箱根旅行1日目①
駅の改札を抜けてすぐ、ホームへ向かうエスカレーターの上で、凪が隣で鼻歌を歌っている。
「楽しそうだな」
「楽しみだよ!みーくんと二人で旅行だもん」
そう言って湊の腕に抱きつく。
「凪へのご褒美なんだから今日は凪の言うことはなんでも聞くからね」
「……わかった!ありがとう!」
凪が満足そうに頷く。ホームに吹き付ける風が少し冷たい。時刻表を確認すると、目的の特急列車が到着するまであと十分ほどある。
「あ、ねえ見て」
「ん?」
「駅弁買おう!……あ!シュウマイ弁当あるよ! 旅の始まりにはやっぱりこれでしょ」
「それは同意だな。俺もそれにするつもりだった」
「あはは、考えること一緒だね。二つお願いします!」
凪は小躍りしながらショーケースの列に並び、迷わずシュウマイ弁当を二つ手に取った。俺はついでにお茶も二本買う。
「これさ、車内で食べるのが最高なんだよね」
「今食べすぎると向こうで食べられなくなるぞ」
「いいの! 旅行の時って、胃袋のキャパシティが拡張されるのよ」
ホームに戻ると、ちょうど列車が入線してくるアナウンスが流れた。風が強まり、列車のヘッドライトが遠くから急速に大きくなる。
「来たよ!」
「危ないから下がってろよ」
俺は凪のリュックを掴んで、黄色い点字ブロックの内側に引き寄せた。
「わかってるってば。……ねえ、向こう着いたらどうしよっか?」
「まず何食べるか考えとくか」
「昨日計画してた商店街の食べ歩きリスト持ってきたからなんとなく決めよう!」
列車が停車し、扉が開く。指定された号車へ向かい、座席を見つける。窓側の席に凪を押し込み、俺は通路側に座った。
「このシート、思ったよりふかふかだね」
「特急だからな。さあ、食べるか?」
「うん。……いただきまーす!」
凪は早速お弁当の紐をほどき、蓋を開けた。シュウマイ弁当の木のいい香りが鼻に広がる。
「おいしい……。やっぱりこのシュウマイ、冷めてても最高だよね」
「そうだな。この筍の煮物もまたいい仕事してるんだよ」
「わかる! このバランスが絶妙なんだよね」
列車がゆっくりと滑り出し、ホームが後ろへ遠ざかっていく。街の景色が高速で切り替わっていく様子を、俺たちは黙って窓越しに眺めた。
「ねえ、箱根湯本まであとどれくらい?」
「一時間半くらいかな。あっという間だよ」
「楽しみすぎて寝る暇なんてないね」
「それはそうだ。……あのさ、計画だと、まずは駅前かな?」
「そう! あそこのお饅頭屋さん、絶対行列できてるから先に並ぶよ」
「三日あるから焦らず楽しもうな」
「うん!」
そう笑顔で頷く凪を見ているだけで、ようやく「旅に出たんだ」という実感が、じわりと胸の中に広がっていくのを感じた。
「あのさ、今回の計画、私がわがまま言って食べ歩きメインにしたけど、疲れない?」
「いや、俺も食べ歩きは楽しみだぞ。それに、凪が行きたい場所に行くのが一番だしな」
「……あんまり甘やかすと私、もっとわがままになるよ?」
「上等だよ。……ああ、そうだ。この後、山道に入るから少し揺れるかも」
「へぇ、いよいよ箱根っぽくなってきたね」
列車は加速し、都市部のビル群を抜け、次第に緑が濃い風景の中を突き進んでいく。窓から差し込む朝の光が、凪の横顔を明るく照らしていた。
「ねえ、流れていく景色見てよ。山の緑がすごい」
「ほんとだ。……あれ、川だ」
「え、どこどこ?」
凪が俺の顔のすぐ近くまで身を乗り出してくる。少しだけ香水の甘い香りがした。
「あそこ、橋のたもとだよ」
「あー! 本当だ! 水が澄んでる!」
凪のテンションが一段と上がる。
「ねえ、写真撮っていい?」
「ああ、いいぞ」
「景色じゃなくてさ、お弁当食べてる私たちも撮って!」
「恥ずかしいこと言うなよ」
俺はわざとらしく窓の外へ顔を向ける。
「もう、照れなくていいでしょ! ほら、こっち向いて!」
凪が俺の腕を掴み、無理やり画面の中央へ引っ張り込む。
「はい、ポーズ!」
「……シュウマイ持てってか?」
「そう! それが一番っぽいから!」
凪が笑いながらシャッターを切る。俺は覗き込まれたスマホの画面を見る。確かに、そこにはシュウマイ弁当を掲げて笑う、少し間抜けな俺たちの姿が写っていた。
「……確かに、いい記念だな」
「でしょ? これ、今回の旅のアイコンにする!」
「もっといい写真あるだろ」
「えへへ」
凪は満足そうにスマホをしまい、背もたれに深く寄りかかった。
「……ねえ」
「ん?」
「本当に旅行できてよかった」
「ああ。最高だな」
列車は深いトンネルに入り、周囲の景色が一瞬で闇に覆われた。
トンネルを抜けると、先ほどまでとは一変して、目の前に山々が姿を現した。
「うわぁ……」
凪が声を漏らす。俺も思わず感嘆の声を上げた。
「着いたら商店街見るんだよな」
「そう!まずは揚げたてのかまぼこでしょ、それからお饅頭!」
「お前、さっきシュウマイ弁当食べたばかりだろ」
「いいの! 食べ歩きは別腹なの!」
凪がカバンから昨日作った計画表を取り出し、ペンを構える。その真剣な表情を見て、俺はまた笑いそうになった。
「本当に楽しみに計画してくれたんだな」
「当たり前でしょ! だって、楽しみだったんだもん」
凪の言葉に、胸が少しだけキュンと締め付けられる。その重みを、俺はどれだけ理解しているだろう。
「……そうだな。最高の思い出にしよう」
「うん!」
凪が力強く頷く。列車は揺れながら、次の駅へとひた走る。空は青く、山々は深く、俺たちの隣には相手がいる。これ以上の幸せが、どこにあるだろうか。
「ねえ、お茶飲み干しちゃった」
「俺もだ。到着まであと少しだな」
「ねえ、降りる準備しよっか」
「ああ、そうだな」
凪は名残惜しそうに空の弁当箱を片付け始めた。
「準備バッチリ?」
「バッチリ!」
凪の瞳がキラキラと輝いている。その輝きを見ているだけで、俺も自然と力が湧いてくるのを感じた。
「よし、行こうか」
「うん! 箱根の商店街、制覇するよ!」
列車が速度を落とし、駅のホームへ滑り込んでいく。アナウンスが流れ、ドアが開く。都会とは違う空気が流れ込んできた。
「着いたね!」
「ああ。さあ、行くぞ!」
俺たちは立ち上がり、それぞれの荷物を持ってホームへ降り立った。駅の空気は少しだけ湿っていて、心地よい。
「さて、まずはどっちに行こうか?」
「駅を出て、すぐのところに商店街があるはず!」
凪が元気いっぱいに指差す。俺はそれを見て、小さく笑った。
「了解。じゃあ、行くか」
俺たちは駅の出口へ向かって歩き出した。これからどんな美味しいものに出会えるのか。そんな想像を膨らませながら、俺たちは一歩ずつ、旅の始まりを噛み締めていた。
商店街に足を踏み入れると、観光客の熱気と美味しそうな匂いに包まれる。
「あ! あの店、行列できてる!」
「あれがかまぼこ屋さんか?」
「うん、そうみたい! 並ぼう、並ぼう!」
凪の手を引いて、行列に並ぶ。待っている間も、凪は周囲のお店をキョロキョロと見て回っている。
「ねえ、あれも美味しそうじゃない?」
「あれは帰りにしよう。まずは目の前の誘惑をクリアしないとな」
「もー、理屈っぽいなあ。でも、正解かも」
揚げたてのかまぼこを手に取ると、熱くて思わず声を上げた。
「あつっ! でも、すっごく美味しい!」
「本当だ。魚の旨味が凝縮されてるな」
商店街をぶらぶら歩きながら、次は団子、その次は焼き立ての海鮮せんべいと、俺たちは次から次へと食べ歩いた。
「あー、もうお腹いっぱい! 幸せ!」
「半分以上、俺が食べちゃった気がするんだけど」
「いいじゃない、シェアするのが楽しさの秘訣だよ!」
凪が笑いながら言う。その笑顔を見て、俺も思わず笑ってしまう。
「はいはい、わかったよ。お腹も膨れたし、そろそろ宿に向かうバス乗り場を探そうか?」
「うん。どんなお宿か楽しみだね」
俺たちは駅前のバス乗り場へと向かった。観光客で混み合う行列に並びながら、俺たちはバスの到着を待つ。
「ねえ、バスってどれくらいで着くんだっけ?」
「この路線なら、だいたい二十分くらいかな。山道を登っていくから、景色がすごくいいはずだよ」
「二十分も! 楽しみー。隣座れるかな?」
「さあね、混んでるし別々かもしれないぞ」
「えー、それは嫌! 一緒がいい!」
凪が俺の服の裾を掴んで揺らす。バスがカーブを曲がってバス停に入ってくると、列が少し動き出す。
「よし、来たぞ」
バスに乗り込み、なんとか二人並びの席を確保できた。窓の外には、箱根湯本特有の深い谷と、川のせせらぎが見える。
「わあ、本当に山道だね! すごい傾斜!」
「そうそう、これが箱根の醍醐味なんだよな」
「川がなんか白っぽい?」
「温泉の成分とかが混ざってるんじゃないかな?」
「箱根みたいだね」
「箱根だからね」
バスはうねるような山道を登っていく。左右に揺れるたびに、凪が俺の方へ少しずつ寄りかかってくる。
「ごめんね、揺れるね」
「気にするなよ。それより、あの看板。宿の名前が出てるぞ」
「えっ、どこどこ? ……あ! 本当だ! あそこだよね」
バスの窓から見えるのは、鬱蒼とした森の中に溶け込むように佇む、静かな旅館の入り口。期待がさらに高まる。
「もうすぐだね。ドキドキする」
「ああ。今日一日は、とことんのんびりするぞ」
「うん! 最高の初日になりそう!」
バスがゆっくりとブレーキをかけ、停留所に停車し、俺たちはバスから降りた。
「到着!」
「ふう、お疲れ様。さあ、あそこの坂を登ればお宿だ」
「わっ、結構な坂だね! 荷物持ってくれてありがとね」
「これくらい余裕だよ。さあ、行こう!」
俺たちは手を取り合い、宿へと続く細い坂道をゆっくりと登り始めた。周囲には木々が静かに立ち並び、遠くから鳥の声が聞こえてくる。箱根の空気が、都会とはまったく違う。
目の前に広がるのは、歴史を感じさせる大きな門と、手入れの行き届いた庭園。ようやく、俺たちの旅の拠点にたどり着いた。
「さあ、入ろうか」
「うん!」
俺たちが宿の入り口へと足を踏み入れたその瞬間、宿のスタッフが笑顔で出迎えてくれた。一日目の、心地よい宿への到着だった。
読んでくださってありがとうございます。
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