公認
放課後のチャイムが、どこか切なげな余韻を残して校舎に消えていった。机を叩きつけるような湿った雑音の代わりに、教室には窓から差し込む初夏の光と、四方から混ざり合う生徒たちの談笑が満ちている。
湊は凪の机の端に腰掛け、二人で鞄に教科書を詰め込んでいた。隣り合う二人の距離は、以前までの「秘め事」を共有する者同士のそれとは決定的に異なっている。凪は湊の腕に自身の腕を絡め、隙間を探すようにぴったりと密着していた。
その時だった。軽快な足音とともに香織が湊たちの机の前に立ち止まった。
「二人とも、お疲れ様。……なんだか今日の二人、すごく雰囲気変わったね」
香織は湊と凪を交互に見つめ、いたずらっぽく目を細めた。その瞳の奥には、かつて湊に抱いていた淡い恋心の残滓など微塵もなく、二人の関係を誰よりも近くで見てきた者としての、澄み切った祝福だけが宿っている。
「……気づいた?」
湊が照れ隠しに苦笑を浮かべると、香織は「もちろんでしょ」と悪戯っぽく笑った。
「だって、二人から溢れ出る空気が全然違うもん。肩の力が抜けてるというか……凪ちゃんの顔、ずっと見たかったくらい輝いてるよ。やっぱり何かあったんだ!」
「うん……お母さんと話をしてきてね。これからどうしたいか、ちゃんと伝えてきたの。もう、隠さないことにしたの」
凪がそう伝えると、香織は一瞬だけ目を丸くした。しかし、次の瞬間には心からの安堵を表情に広げた。
「そっか! じゃあ、認めてもらえたんだ!」
香織は感極まった様子で凪に抱きついた。
「よかった……本当によかったね、凪ちゃん! 凪ちゃんから色々聞いてたから本当に心配してたんだけど……親公認になったんだね! 本当よかったよ!」
香織の温かい抱擁に、凪も驚きながらもすぐにその背中に手を回してギュッと抱きしめ返した。友情の熱が、凪の心に積もっていた小さな氷を溶かしていく。
しかし、教室という空間は時に残酷なほど声が通ることがある。香織の声は、教室にしっかり響き渡ってしまった。
「やっぱり付き合ってるんだ!」
「親公認って何?!」
周囲の席で片付けをしていた女子たちが、一斉に首を巡らせてこちらを凝視している。好奇の視線と、期待に満ちた騒めきが、凪の周囲を瞬く間に取り囲んだ。
「あ……っ」
凪が慌てて香織の腕の中で固まると、香織はハッと口元を覆い、申し訳なさそうに苦笑した。
「……ごめん、凪ちゃん。私、つい大声出しちゃった。……本当にごめんね」
香織が気まずそうに肩をすくめ、湊に対しても「湊もごめんね、余計なこと言っちゃって」と視線を向ける。
湊は凪の手を、人目も気にせず机の下で強く握り直した。
「……いや、構わないよ」
湊は隠す必要など、もうどこにも感じていなかった。近づいてきた女子たちが、目を輝かせて「ねえ、本当に付き合ってるの?」と二人の顔を覗き込んでいる。湊は彼女たちに向かって、努めて自然な、けれど一切の迷いがないトーンで告げた。
「……ああ。凪と俺、付き合ってるんだ。凪のお母さんにも、これからも二人で一緒にいることを話して、認めてもらったんだ」
「えっ、本当!? そうだったんだ!」
「すごい、おめでとう!」
一気に湧き上がる興奮と祝福の声。教室という閉鎖された箱の中で、二人はずっとその中心にいたのに、どこか境界線を引かれていた。だが今、その境界線は友人たちの手によって優しく取り払われた。
人垣を割って、涼と千尋が呆れ半分、面白半分といった様子で合流してきた。
「お、なんだなんだ。……ついに話したのか?」
涼がニヤニヤしながら湊の背中をバシッと叩く。その力強さは、昔からの親友ならではの連帯の証だ。千尋も香織の隣に並び、満足そうに笑みを浮かべた。
「二人は本当にお似合いだからね。いつも本当に仲良くしてるよ」
千尋の強気な、けれど二人のための宣言に、女子たちも「おめでとう!」「お似合いだよ!」と次々に声をかけてくれる。
これまで湊と凪の周囲を覆っていた、どこか近づきがたい硬質な空気は、こうして親しい友人たちの笑顔と祝福によって、温かな輪へと塗り替えられていった。
「……よかったな、湊。これでお前も『隠れカップル』卒業だ。これからは堂々と、その隣を歩けよ」
涼の言葉に、湊は凪の温もりをより強く感じながら、小さく頷いた。窓の外では、放課後のオレンジ色の陽光が校舎を染め始めている。
「……ねえ、みーくん」
凪が湊を見上げ、少しだけ潤んだ瞳で微笑んだ。
「バレちゃったね」
まるでいたずらっ子のような顔を見て湊の心臓の鼓動が早くなる。
「隠れてイチャイチャしたかった?」
湊が少しだけ意地悪く、彼女の耳元で囁くように問いかける。
「そ、そう言うわけじゃなくて……っ」
凪は顔を真っ赤に染め上げ、湊の腕をバシバシと叩く。その仕草すらも、周囲の女子たちにはあまりに甘い光景に映ったようで、背後からは「キャー!」「今の見た!?」「心臓がもたない!」と、うっとりとした悲鳴と黄色い歓声が上がった。
そのあまりの熱気に、涼と千尋は顔を見合わせて深々と溜息をついた。
「おいおい……そう言うの、帰ってから二人の時にやれよ。周りの身にもなれって」
「まったくね。公表した瞬間、もうブレーキのネジが全部外れちゃってるんじゃないの?」
呆れ果てた様子の二人のツッコミに、湊と凪は揃って顔を赤らめて抗議する。
「別に、学校なんだからこれでもちゃんとブレーキかけてるって!」
「そうだよ! 私たち、別にそんなにイチャイチャなんてしてないよ!」
必死に否定する二人の顔は、どう見ても「無自覚なほど距離が近い」という説得力に欠けるものだった。その様子を見ていたクラスメイトの男子が、ニヤニヤしながらさらに踏み込む。
「ほう、これでセーブしてるってのか? じゃあ二人の時はもっとすごいのかよ!?」
「え、マジで!? これ以上!?」
好奇心旺盛な友人たちの追及に、凪は真っ赤な顔で湊の胸元に隠れ、湊も「うわ、もううるさい!」と顔をしかめながら、けれどその手は決して凪を放すことなく、むしろさらにしっかりと彼女を抱き寄せていた。
その光景を見て、周囲のクラスメイトたちは一様にニヤニヤと楽しげな視線を向けている。
「……あはは、湊くんってそんな顔するんだね」
「意外だよ。ずっとクール系だと思ってたから」
「湊くんが最近変わったのって、やっぱり凪ちゃんのため? 好きになったから明るくなったとか?」
矢継ぎ早の質問攻めに、湊は一瞬だけ苦笑いを浮かべた。しかし、隠す必要はもうない。彼は凪の肩を抱いたまま、少しだけ真剣な眼差しで周囲を見渡した。
「……まあ、そうかもしれないな」
湊は少し照れくさそうに、けれど堂々と話し始めた。
「凪と一緒にいても恥ずかしくないような自分になりたかったし、釣り合わないって俺が言われた時凪や親友たちが嫌な思いしてたみたいでさ。大切な人をそんな気持ちにさせたくなかったから……」
湊の真っ直ぐな告白に、教室が一瞬だけ水を打ったように静まり返る。その言葉の背後にある、彼が一人で抱え込んできた葛藤と、凪を想う切実な優しさが伝わったからだ。
「……え、なにそれ。かっこよすぎない?」
「大切な人のためにそこまで変われるのすごいね……」
女子たちの間で感嘆の声が漏れる。湊は照れくさそうに頭を掻いたが、クラスメイトたちの興味はさらに加速していった。
「ねえ、じゃあいつから付き合ってるの!? 」
「きっかけは!?」
矢継ぎ早の質問に、湊は少し困ったように凪と顔を見合わせる。
「付き合ったきっかけは……まあ、詳しいことは秘密にしておくよ」
湊がそう言うと、周囲から「えーっ!」と笑い混じりのブーイングが飛ぶ。しかし、彼は続けて静かに語り始めた。
「でも、好きだったのは……小5の時からかな。ずっと忘れられなくて、高校で再会した時は、びっくりした」
その言葉に、教室中から「ひゅ〜!」と冷やかしと歓声が入り混じる。湊は凪の腰に手を回し、自分に引き寄せた。
「でも自分からいけなくて、結局凪にアタックさせてしまってたんだよな……」
湊は一呼吸置き、隣の凪の手をぎゅっと握りしめた。
「私も昔から、小5の時から好きだったの。でもその後色々な都合で離れ離れになっちゃって……ずっと忘れられなくて高校で再会した時はもう絶対離したくないなって思ったの」
「俺ももう凪のこと離したくない」
冷やかしの声を上げていたクラスメイトたちも、二人が紡ぐあまりに純粋な記憶の断片に、思わず息を呑んだ。
教室の中に、ふわりと温かい空気が満ちる。「……なんか、尊い……」「凪ちゃんが、そんなに積極的になるなんて……」と、女子たちの間から感嘆の溜息が漏れる。
「ねえ、小さい時の二人ってどんな感じだったの!? 」
好奇心の火種は消えるどころか、さらに勢いを増す。湊は困ったように笑いながらも、隣の凪の顔を愛おしそうに見つめた。
「そうだな……当時はお互い子供だったけど、凪は本当に天使みたいに可愛くて、優しくて、だから……ずっと大好きだった。今では甘えてくるところとかたまに結局的なところとかが可愛すぎて困ってる」
「……っ」
湊の直球な告白に、凪は真っ赤になって湊の腕に顔を埋める。けれど、すぐに顔を上げて、潤んだ瞳で堂々と付け加えた。
「みーくんもね、王子様みたいに優しくてかっこよくて、困っている人がいたらすぐに助けてあげるような人で……私も、昔からずっと大好きだったの。今はもっとかっこよくなったし、いつも優しくしてくれて心臓をいじめられてます……」
互いを思い合う言葉の応酬に、教室中の女子たちが「ひゃあ……!」と悶絶し、あちこちで「尊すぎて涙出てきた」「何この純愛空間……」と感激の嵐が吹き荒れる。
湊は一呼吸置き、隣の凪の手をぎゅっと握りしめた。
「……あの……お二人さん……」
教室の空気が、まるで二人だけの甘い温室に閉じ込められたような錯覚を覚える中、千尋は、ジト目で湊と凪を交互に見つめ、呆れ返ったような表情で溜息をついた。
「湊、さっき一応忠告したよな……」
涼がこめかみを押さえ、呆れた表情で肩をすくめる。彼はわざとらしく大きな溜息を吐き出すと、二人のあまりの無自覚な距離感に、苦笑いを隠そうともしない。
「湊は凪の前だと本当にブレーキが壊れるのね」
千尋の鋭い指摘に、湊は「そ、そんなことは……」と少しだけ狼狽える。その隣で、香織だけは「ふふっ」と楽しそうに笑い声を漏らした。彼女にとって、親友である二人がこうして気兼ねなく自分たちの感情をさらけ出せていることこそが、何よりの喜びなのだ。
「いいじゃない、千尋ちゃん。今日はこの二人の『解禁記念日』なんだから。これくらい大目に見てあげようよ」
香織のフォローに、千尋は「もう、甘いんだから」と呆れながらも、その表情には隠しきれない温かい光が宿っている。
湊と凪は、友人たちの呆れ顔と、それ以上に温かい眼差しに囲まれて、ようやく自分たちがどれほど周囲を熱くさせていたかに気づいたようで、揃って顔を赤くした。
「……別に、学校なんだからこれでも十分セーブしてるんだけどな」
湊がぼそりと抗議すると、涼が「だからどこがだよ!」と軽快なツッコミを入れる。教室中に笑いが広がり、二人の周りには、もはや「秘密」の重苦しさなど微塵もない、爽やかで賑やかな放課後の空気が満ちていた。
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