過去を上書きして
駅前の路地裏、古びたレンガの壁の隙間を抜けるようにして「カフェアンバー」の重厚な木の扉を押し開くと、焙煎された豆の香ばしくほろ苦い香りが、一気に四人を包み込んだ。店内は薄暗く、各テーブルには琥珀色のアンティークランプが柔らかな光を落としている。
四人は一番奥の、周囲を気にしなくて済むボックス席に滑り込んだ。冷たい飲み物が運ばれてくると、先ほどまで教室で騒いでいたクラスメイトたちの喧騒が、嘘のように遠い世界の話に感じられた。
千尋がグラスをテーブルに置き、カチリという音を鳴らしてから、いたずらっぽく、けれどどこか真剣な瞳で湊と凪を覗き込んだ。
「さてと。さっきは教室でみんなに囲まれてたからさ、落ち着いたここで聞かせてよ。あの二人、結局どうやってくっついたの? 詳しい経緯、全部吐いてもらうわよ?」
湊は少しだけ気まずそうに、けれど今さら隠す必要はないという安堵感から、鼻の頭を軽くかいて苦笑した。
「別に隠し通すつもりなんてなかったよ。……ただ、自分でもどう説明していいか、整理がついてなかったんだ」
「整理?」と涼が首をかしげる。
「ああ。離れ離れになる前からずっと、俺の中で凪の存在はずっと特別だったんだ。ただ、ずっと胸の奥に閉じ込めていた凪への好意と、また、本当に大切な人を失うなうかもしれないという恐怖があった。だから、誰かと深く付き合うこととかも避けてきてた。失うのが怖くて、自分から誰かに近づくなんてできなかったんだよ」
湊は少しだけカップを見つめ、自傷気味に笑った。
「高校の入学式で再会した時は、本当に運命だと思ったよ。でも、いざ目の前にするとどうしていいかわからなかった。昔の思い出が強すぎて、またあんなふうに離れ離れになるかもしれないとか、余計なことばかり考えててさ。ずっと好きだったからこそ、変に意識しちゃって、どう接すればいいのかわからなくなっちまってたんだ」
すると凪が、少しだけ口を尖らせながら会話に入ってきた。
「私はね、入学式でみーくんを見つけた時、すぐにわかったよ。心臓が飛び出るかと思った。でも、話しかけても昔みたいに笑ってくれなくて……。毎日すれ違うたびに、冷たい壁を作られているような気がして、すごく辛かったの」
涼が呆れたように湊を見る。
「へえ、湊のあの態度は、怖じ気づいてたからだったのかよ」
「……ああ。また好きって気持ちを抱えたまま離れ離れになるかもしれない。好きって気持ちを伝えてしまったら俺に対して気まずく思うかもしれない、って思うと怖かった。だったら距離があったとしても同じ学校で過ごせるだけでもいいって思ってた」
湊の言葉に、千尋が「全く、めんどくさい性格してるね」と笑う。
「でも、そこからが凪ちゃんがしてきたんだよね」
「うん……もう我慢できなかったの。何度冷たくされても、心の中では絶対、昔のみーくんが隠れてるって信じてたから。だからある日、家まで押しかけて、溜まりに溜まった気持ちを全部ぶつけたんだ」
「……凪がそんなふうに体当たりしてきてくれて、本当に嬉しかった」
湊は凪の手を、二度と離さないという意志を込めて、テーブルの下でしっかりと握りしめた。
「ぶつけられた時、俺の中でずっと苦しかったものが一気に溢れ出したんだ。凪も同じ気持ちでいてくれたんだってわかってさ。あー、俺、こんなに凪のこと好きなんだって改めて実感したよ。だから、もう二度と離れないって、その場で心に誓った」
カフェの店内に、コーヒーの香りが優しく漂う。かつてはすれ違い続けていた二人が、ようやく同じ道を歩き始めた。その夜の空気感は、三人の親友たちをも静かに包み込んでいた。
「……なるほどな。お前らが付き合えたのって、凪のその一歩があったからなのか」
涼が感心したように言うと、香織も「うん、本当によかったね」と目を細める。
湊と凪は恥ずかしそうに、でも確かな幸福感を持って見つめ合っていた。かつてすれ違っていた時間さえ、今の二人の物語を彩る大切な一部になっている。
「……これからはもう、俺から離さない。全力で守っていくから」
湊の力強い宣言に、凪は幸せそうに、花が咲くような微笑みを浮かべた。
「よし、分かった! 二人の馴れ初めはこれでバッチリだ」
涼が満足げにそう言い切ると、千尋も
「本当、聞いてるこっちが照れちゃうよ、ブラックコーヒーにしておけばよかった」
とクスクス笑いながらバッグを手に取った。カフェアンバーの奥の席に漂っていた、どこか特別な緊張感と甘やかな空気が、ようやく日常のそれへと戻っていく。
「さてと、そろそろいい時間ね。明日も早いし、今日はこの辺でお開きにしようか」
千尋の提案に、香織も
「そうだね、二人の邪魔もしちゃいけないし!」
と笑いながら立ち上がった。涼も軽く背伸びをすると、
「まったくだ。これ以上一気に摂取したら糖尿病になっちまう」
と冗談めかして湊の背中を叩く。
「ごめん、付き合わせて」
湊が頭を下げると、涼は
「礼には及ばないさ。……まあ、これからも色々あるだろうけど、困ったことがあったら遠慮なく言えよ」
と、ぶっきらぼうながらも確かな信頼を込めた言葉を残した。
駅前の喧騒が嘘のように静まり返った夜道を、湊と凪は肩を並べて歩いていた。先ほどまで友人たちと交わしていた賑やかな会話の残響が、心地よい余韻となって二人の心に温かく灯っている。
かつて同じ屋根の下で義兄妹として過ごした日々とは違い、今では恋人同士として同じ屋根の下で暮らしている。
玄関のドアを開け家に入ると凪が不意に背後から湊の背中にそっと額を押し当てた。
「……ねえ、みーくん」
凪の甘く、少しだけ湿り気を帯びた声に、湊が振り返る。凪は上目遣いで、濡れたような瞳で彼をじっと見つめていた。
「今夜はさ、昔みたいに一緒にお風呂、入りたいな」
湊は少し驚いたように目を瞬かせ、それから口角を上げた。
「随分と積極的だな」
凪はふふっと小さく笑い、湊のシャツのボタンにわざと指を引っかけた。
「えー? 何それ。……一緒にお風呂に入るだけだよ? 私たち、ただの家族時代に戻りたいだけなのに、考えすぎじゃない?」
わざとらしく小首を傾げ、純粋無垢なふりをして見せるその姿は、小悪魔的な可愛さに満ちている。しかし、その瞳の奥には確かな熱が宿っているのを湊は見逃さなかった。
湊は凪の腰に手を回し、自分の方へ引き寄せると、耳元で低く意地悪な声を落とした。
「へえ、ただのお風呂か。……じゃあ、今夜はそういうこと(下心)は一切なしで、本当にお風呂に入るだけなんだな?」
「っ……!」
凪は言葉に詰まり、唇を尖らせた。今の二人の関係で、そんなわけがないことはお互いに分かっている。湊にそう確認されてしまうと、どうしても期待していた分だけ、悔しさと恥ずかしさが押し寄せてくる。
「……意地悪しないでよ」
凪は湊の胸を軽く叩き、不満そうに頬を膨らませた。明らかに拗ねた様子で顔を逸らすが、その耳は真っ赤に染まっている。
「……もう、知らない。意地悪ばっかり……バカ」
「はいはい、悪かったよ」
湊が笑いながらその顎を指先でくいと持ち上げると、凪はバツが悪そうにしながらも、湊のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。湊はそのまま彼女を抱きかかえ、バスルームへと向かった。
湯気の立ち込める空間には、すでに何度も二人で共有した、甘く湿った香りが満ちている。湯船に身を沈めれば、凪の拗ねていた表情はどこへやら、とろけるような熱気が二人を包み込んでいく。
「……ほら、さっきの言葉、撤回してあげる」
凪は湯船の中で湊に密着し、潤んだ瞳で見つめ返す。
「今夜は、ただのお風呂じゃなくて……もっと、みーくんを感じたいな」
かつて同じ屋根の下で過ごした無垢な時間が、今の大人たちの熱狂と重なり合い、記憶を鮮やかに上書きしていく。バスルームの扉の向こう側で、二人の長い夜が、静かに、そして激しく始まろうとしていた。
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