テストに向けて(凪視点)
リビングには今日もペンと走らせる音が響いている。深夜一時を回っても、机の上に積み上げられた参考書は減る気配がない。
「……ねえ、みーくん。ここ、やっぱり何度やっても混乱する。どうしてこんなに難しいの?」
私は参考書を指先でつつき、わざと大きくため息をついた。机の上に積み上げられたノートの山は、私たちの努力の結晶であると同時に、私にとっては「みーくんを独占できない高い壁」でもあった。
湊は私の隣で、自分のノートを閉じると、ふっと視線をこちらに向けた。彼の少し疲れたような、でもどこか優しい眼差しに、私の心臓が大きく跳ねる。
「どれだ? ……ああ、この公式か。これはさ、こうやって分解して考えると、実は昨日やった基礎と一緒なんだよ」
湊が私の背後に回り込み、ペンを持つ私の手を上から包み込む。彼の体温が、シャツを通して私の背中に伝わってくる。耳元で聞こえる低い声。ダメだ、こんなの、勉強のことなんて全部吹き飛んじゃう。
(……みーくんの手、あったかい。さっきまで冷たい指先で計算してたのに、急に胸が熱くなる。……心臓の音が、みーくんに聞こえちゃいそうで怖いよ)
私はわざと首をすくめて、彼の方に寄りかかった。
「あ、本当だ……。みーくんが教えると、なんでこんなにスッと入ってくるんだろう」
(嘘じゃないよ。でもね、公式の意味なんて半分も聞いてない。みーくんの首筋から香るシャンプーの匂いと、私の髪に触れる指先の感触に、全部意識を持ってかれちゃってるの。勉強なんて、正直どうでもよくなっちゃうくらい)
「ならよかった。……ほら、次はこっちの応用問題、自分でやってみろ」
湊は私の肩を離し、再び距離を置こうとする。私はそのシャツの裾を、ぎゅっと掴んで引き留めた。
「……うーん、自信ないなぁ。……ねえ、あと一問解けたら、ご褒美……休憩にしてもいい?」
私は精一杯、可愛く上目遣いを作った。彼が少しだけ困ったように、でも愛おしそうに眉を下げるのを見るのが大好きだ。
「……五分だけだぞ」
その言葉を待ってた。
私はすぐにペンを放り出し、湊の胸に飛び込んだ。彼の心臓が、私の抱擁に驚いて一瞬速く打つのがわかる。シャツ越しに伝わる体温が愛おしい。昔はただ隣にいるだけで満たされていたのに、今の私は欲張りだ。彼の体温も、声も、私に向けられる視線も、全部全部、今の私だけのものにしたい。
「……みーくん」
「ん?」
「……私、絶対8割とって、一週間みーくんを独占するからね。……その時まで、この休憩時間のイチャイチャで、我慢しててね」
私は彼の耳元で、甘く、少しだけ誘うように囁いた。湊の身体が、私の声に反応して一瞬硬くなるのがわかる。
(……ねえ、みーくん。本当は、今すぐにでもこのルールを破って、勉強なんて全部放り出して、二人でベッドに入りたいよ。試験が終わるまでエッチ禁止なんて、私にとっては拷問に近いんだから。こんなに一緒にいるのに、触れ合えるのが休憩時間だけなんて、ずるいよ)
しばらくの沈黙の後、湊はふっと溜息をついた。その表情は、いつになく弱気で、そしてどこか切なげだった。
「……俺だって、我慢するの、結構キツいんだぞ」
「え……?」
「お前が隣で甘えてきたり、俺を誘うような目で見たりするたびに、正直、理性を保つので精一杯なんだ。……テスト期間なんて、一日でも早く終わればいいって、何度も思ったよ」
湊の告白に、私の心臓が爆発しそうになる。
(……うそ、みーくんも? 私のこと、ずっとそんなふうに思ってくれてたの? 私だけが、一人で苦しんでるわけじゃなかったんだ)
嬉しさが胸いっぱいに広がって、私はさらに強く彼の胸にしがみついた。
(好き……大好き。もう、どうにかなっちゃいそう! これでいいんだ。二人で我慢してるからこそ、試験が終わった後の解放感がもっとすごいものになるんだよね)
湊は私の髪を優しく撫でながら、さらに言葉を続けた。
「俺も楽しみなんだよ、テストが終わるのが。……凪と一週間、何して過ごそうか、授業中もずっと考えてるんだ。……だから、あともう少しだけ、一緒に頑張ろうな」
彼の真っ直ぐな瞳に見つめられ、私は言葉を失うほど愛しさが込み上げた。
(あぁ、もう……ずるいよ、みーくん)
「……うん。みーくん、絶対頑張る。私、絶対に8割とって、みーくんを離さないからね!」
私は顔を真っ赤にして、勢いよく彼を見上げた。湊は少し照れくさそうに笑い、私の頬を指先で優しく撫でる。
「ああ、期待してる。……じゃあ、気合入れろよ。あと五問だ」
「うん、先生!」
私たちは再び机に向き合った。さっきまで甘ったるかった空気が、今は二人で「その時」を共有するための、熱い絆に塗り替えられている。
ノートの端に式を書き込む私の手は、さっきよりもずっと力強い。
私の心の中は、計算式よりもずっと複雑で、熱い恋心でいっぱいだ。この熱をすべて勉強に向けたら、きっと8割なんて余裕でクリアできる。そう信じて、私はもう一度、深く彼の方を向いた。
「ねえ、みーくん。……休憩終わったら、もっと厳しく教えてね」
「わかった」
重なり合う視線に、言葉以上の熱が宿る。私たちの戦いは、いよいよ佳境を迎えようとしていた。
試験の三日間、私の頭の中は湊の教え方と、試験が終わった後の甘い想像でぐるぐる回っていた。あの人が教えてくれたこと、あの人が優しく頭を撫でてくれた感覚、そのすべてを心の支えにしてペンを走らせた。
(……大丈夫。みーくんがいるから、私は強くなれる。この問題、昨日一緒にやったよね? そう、こうやって解くんだよね……!)
答えを書くたびに、湊の笑顔が浮かぶ。彼を喜ばせたい、彼に「頑張ったね」って抱きしめられたい。その一心だけで、私は全ての試験を終えた。
そして迎えた最終日の夜。マンションに戻った時のあの解放感は、一生忘れられないだろう。
「……終わったぁ……!」
私は床に倒れ込むようにして仰向けになった。湊も同じように隣に座り込む。
「お疲れ様、凪。……どうだった?」
「うーん……たぶん、頑張ったと思う。みーくんの特訓のおかげで、解けた問題がいくつもあったよ」
私は湊の手を握り、試験中もずっと感じていた彼の温もりを確かめる。結果がまだ出ていないなんて関係ない。私の中では、もうすでにあの約束された「一週間」が始まっているような気分だ。
「……ねえ、みーくん」
「ん?」
「試験中、ずっとこの手のこと考えてたよ。みーくんに抱きしめてもらえる時のこと」
湊はふっと笑って、私の頭を抱き寄せた。その腕の力強さが、これまでの我慢を物語っているようで、胸が締め付けられる。
「俺もだ。よく頑張ったな」
「……みーくん」
私たちはソファの上で重なり合い、もうすぐ訪れる「結果発表」という未来を夢見ながら、穏やかな微睡みの中へ落ちていく。
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