旅行前日
朝の気配に目を覚ますと、隣のシーツはすでに冷たくなっていた。
「……ん……みーくん?」
寝ぼけ眼をこすりながらリビングへ向かうと、キッチンから香ばしい匂いが漂ってくる。エプロン姿の湊が手際よくフライパンを振っていて、その背中が頼もしくも愛おしくて、凪は音もなく背後から忍び寄って、彼の背中にそっと額を預けた。
「……おはよう、凪。あと少しでできるよ」
湊は振り返らずにそう言って、背後の凪の手の上に自分の手を優しく重ねる。昨夜の余韻で、まだお互いの筋肉は少し強張っているけれど、こうして密着しているだけで痛みが和らぐような気がした。湊は調理を終えると、優しく凪の方を向いて、彼女の髪をそっと撫でた。
「いい匂い。……みーくん、お腹ぺこぺこだよ」
「すぐ座ってて。今日は体力回復のためのメニューだからね」
湊に促されてテーブルにつくと、凪はキッチンから漂う美味しそうな朝食の気配を楽しみながら、明日の旅行のためにクローゼットへ向かった。旅行用の服を選ぶという名目だが、実際には二人で過ごす特別な時間を想って、少しだけ念入りに選んでしまう。
「みーくん、この服とこの服、どっちがいいと思う?」
準備をしながら問いかけると、湊はスープをかき混ぜる手を止め、少し考えてから「どっちも似合うけど、その薄い方のワンピースがいいかな。涼しげで、温泉街の散策にもぴったりだと思うよ」と、穏やかな笑顔で答えた。凪は嬉しそうに頷き、そのワンピースを畳んでバックに詰めた。
二人がテーブルを囲んで朝食を終えた頃、ようやく本題の旅行先選びが始まった。
「明日から行くのって、時期的に難しいよね……直前だし、どこも予約がいっぱいかも」
凪が不安げにスマホの予約サイトを眺める。案の定、候補に挙げていた有名な宿はどこも満室で、溜息が漏れる。しかし、諦めかけたその時、湊がスマホの画面を凪の方へ向けた。
「……ここ、どうだ? 箱根の温泉旅館なんだけど」
「えっ、本当だ。……しかも、部屋に露天風呂があるよ!」
凪が目を輝かせた。ひっそりと佇むその宿は、誰にも邪魔されず、ただ二人で静かな時間を過ごすには完璧な場所のように見えた。ただ、宿泊料金を見て凪は一瞬で表情を曇らせた。
「……うわっ、すごい高い……」
「どうせなら、ゆっくり二泊して心ゆくまで身体を癒やすっていうのはどう?」
「いやいや、予算的に……みーくん、貯金大丈夫なの?」
凪の心配に、湊は少し困ったように、けれど余裕のある笑みを浮かべた。お年玉や父親からの小遣いを堅実に運用しており、それなりに蓄えがある湊にとって、この程度の金額は「二人の大切な時間を買う」ための納得できる金額だった。
「大丈夫だよ。……せっかくの夏休みだし、ここでゆっくりして、二人で心からリラックスしたいから」
湊が迷いなく予約ボタンを押し、完了画面が二人の前に表示される。夢のような二泊三日の箱根温泉旅行が、こうして確定した。
「……箱根かぁ。露天風呂から見える景色、どんなだろうね。山が見えるのかな?」
凪が空想に浸るように呟くと、湊は自分のコーヒーカップを置いて、彼女の隣に腰を下ろした。
「たぶん、静かな森の緑が一面に広がるはずだよ。夜は星が見えるかもしれない」
「うわぁ、素敵……。ねえ、二泊あるなら、一日目は宿から一歩も出ないで、ずっとおこもりしちゃおうよ。せっかくお部屋に露天風呂があるんだもん、何回でも入りたい」
凪の提案に、湊は嬉しそうに頷いた。
「賛成だ。二日目は少しだけ足を伸ばして、美術館に行ったり、美味しいご飯を食べたりしてもいいけど、初日はゆっくりしよう。……まずは、身体の疲れを取ることが一番の目的だからね」
湊は凪の手を優しく包み込むと、少しだけ照れくさそうに言葉を続けた。
「……それに、二人で静かに過ごせる時間が、一番の贅沢だと思ってるから。ただ凪と穏やかに過ごせるのが、俺にとっては最高の癒しだよ」
湊の素直な言葉に、凪は少し驚いたような表情を見せたあと、ぱっと花が咲くような笑顔を見せた。
「……もう、みーくんったら」
凪は湊の肩にこてんと頭を預け、少しだけ安心したように息を吐いた。旅行の準備は服を詰めることよりも、こうして二人で未来を語り合う時間の中にこそ、その楽しさが詰まっているのだと二人とも感じていた。
「よし、じゃあ旅行のしおりでも作るか? 細かくスケジュールはたてないけと、食べたいものとか、やりたいことのリストを作っておこう」
「あ、それいいかも! ノート出そうよ。みーくん一緒に書こ!」
凪はソファから立ち上がり、ノートを探しに本棚へと向かった。たった二日間の旅路のために、まるで子供のように目を輝かせてはしゃぐ凪の横顔を見て、湊は胸の奥が熱くなるのを感じた。湊はただ、彼女の幸せそうな姿をずっと見守っていたいと心から思った。
ノートを手に戻ってきた凪が、湊の隣にちょこんと座る。
「まずは何を書く? 食べたいもの? それとも行きたい場所?」
凪がペンを差し出し、無邪気に尋ねてくる。その愛らしい横顔と、自分に向けられた純粋な期待に、湊は胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
湊は凪の手からペンを受け取るふりをして、そのまま彼女の手首を優しく引き寄せた。
「……っ、みーくん?」
驚いて目を丸くした凪の問いかけに応えるよりも早く、湊は衝動を抑えきれずに彼女を力強く引き寄せ、その身を抱きしめた。凪の華奢な身体が、湊のシャツ越しにしっかりと密着する。
「……ごめん。……今の凪があまりにも可愛くて、どうしても我慢できなかった」
「もう、いきなりでびっくりしたよ」
凪は赤い顔をしながら呟く。湊は彼女の肩を優しくなでながら、少しだけ落ち着いた声でこう続けた。
「凪と会えてよかった。本当に幸せだよ」
湊の真っ直ぐな言葉に、凪は照れくさそうに微笑んで、彼の胸にそっと額を預けた。明日、このノートを持って箱根へ向かう自分たちを想像すると、胸の奥から温かい高揚感がこみ上げてくる。
「……私も。みーくんと一緒にいられて幸せ。……旅行楽しみだね」
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