そのままパスタを口に入れてくれた。柔らかな麺とソースの風味が口いっぱいに広がる。
「……美味しいな」
「でしょ? どっちも美味しいね」
「ああ、最高だよ」
彼女の幸せそうな表情を見ているだけで、俺も自然と笑みがこぼれる。さっきまで鳥居の前で真剣に願っていたことが、もう既に叶っているような気がした。こうして凪と二人で美味しいものを分け合っているだけで、世界がこんなにも輝いて見えるなんて、旅の魔法にでもかかっているのかもしれない。
午後は箱根駒ヶ岳ロープウェイへと向かう。今日は雲一つない快晴が味方してくれた。ゴンドラが頂上駅に向けてゆっくりと動き出し、地上を離れていく。グングンと高度を上げていくにつれ、眼下に広がる箱根の山肌は、まるで職人が縫い合わせたかのような鮮やかな緑のパッチワークへと姿を変えていく。
「わっ……すごい! どんどん高くなっていく!」
凪は最初こそ目を輝かせて窓の外を眺めていたが、ゴンドラが支柱を越えてふわりと揺れた瞬間、表情をこわばらせて俺の腕にぎゅっとしがみついた。
「……ねえ、みーくん。ここ、結構高いね……」
「大丈夫だよ。手握ってるから」
凪は俺の手を握りしめ、恐る恐る窓の外を見下ろしている。その瞳には、絶景への感動と、高いところへの少しの恐怖が入り混じっていた。
「無理して外見なくてもいいからな」
「ううん、せっかくだから……一緒に見たい」
凪は顔を少しだけ赤らめながら、手を握りる力を強める。でも少しずつ落ち着いた感嘆の声へと変わっていった。
「見て! 空が青い! さっきまであんな下にいたのに、景色が綺麗!」
ゴンドラが頂上駅へと滑り込むと、そこには別世界が待っていた。
視界がパッと開けた山頂で、俺たちは思わず言葉を失った。目の前には、どこまでも広がる真っ青な空を背景に、堂々たる山々が静かに鎮座している。そして展望台からは芦ノ湖が一望できた。
「うわぁ……! 綺麗……」
凪が感嘆の声を漏らし、思わず手すりに駆け寄る。
「絶景だね!あ!あっちには富士山も見える!」
「凪、写真撮らせて」
気づいたら、俺はスマホを構えていた。山頂の澄んだ空気を吸い込み、芦ノ湖と富士山をバックに少しだけ髪を揺らす凪が、あまりにも眩しくて愛おしかったからだ。
「え、もう? ……ちょっと待って、髪とか変じゃないかな?」
凪は慌てて手で髪を整えようとするけれど、その照れくさそうな仕草さえも愛おしくて、俺はレンズ越しに思わず笑みがこぼれた。
「今のままで十分綺麗だよ。そのまま、こっち向いて」
俺が声をかけると、彼女は少しだけはにかんで、俺の方を向いた。背景には深い群青色の芦ノ湖と、堂々たる富士山。そして、その後ろに立つ、世界で一番可愛い彼女。
「いくよ、はいっ」
カシャ、と小さなシャッター音が風に流れる。画面の中に収まった凪は、恥ずかしさと喜びが入り混じったような、とびきり甘い表情を浮かべていた。
「ねえ、見せて!」
駆け寄ってきた凪と肩を並べて、スマホの画面を覗き込む。
「うわ……いい感じかも。なんか、すごく幸せそうな顔してるね、私」
「ああ。最高にいい顔だよ」
「……みーくんのおかげかな?」
凪は少し茶目っ気たっぷりに首を傾げ、俺の腕に体重を預けてきた。秋のひんやりとした山頂の風が吹き抜けるけれど、彼女の体温が伝わる場所だけが、じりじりと熱い。
「この景色も、この空気も、凪と一緒だからこんなに綺麗に見えるんだよ」
俺が真っ直ぐに伝えると、彼女は真っ赤になって俺の胸元に顔を埋めた。
「……ずるいよ、そんなこと言われたら」
「本心だよ。……ねえ、せっかくだからさ、ツーショットも撮ろうよ」
俺がそう言うと、凪は顔を上げて「うん!」と大きく頷いた。
「じゃあ、カメラは私が持つね!」
凪が腕を伸ばし、インカメラに二人を収めようとする。俺たち二人の顔が画面の中で重なるようにして、ギュッと距離を詰めた。
「……近いよ?」
「いいの。……はい、ポーズ!」
カシャリ、という音と共に、二人の笑顔が写真の中に焼き付けられる。
「あ、今のすごくいいね! 二人とも笑えてる」
凪が画面を確認して、嬉しそうに何度も頷いている。その光景が何よりも幸せで、俺は彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「……一生の宝物だね」
「うん、絶対だよ。今日のこと、ずっと覚えておこうね」
凪は俺の胸に頭を預け、再び眼下に広がる箱根のパノラマを眺めた。この景色も、今感じている温もりも、すべてを未来へと持っていきたいと、俺は強く思った。
旅館へ戻ると、昼間の喧騒とは打って変わった静寂が、玄関先で俺たちを待っていた。部屋に入り、畳の香りに包まれると、どっと心地よい疲れが押し寄せてくる。
「あー……歩いたねえ。足が少し重いかも」
「無理したからな。まずはゆっくり休もう」
凪は座椅子に深く腰を下ろし、満足そうにため息をついた。窓の外では、山々が深い紅に染まり始めている。
「今日、楽しかったね」
「ああ、本当に。最高の二日目だったな」
「……うん。でもね」
凪がふと口ごもり、俺の方をじっと見つめる。その瞳には、昨夜の温泉で交わした約束の熱が、密やかに宿っているようだった。
「ご飯食べ終わったら、ね」
凪がふと口ごもり、俺の方をじっと見つめる。その瞳には、昨夜の温泉で交わした約束の熱が、密やかに宿っているようだった。
俺は隣に座る凪の肩にそっと手を置き、彼女の耳元で小さく囁いた。
「さあ、何のことかな」
わざと彼女の耳たぶを指先で軽く撫でて、挑発するように視線を絡める。彼女の呼吸が一段と深くなり、胸の鼓動がここまで伝わってくるほどだ。俺は少しだけ意地悪く、彼女の顎先を指先ですくい上げた。
「そんな顔して期待されてもな。凪はほんとにエッチだな」
「……っ、そんなこと、言わないでよ……!」
凪は真っ赤になった顔を両手で覆い、畳に座り込んだまま身を縮めた。普段はしっかり者の彼女が、これほどまでに無防備に羞恥に染まる姿は、何度見ても飽きることがない。俺はなおも意地悪を続けるように、覆われた彼女の手をそっと引き剥がした。
「エッチ、だろ? 今日ずっとそのこと考えてたの?」
「……うぅ。ずっとじゃないよ……意識し始めたのは帰ってくる時からだよ。もう、みーくんの、せいだよ。そんなふうに、ずっと見てくるから……」
凪は潤んだ瞳で俺を恨めしそうに見つめるが、その視線はどこか甘く、拒絶の意志なんて微塵も感じられない。むしろ、俺の挑発をどこかで待ち望んでいたかのように、彼女の吐息はさらに熱を帯びていた。
俺は彼女の顎先をすくい上げたまま、ゆっくりと顔を近づける。鼻先が触れ合うほどの距離で、彼女の震える唇を見つめた。
「この調子だと、ご飯まで待てなくなるぞ?」
「……っ……」
凪は言葉を失い、ただあえぐように小さく息を漏らす。その隙に、俺は彼女の唇のすぐそばで低く囁いた。
「もう少し待とうな」
「……みーくんの、……いじわる……。でも……大好き」
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!





