箱根旅行1日目②
チェックインを済ませ、案内されたのは旅館の中でも眺望が良いと評判の、落ち着いた和室だった。窓が広く、清潔感のある素敵な空間だ。
「わあ……! いいお部屋だね!」
「ああ、最高だな。十分すぎるくらい落ち着けそうだな」
「見てよ、この窓。ここからだと山の緑がすごく綺麗に見えるよ!」
凪は靴を脱ぐと、ふかふかの畳の上で少し跳ねるようにして窓際へ駆け寄った。外には箱根の山並みが静かに広がっていて、さっきまでの商店街の喧騒が嘘みたいだ。
「ねえ、見て! このお茶菓子、すごく美味しそう」
「ああ、地元の和菓子屋さんのやつかな」
「あー、最高っ」
凪は窓際の座椅子にどっかと座り込み、窓の外の景色をぼんやりと眺め始めた。俺は荷物を片隅に置き、少し落ち着かない気持ちでその横に腰を下ろす。
「お茶、淹れようか」
「あ、いいの? ありがとう」
急須で温かいお茶を注ぐ。立ち上がる湯気を見つめながら、凪がふと表情を和らげた。
「みーくんのおかげだよ」
「奮発した甲斐があったな」
「本当にありがとう。……ねえ、この後、食事だよね?」
「ああ、部屋食だって言ってたろ。楽しみだな」
会話が途切れても、不思議と気まずさはない。窓から吹き込んでくる山の風が、部屋の中を心地よく通り抜けていく。夕暮れが近づき、山並みがゆっくりと深い群青色に染まっていく。
「ねえ、ちょっと外の空気吸いに行かない?」
「いいね。ベランダに出られるみたいだよ」
二人で窓を開け、小さな縁側のようなスペースに出る。外はもうひんやりとしていて、都会とは違う凛とした空気が流れていた。
「あー、気持ちいい……。やっぱり空気が違うね」
「ああ、なんだか深呼吸するだけで身体が軽くなる気がするよ」
「本当だね。ずっとこうして景色を眺めていたい気分」
凪は手すりに寄りかかり、夜の闇に飲み込まれつつある山々を眺めている。その横顔を眺めていると心が満たされる。
「今日色々回れててよかったな。おとといの夜、計画表作っててよかったよ。おかげで迷わずに済んだし」
「ほんとだね。私があれもこれもって詰め込みすぎたのに、全部付き合ってくれてありがとね」
「楽しかったからな」
「よかった。本当に今回の旅行、楽しみにしてたの」
凪が少し照れくさそうに笑い、俺の方を向く。その瞳に、旅館の明かりが反射してキラキラと輝いている。
「ありがとう。一生忘れられない思い出になりそうだよ」
「……まだ一日目の夜だろ」
「分かってるってば! でも、今この瞬間がすごく幸せだって言いたかったの」
しばらくして、仲居さんが夕食を運び入れてくれた。品数も多すぎず少なすぎず、ちょうどいいボリュームの料理が並ぶ。
「すごい……。どれも美味しそう!」
「地元の山菜に、魚か。いいメニューだな」
仲居さんが丁寧に料理の説明をしてくれる間、湊たちはただ頷きながら、期待に胸を高鳴らせていた。説明が終わると、凪が箸を持ち上げ、小さく手を合わせた。
「いただきまーす!」
「いただきます」
口に入れた刺身は、新鮮で引き締まっていて甘かった。
「……んー! おいしい! さっき食べ歩きしたのに、別腹って本当にあるんだね」
「お前、さっきの食欲は何だったんだよ」
「それはそれ、これはそれ! ほら、これも美味しい!」
二人で笑い合いながら、箸を止めることなく料理を一つずつ堪能していく。
「あー、お腹いっぱい。……もう動けないかも」
「食べ過ぎだろ」
「だって、美味しいのがいけないんだよ」
凪は満足そうにお腹をさすりながら、座椅子に背中を預けた。夜の帳が完全に降りて、窓の外は漆黒の闇に変わっている。遠くで虫の声が聞こえる。
「……ねえ、そろそろ温泉、行こうか?」
「うん。……あ、そういえば」
凪が少しだけ頬を染めながら、俺の方を向いた。
「このお部屋のお風呂、温泉なんだよね?」
「ああ、そう書いてあった。この部屋専用の温泉だな」
「二人で、入れるよね?」
凪の言葉に、俺の心臓が少しだけ跳ねた。
「……ああ、そこそこ広そうだし」
「……うん。じゃあ、行こうか」
二人は立ち上がり、浴衣を羽織って浴室へ向かった。ドアを開けると、木の良い香りと温泉特有の匂いが立ち込めている。
「うわ……。すごい、想像よりずっと雰囲気あるね」
凪はそう言って、湯気の向こうに広がる檜風呂をじっと見つめた。月明かりが、窓の外の木々の影を浴室の壁にゆらゆらと映し出している。
「本当だな。いい感じだな」
俺はそう答えながら、浴衣の帯をほどいた。少しだけ緊張で指先が震える。凪もそれに応えるように、ゆっくりと自身の浴衣に手をかける。さらりと衣類が滑り落ち、露わになった肌が、浴室に満ちる湯気の熱を浴びて、ほんのりと上気し赤らんでいく。
「……ねえ、みーくん」
「ん?」
「なんか、ドキドキするね」
服を脱ぎ終えた凪が、少しだけ照れくさそうにこちらを見て、小さく微笑んだ。その瞳は潤んでいて、普段よりもずっと熱を帯びているように見える。俺は彼女の細い肩に視線をやり、喉が鳴るのを必死にこらえた。
「俺もだよ。……凪が綺麗すぎて、心臓がうるさい」
「もう、そんなこと言って……」
凪がはにかみながら、湊の手に指を絡める。俺は彼女の手を握り返し、足元のタイルが滑らないように気遣いながら、二人で湯船の方へと進んだ。
月明かりに照らされた木々が、夜の静寂の中に静かに浮かび上がっていた。露天風呂のような開放感に、凪が小さく息を呑む。
「わあ……すごい。月、すごく綺麗だね」
「本当だな。……こんなところで、凪と二人きりなんて贅沢すぎるよ」
凪は窓の外の景色を少しの間見つめていたが、やがてゆっくりと檜の湯船へ歩みを進めた。一番端の段差に腰を下ろし、凪がゆっくりと湯船に足を浸す。
「……熱っ! ……いや、少し熱いけどちょうどいい温度かも」
「本当だ。最高だな」
凪がゆっくりと湯船に沈み込んでいく。白い湯気が二人の身体を優しく包み込んでいく。
「ねえ……」
「ん?」
「今日、本当に楽しかったね。商店街歩いて、美味しいもの食べて……」
「ああ、最高の始まりだよ」
凪が俺の方へゆっくりと近づいてくる。湯船の中で、そっと手が重なる。
「明日も明後日も、楽しみだね」
「……そうだな」
夜の静寂の中で、温泉の温かさと、隣にいる凪の体温だけが、今の世界のすべてだった。俺たちは言葉を探すこともせず、ただ静かに湯に浸かり、箱根の夜を二人だけで共有していた。
「ねえ、明日、何時に起きる?」
「朝ご飯が8時だったかな」
「じゃあ、少し早めに起きて朝風呂でもしよっか!」
「そうだな。そうしよう」
私たちは湯船の中で寄り添い、窓の外に広がる真っ暗な山を見つめた。今日という日が、終わりたくないほど愛おしい。そんなことを感じながら、俺たちはゆっくりと、長い夜を過ごし始めた。
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