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静寂という名の毒

高校最寄りの駅から、上り方面へ一駅。

 改札を抜けると、そこには新興住宅地らしい整然とした街並みが広がっていた。湊が選んだ住まいは、駅から徒歩五分ほどの場所にある、この界隈では少し目立つ規模の分譲マンションだった。


父親が二度目の離婚を決めた際、せめてもの償いのつもりか、あるいは単なる自己満足か。一人暮らしにはいささか持て余すほどの広さと、最新の設備が整えられたその部屋を、湊は無機質なシェルターとして受け入れた。


重厚なオートロックを抜け、清潔なエレベーターで自分の階へ。

 内廊下はホテルさながらに静まり返り、湊が踏みしめるカーペットの音さえも吸収していく。

 玄関の電子錠を解き、中へ入ると、そこには誰の気配もしない。


「…………」


靴を揃え、壁のスイッチを入れる。

 広めのリビングを、天井のダウンライトが柔らかく、しかしどこか冷たく照らし出した。

 最新のシステムキッチン、ゆったりとしたソファ、大型のテレビ。

 それらはすべて湊の父親が用意したものだが、湊自身はそれらをほとんど使いこなしていなかった。彼にとって、このマンションは「豊かな生活を送る場」ではなく、「外部との接触を遮断するための箱」でしかなかったからだ。


カバンを床に置き、窮屈な制服を脱ぎ捨てる。

 ソファに深く腰を下ろし、一つ大きな吐息を漏らすと、途端に耳の奥であの声が再生された。


『——待って、みーくん!』


放課後の校門前。夕闇の中で、必死に自分を繋ぎ止めようとした凪の瞳。

 彼女が最後に言いかけた言葉——『私はあの時からずっと……』の続きを脳が勝手に補完しようとするのを、湊は意識的に、力技で遮断した。


(考えるな。意味がない)


どんな言葉を並べようと、現実は変わらない。

 父親が選んだ再婚相手の連れ子。それが市川凪という少女の、湊における正確な定義だ。

 血は繋がっておらず、今は戸籍上の縁さえ切れている。そんな「元」の付く関係に、今さらどんな価値があるというのか。


湊は、キッチンの隅に置いてあった電気ケトルのスイッチを入れた。

 この広すぎるマンションに越してきてから、湊が自ら包丁を握ったことは一度もない。料理を作れば、部屋の中に「生活」が生まれてしまう。匂いが残り、温もりが残り、それがかつて四人で食卓を囲んだ頃の記憶を呼び覚ますのが怖かった。


棚から取り出したカップ麺に湯を注ぎ、三分を待つ。

 カウンター越しに眺めるリビングは、どこまでも美しい。しかし、そこに人の気配がないことが、今の湊には唯一の救いだった。



 彼女が提示してきた「勉強を教わる」という条件。それは、彼女なりに必死に考え出した、湊の生活圏へ踏み込むための「唯一の正当な口実」なのだろう。

 もし、彼女がその目的のために今の「陽キャ」としての立場を利用して、湊に近づき続けるのだとしたら。


「……面倒なことになった」


人を信じることをやめた湊にとって、凪の行動はすべて、自分の平穏を脅かす「脅威」でしかなかった。

 自分を偽り、周囲に笑顔を振りまきながら、その裏で執着の炎を燃やしている。そんな危うい少女をこの部屋に入れれば、湊が心血を注いで作り上げた「独りの静寂」は、瞬く間に市川凪という極彩色に染め変えられてしまうだろう。


湯気の向こう側で、出来上がったカップ麺を啜る。

 高級な内装のマンションで、安っぽい麺を啜る自分。その滑稽な対比が、今の自分には丁度いい。

 

 ふと、カウンターに置いたスマホが短く振動した。

 画面には、涼からのメッセージが表示されている。


『おい湊! 市川さんと知り合いならマジで紹介してくれよ! 千尋ちゃんも「あいつ何なの?」って気にしてたぞ。明日、昼飯一緒に食おうぜ、逃げんなよ!』


千尋。凪の親友だという、あの気の強そうな少女。

 彼女は、凪が自分を「みーくん」と呼び、必死に追いかけている理由を知っているのだろうか。

 もし知れば、湊の平穏は学校内でも完全に消失する。

 湊は返信することなく、スマホをサイドボードの上へと放り投げた。


シャワーを浴び、浴室の鏡に映る自分の顔を見る。

 そこには、疲れ果て、どこか虚無を抱えた少年の顔があった。

 

 髪も乾かさぬまま、湊は自分の部屋へと向かった。

 このマンションには三つの居室があるが、湊が使っているのはそのうちの一番狭い、北側の部屋だけだ。

 机に向かい、予習のために教科書を開くが、文字が滑って頭に入ってこない。

 どうしても、自分の背中に刺さっていた、あの凪の視線を思い出してしまう。

 

 かつて、四畳半の子供部屋。

 一つの小さな机を並べ、肩を寄せ合って宿題をしていた夜があった。

 幼かった凪は、難しい計算にぶつかるとすぐに湊のシャツの袖を弱々しく引っ張り、「みーくん、これわかんない……」と潤んだ瞳で訴えてきた。

 その時の、彼女の柔らかい髪の匂いや、指先の温もり。

 それらはすべて、湊が「生きていくために不要なもの」として、ゴミ箱に捨て去ったはずの記憶だった。


「……明日、席替えでもあればいいのに」


ありえない願望が口をついて出る。

 明日も、明後日も。

 湊が教室のドアを開ければ、そこには自分の背中のすぐ後ろに、かつての義妹が座っているのだ。

 

 湊は部屋の明かりを消し、ベッドに潜り込んだ。

 広すぎるマンションの静寂は、時としてどんな騒音よりも残酷に、人の心を蝕んでいく。

 

 窓の外、隣の駅の方角を眺める。

 あちらには、かつての継母と、彼女が——凪がいるはずだ。

 たった一駅という距離が、今は途方もなく遠く、それでいて不気味なほど近く感じられた。

 

 明日、彼女がまた「みーくん」と呼んだら、自分はどんな顔をすればいいのか。

 強固だったはずの湊の理性は、自覚のない不安という泥濘の中で、ゆっくりと、しかし確実に足元をすくわれようとしていた。

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