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停滞する秒針


 午前六時。

 無機質なアラームが鳴る数秒前に、湊は意識を浮上させた。

 微かな遮光カーテンの隙間から差し込む光が、誰もいない寝室の床に、ナイフで切り取ったような鋭い線を引いている。

 湊は数秒間、天井の木目をじっと見つめた。今日という日が、昨日までのような「無色透明な日常」ではないことを、脳が重苦しく拒絶していた。


 キッチンで電気ケトルが湯を沸かす音が、静まり返ったリビングに不自然なほど響く。

 湊は、カウンターに肘をつきながら、昨夜の自分の決意を反芻していた。

(関わらない。ただのクラスメイトとして接する。それだけだ)


 しかし、理屈で抑え込もうとすればするほど、五年前の記憶が泥のように足元から這い上がってくる。あの家を出ていく時の凪の震える背中。そして昨日の放課後、自分の腕を掴もうとした、成長した彼女の指先。

 あいつは本気だ。

 市川凪という少女は、一度こうと決めたら、周囲をなぎ倒してでも突き進む危うい熱量を持っている。かつて彼女が「みーくん、一緒に遊ぼう」と言い出したら、湊がどれだけ宿題に集中していようとお構いなしに、その空間を自分の色で染め替えてしまったように。


 湊は、トースターから跳ね上がったパンを皿に載せた。

 バターも塗らず、ただ小麦の焦げた匂いだけを噛み締める。

 このマンションの静寂は、本来湊を守るための盾だったはずだ。だが今朝の静寂は、まるで凪がいつかここへ現れることを予言しているかのような、不気味な空白を孕んでいた。


 身支度を整え、重い玄関ドアを開ける。

 隣の駅までわずか三分の乗車。

 電車内の空気は、昨日よりも春の湿り気を帯びていた。湊はドア横の隅に立ち、流れてくる窓の外の景色を虚ろに眺める。

 もし、一駅隣の彼女と同じ車両になったら、自分はどんな顔をすればいいのか。

 その想像だけで、胃の奥が冷たく縮こまった。幸い、ホームに降り立つまで、あの鮮やかな黒髪が視界をよぎることはなかった。


 校門をくぐり、坂道を登る。

 昨日よりも制服にこなれ感が出てきた新入生たちが、談笑しながら歩いている。湊はその輪を避け、影のように校舎へ滑り込んだ。

 1年A組。

 木製の重いドアを開けると、教室内はまだ始業二十分前ということもあり、数人の生徒が疎らに座っているだけだった。


 湊は自分の席、教壇の真ん前という「最前列」へ向かう。

 椅子を引こうとして、湊の指先が止まった。

 すぐ後ろ。出席番号二番。

 市川凪の席には、すでに彼女のバッグが置かれていた。

 小さな白ウサギのキーホルダーが、湊を嘲笑うかのように窓からの風で小さく揺れている。


(……早いな)


 昨日の様子からすれば、彼女はもっと遅くに、賑やかな友人たちと一緒に現れるものだと思っていた。

 湊はあえて背後の気配を無視し、席に座った。カバンから英単語帳を取り出し、文字を追う。だが、神経のすべてが背後に向かってしまっている。


 一分、二分。

 廊下を歩く足音が近づいては遠のく。

 やがて、ドアが開く音とともに、あきらかな「変化」が室内に訪れた。


「——おはよ、みーくん」


 鼓膜を優しく、それでいて暴力的なまでに揺さぶる声。

 湊は返事をせず、単語帳の一行目をじっと見つめ続けた。

 背後で椅子が引かれる音がし、彼女が腰を下ろしたのがわかった。

 石鹸の、あの甘い香りが、湊の防壁を容易く踏み越えて肺の奥まで侵入してくる。


「ねえ、無視はひどくない? 朝くらい挨拶してよ」

「……おはよう、市川さん。それと、その呼び方はやめてください」


 湊の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。

 だが、凪は怯む様子も見せない。それどころか、湊の背中に覆いかぶさるような気配で、声を潜めて囁いた。


「市川さん、なんて呼び方こそやめてよ。二人っきりの時くらい、凪でいいでしょ?」

「二人っきりじゃないです。クラスメイトとはいけ距離が近すぎだと思います」


そういって湊は逃げるように席を立つ。


「なんでそんな態度とるの?」


湊は振り返ることなく告げた。


「……昨日の放課後も言ったはずだ。俺たちには、もう共有すべき時間なんて残ってない」

「残ってないなら、新しく作ればいいって言ったのも私だよ。……私ね、昨日の夜、お母さんに話したんだ」


 湊の動きが止まった。

「……話した?」

「うん。みーくんが一人暮らししてるマンションに行きたいこと」

「お前……、何を考えてるんだ。あのおばさんが、許すわけないだろ。あんなに憎み合って別れたんだぞ」


「憎み合ってたのは、大人たちだけでしょ?」

 凪の声から、一瞬だけ陽気な響きが消えた。

 湊はついに耐えきれず、背後を振り返った。


 そこには、朝日に照らされた凪がいた。

 彼女は、教室での「陽キャ」の面影を脱ぎ捨て、どこか悲しげな、それでいて強い意志を宿した瞳で湊を見つめていた。

 窓から差し込む光が、彼女の黒髪の輪郭を白く縁取っている。


「お母さんは、最初、話も聞いてくれなかったよ。でもね、私が『今のままじゃ私、この学校で勉強についていけなくて、すぐに陸上も辞めることになる』って泣いたら、少しだけ考えてくれるようになったの」

「……脅迫じゃないか」

「いいの。それくらいしなきゃ、みーくんと一緒にいられないもん」


 凪は机に身を乗り出し、湊の顔を覗き込んだ。

 その距離は、十センチもない。

 彼女の吐息が、湊の頬に触れる。


「お母さん、条件を出してきたよ。みーくんが、私の成績を『学年平均以上』に保つこと。そして、みーくん自身も今の順位を維持すること。それができなくなったら、一分一秒だって一緒にいることは許さないって」


「勝手なことを言うな。俺は引き受けるなんて言ってない」

「言ってないけど……、私、もうお母さんに『みーくんはいいって言ってる』って言っちゃった」


「なっ……!」


 湊が絶句していると、廊下から騒がしい足音が近づいてきた。

「あ、凪ー! おはよー!」

 宮前千尋の声だ。

 凪は瞬時に表情を「完璧な少女」へと切り替え、湊から体を離した。


「あ、千尋! おはよー! 今日早いね!」


 凪は椅子に座り直し、何事もなかったかのように親友に手を振る。

 だが、その直前。

 彼女は湊にだけ聞こえるような小さな声で、いたずらっぽく囁いた。


「……放課後、待ってるからね。みーくん」


 湊は、言葉を失ったまま前を向いた。

 背後で始まる、凪と千尋の明るい笑い声。

 それが今の湊には、逃れられない運命の足音のように聞こえていた。



 

 入学から二日。

 平穏という名の虚像が、市川凪という嵐によって、本格的に吹き飛ばされようとしていた。


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