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沈黙の学習室


電車のドアが開くと同時に、湿り気を帯びた夕方の空気が流れ込んできた。

湊は凪を振り返ることなく、足早にホームを突っ切った。背後からは、規則正しいローファーの足音が、影のようにぴったりとついてくる。その音が自分の心臓の鼓動と同期しているような錯覚に陥り、湊はさらに歩を早めた。


駅前の喧騒を抜け、古い煉瓦造りの市立図書館へと滑り込む。

自動ドアが開くと、そこには湊が求めていた「静寂」が、高い天井の下に広がっていた。本特有の乾いた紙の匂いと、微かに漂うワックスの香り。ここなら、学校でのあの不気味な熱気から逃れられるはずだ。


「……ここだ。私語は厳禁だぞ」

湊は、学習室の重い扉の前で凪を鋭く制した。

「わかってるって。私、こう見えて空気読むのは得意なんだから」

凪は口元に人差し指を立てて、いたずらっぽく微笑んだ。その「空気」を作っている張本人が何を言うのかと、湊は冷めた視線を投げ返したが、彼女はどこ吹く風で学習室の中へと入っていった。


平日の夕方ということもあり、学習室には数人の受験生と、新聞を広げる老人がいるだけだった。

湊は窓際の一番端、仕切りのある二人掛けの席を選んだ。隣に凪が座る。彼女のカバンから取り出された派手な色の筆箱が、質素な机の上で異物のように浮いていた。


「……まずはこれだ。昨日の数学の復習から始める。この問題、自力でどこまで解けるかやってみろ」

湊は、自分のノートに丁寧に書き写した数式を凪の前に差し出した。

「えー、いきなり? 少しは準備運動とか……」

「嫌なら帰れ。時間は一時間しかないと言ったはずだ」

「……はいはい、やりますよ。鬼教師だなぁ、もう」


 凪は頬杖をつきながら、渋々とシャープペンシルを握った。

 

そこからは、奇妙な静寂が二人を包んだ。

湊は自分の参考書を開き、高度な微積分の問題に没頭しようと努めた。しかし、隣から聞こえてくる「音」が、どうしても意識を逆撫でする。

凪が髪を耳にかける音。

消しゴムで紙を擦る音。

そして、時折漏れる、小さな、本当に小さな吐息。


(集中しろ。関係ない。ただの記号だと思え)


自分に言い聞かせるが、視界の端に入る彼女の横顔が、湊の思考を鈍らせる。

かつての凪は、勉強が嫌いになるとすぐに湊のシャツの裾を引っ張って、「みーくん、お腹すいた」「みーくん、あそこの公園行こう」と甘えてきた。その度に湊は、「これが終わるまでダメだ」と厳しく突き放しながらも、最後には彼女のペースに巻き込まれていた。


今の凪は、黙って机に向かっている。

その真剣な眼差しは、五年前にはなかったものだ。

ふと、彼女のシャープペンシルが止まった。

凪は数秒間、数式を見つめていたが、やがて視線を落とし、湊のノートの端に、さらさらと何かを書き込んだ。


『ここ、プラスとマイナス、逆じゃない?』


湊は眉を潜め、自分の計算を見直した。

……逆だった。

特待生の自分が、こんな初歩的なミスをするはずがない。それほどまでに、自分は動揺しているのか。


「……ああ、そうだ。よく気づいたな」

湊が声を潜めて応えると、凪は嬉しそうに、目を細めて笑った。

その笑顔には、学校で見せる「完璧な美少女」の仮面も、校舎裏で見せた「狂気的な執着」の色もなかった。ただの、昔のように自分に褒められて喜ぶ、一人の少女の顔だった。


湊の胸の奥で、カチリと小さな音がした。

それは、彼が必死に守り続けてきた心の錠前が、微かに緩んだ音だったかもしれない。


「……次は、この解法を使え。その方が計算が楽だ」

「うん。……ねえ、みーくん」

「……何だ」

「教えてくれて、ありがとう。……本当だよ」


凪の声は、図書館の静寂に溶けて消えてしまいそうなほど、細く、震えていた。

彼女が何を思ってこの言葉を口にしたのか。

湊にはわからない。わかりたくもなかった。

だが、その一言が、湊の肺に溜まっていた冷たい澱を、ほんの少しだけ押し流したような気がした。


三十分が経過した頃。

凪の手が完全に止まった。彼女は机に突っ伏し、湊の方をじっと見つめていた。

「……終わったのか」

「ううん、疲れた。五分だけ、休憩させて」

「勝手にしろ」


湊は突き放すように言ったが、凪はそのまま、湊の左腕に自分の指先をそっと触れさせた。

制服の袖越しに伝わる、柔らかな感触。

湊は反射的に腕を引こうとしたが、凪の次の言葉が、彼の動きを止めた。


「……ねえ、みーくん。私のこと、本当は嫌いじゃないよね? あの時、お母さんたちが喧嘩して、私たちが離れ離れになった時……みーくん、泣いてたもん。私、見たんだよ。車の中から、みーくんがずっと私のこと見てるの」


湊の指先が、目に見えて震えた。


「……記憶違いだ。俺は泣いてなどいない。お前がいなくなって、ようやく自分の時間が持てると喜んでいたんだ」

「嘘つき。……でも、いいよ。今は、こうして隣にいられるから」


凪は、湊の腕に自分の頬を寄せた。

学習室の静寂の中で、二人の境界線が、ゆっくりと、しかし確実に溶けていく。

湊は、彼女を突き放すべきだった。

ここがマンションではないからといって、許していい接触ではない。

 

しかし、湊の身体は動かなかった。

図書館の古い時計が刻む秒針の音が、遠く、子守唄のように聞こえてくる。

夕闇に沈んでいく学習室で、湊は、自分が守りたかった「静寂」が、実はただの「孤独」でしかなかったのではないかという、恐ろしい予感に襲われていた。


「……一時間経ったぞ。帰るぞ、市川」

 湊は、自分の声を震わせないようにするのが精一杯だった。


「……あと五分。あと五分だけ、このままでいさせて」


凪の掠れた声が、湊の心臓を強く締め付ける。

理性が、「これ以上は危険だ」と警報を鳴らしている。

だが、湊は自分でも信じられないことに、そのまま五分間、彼女の温もりを拒絶することができなかった。


窓の外、一番星が静かに瞬き始めている。

図書館を出れば、また「赤の他人」のフリをする日常が待っている。

だが、この沈黙の学習室で交わされた熱は、湊の冷え切った聖域を、確実に内側から溶かし始めていた。



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