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聖域の境界線

放課後を告げるチャイムは、湊にとって「静寂への帰還」を告げる福音ではなく、逃れられない戦いの始まりを告げるゴングのように響いた。

終礼が終わり、担任が教室を去る。その瞬間、堰を切ったように生徒たちの話し声が溢れ出すが、湊はその喧騒に一秒たりとも身を置きたくはなかった。迷いのない動作でカバンを掴み、椅子を引く。背後から漂う、あの甘ったるい石鹸の香りと、背中に突き刺さるような粘着質な視線を振り切るために。


だが、湊が教室のドアに手をかけるより早く、背後からあきらかな「変化」を孕んだ、鈴を転がすような声が響いた。


「——ねえ、湊くん」


その呼び声は、決して大きくはなかった。しかし、凪が持つ独特の通る声質と、クラスの「中心」である彼女が、あえて「孤高の外部生」である湊を呼び止めたという事実に、教室内は一瞬で凪いだ。


「今日の放課後……例の『お勉強会』、湊くんの家でやるっていう約束、まだ生きてるかな?」


湊の足が、凍りついたように止まった。

心臓の鼓動が、ドクンと嫌な跳ね方をする。凪は、直接湊に詰め寄るのではなく、クラス中が耳をそばだてているこの状況で、あえて「家」という単語を放ったのだ。


「……は?」

「えっ、凪? 湊の家に行くの?」

案の定、周囲にいた千尋たちが驚愕の声を上げた。

湊は振り返り、凪を射抜くような視線で睨みつけた。彼女は、首を少し傾けて、困ったような、それでいてどこか楽しげな「無垢な少女」の顔で湊を見つめ返している。


「だって、外だと集中できないから、湊くんの家がいいなって。ダメかな、みーくん……あ、湊くん」


わざとらしい言い直し。そして、一瞬だけ混じった「みーくん」という親密な呼称。

教室内は、水を打ったような静寂の後、蜂の巣をつついたような騒ぎへと一変した。

「二人きりで勉強会?」「あの二人、家に行く仲なの?」「湊ってそんなキャラだったっけ」

 無責任な憶測が、目に見えない毒ガスのように教室内を充満していく。


湊は、こめかみの血管が浮き出るほどの憤りを感じた。凪はあえて衆目の前でこの話題を振ることで、湊の逃げ道を物理的に、そして社会的に塞ごうとしたのだ。もしここで強く否定すれば、余計に周囲の詮索を招く。彼女はそれを百も承知で、湊を逃げ場のない追い込み漁のように追い詰めている。


「……市川、いい加減にしろ」

 湊は、地を這うような低い声で絞り出した。

「えー、いいじゃない。ただの確認だよ、湊くん?」

「いい加減にしろと言っている。……外へ出ろ」


湊の放つ、刺すような殺気。それに気圧されたのか、凪を囲んでいた友人たちも、面白がっていたクラスメイトたちも一歩引いた。凪は満足そうに口角を上げると、軽やかな足取りで湊の後に続いた。


二人が向かったのは、校舎裏にある、普段は誰も使わない古びた渡り廊下の陰だった。夕日が校舎の影を長く伸ばし、オレンジ色の光が空気中に漂う砂埃を、まるで金粉のようにキラキラと浮かび上がらせている。


「——お前を俺の部屋に入れるつもりなんて、微塵もない」

湊は凪をコンクリートの壁に追い詰めるようにして、吐き捨てるように言った。その声は、微かに震えていた。怒りだけではない。自分の聖域であるあの無機質なマンションを、彼女という嵐に侵食されることへの、根源的な恐怖が混じっていた。


「どうして? 私、お母さんにも言ったんだよ。みーくんに勉強教えてもらうって。お母さんだって、『条件を守るなら、家を行き来しても構わない』って——」

「あのおばさんが何を言おうと、俺には関係ない! お前一人が入ってくるだけで、あの部屋の空気は全部、五年前のドロドロした、吐き気がするような記憶に塗り替えられるんだ。……そんなの、耐えられるわけがないだろ」


湊の言葉は、鋭い刃となって凪に突き立てられた。

だが、凪は怯まなかった。それどころか、彼女は一歩踏み出し、湊の胸元に自分の額を預けるようにして、声を潜めた。


「……じゃあ、みーくんは、私のことが嫌いなの?」

「……嫌いだ。虫唾が走る」

「嘘だよ。本当に嫌いなら、こんなに必死に拒絶しない。本当にどうでもいい相手なら、適当にあしらって、勝手に言わせておけばいいもん。みーくんがこんなに怒ってるのは、私のことが『どうでもよくない』からでしょ?」


「……勝手な解釈をするな」

湊は凪の肩を掴み、力任せに突き放そうとした。

だが、その指先に伝わる彼女の細い肩の感触と、微かな震えが、湊の脳にこびりついた「妹」としての記憶を呼び覚ます。

冬の夜、冷えた指先を湊のポケットに無理やり突っ込んで、「お兄ちゃんの手、魔法みたいにあったかいね」とはにかんでいた、あの幼い少女の面影。その記憶が、湊の「純粋な拒絶」を鈍らせ、理性の刃をボロボロに欠けさせていく。


湊は、彼女を完全に突き放すことができなかった。

肩を掴んだまま、じっと彼女を見下ろす。凪もまた、潤んだ瞳で湊を見上げていた。その瞳には、かつての純粋な慕情と、五年間の空白で培われ、発酵してしまった歪んだ独占欲が入り混じっていた。


「マンションには入れない。絶対にだ」

湊は、自分に言い聞かせるように、もう一度繰り返した。

「じゃあ、どこで教えてくれるの? 私、本気だよ。このままじゃ、本当にお母さんに陸上部辞めさせられちゃう。そうなったら、私、もう生きてる意味なんてないもん。みーくんのせいで私の居場所がなくなるんだよ?」


「俺のせいにするな、勝手に決めたことなんだから自分でどうにかしろ」

「できないよ、みーくんが隣にいてくれないと! 私、みーくんの書く数字や、あの落ち着く声がないと、頭が真っ白になっちゃうの。……ねえ、お願い。家がダメなら、別の場所でいいから。二人きりになれる場所にして」


凪の指が、湊の制服の袖を、すがるようにギュッと握りしめる。

その力強さが、湊には耐え難かった。

突き放すべきだ。冷たく背を向け、一駅先の静寂へ逃げ帰るべきだ。

合理的に考えれば、それが唯一の正解だ。

しかし、湊の内側のどこかで、孤独に震える凪を放っておけない「兄」としての残滓が、激しく警報を鳴らしていた。彼女をここで完全に見捨てれば、彼女は本当に壊れてしまうのではないか。そんな、抱く必要のない責任感が湊を縛り付ける。


「……駅前の、市立図書館にしろ。あそこの学習室なら一時間だけだ。一時間経ったら、すぐに解散する」

 長い沈黙の後、湊が絞り出した妥協の言葉に、凪の瞳がパッと輝いた。


「図書館? そこで教えてくれるの?」

「一時間だけだ。それに、学校では『湊くん』と呼べ。他人のふりをしろ。……それが守れないなら、金輪際お前とは関わらない。」


「……わかった。約束するよ。学校では、優等生の湊くんに憧れる、ただのクラスメイトの一人でいる。でも——」

凪は、湊の顔に自分の顔を近づけ、耳元で熱い吐息を漏らした。

「——図書館では、私だけの『みーくん』でいてね。約束だよ」


湊は、全身に鳥肌が立つのを感じた。

妥協したつもりだった。家という聖域を守るために、図書館という公的な場へ彼女を誘導した。

だが、凪のあの確信に満ちた笑顔を見た瞬間、湊は気づいてしまった。

場所など関係ないのだ。

市川凪という存在を受け入れ、一対一の「約束」を交わした時点で、自分の作り上げた偽りの静寂はすでに、終わりのカウントダウンを始めているのだということに。


「……行くぞ。時間がもったいない」

湊は、彼女の腕を振り解くようにして、駅へと歩き出した。

後ろから、弾むような、それでいてどこか不気味なほど安定した足取りで凪がついてくる。


夕暮れの街を歩く二人の影は、長く、重なり合うように伸びていた。

湊は、自分の隣を歩く少女を見ないように、前だけを見据えて歩いた。

心臓の鼓動が、不自然なほど速い。

それは彼女に対する恐怖なのか、それとも、五年間封印してきた「何か」が、彼女の熱にあてられて目覚めようとしている予兆なのか。


駅のホーム。

一駅隣へ向かう電車を待つ間、凪は湊のすぐ隣で、さっきまでの「しおらしい態度」を脱ぎ捨て、楽しげに話しかけてきた。

周囲からは、ただの仲の良い高校生カップルに見えているだろう。

その事実が、湊の自尊心をじりじりと焼き焦がしていく。


「ねえ、みーくん。図書館が終わったら、駅の近くのカフェ行かない? 昔、お父さんとお母さんと四人で行ったお店の系列が——」

「……喋るな。黙っていろ」

「はーい。じゃあ、電車の中では、ずっとみーくんのこと見つめてるね。瞬きもしないよ?」


湊は、逃げ場のない鉄の箱がホームに滑り込んでくるのを見つめ、絶望に近い溜息を吐いた。

聖域は守った。だが、その代償として、自分自身の「心」という最後の砦に、彼女という猛毒を招き入れてしまったのではないか。

 

二日目の放課後。

春の嵐は、まだ吹き始めたばかりだった。

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