放課後の追走劇
六時間目の終了を告げるチャイムは、湊にとって「独り」という名のシェルターへ戻るための、待ちわびた号砲だった。
担任の教師が締めの言葉を言い終えるか否かのタイミングで、湊は手早く筆記用具を鞄に詰め込んだ。一秒でも早くこの場を立ち去りたかった。後ろの席から断続的に伝わってくる、あの熱を帯びた《《気配》》から、少しでも遠ざかるために。
椅子を引く鋭い音が教室に響く。
「あ、湊! 待てよ、一緒に帰ろうぜ!」
教室の後方から涼の脳天気な声が飛んできたが、湊はあえてそれを意識の外へ追いやった。今の涼に捕まれば、間違いなく凪との関係を根掘り葉掘り聞かれ、騒ぎを大きくされるだけだ。
湊は足早に廊下へ出ると、階段を二段飛ばしで降り、昇降口へと向かった。
一人暮らしを始めたばかりのアパートは、この駅から三つ先の、各駅停車しか止まらない小さな駅にある。そこまで行けば、ようやく自分だけの「聖域」に戻れる。誰もいない、何も聞こえない、無機質な静寂。それだけが、湊がこの数年で手に入れた唯一の宝物だった。
「——待って、みーくん!」
背後から、鼓膜を震わせる聞き慣れた声。
湊は舌打ちしたい衝動を喉の奥に押し込み、歩みを緩めずに校門へと向かう。しかし、背後の足音は止まらない。それどころか、軽やかなリズムを刻みながら確実に距離を詰めてくる。中学時代に陸上競技で名を馳せていたという凪の身体能力は、伊達ではなかった。
校門を抜け、緩やかな坂道に差し掛かったところで、凪は湊の斜め前へと回り込んだ。
ダンスのステップを踏むような滑らかな動きで通せんぼをし、彼女は湊の視線を逃さないよう、少し上目遣いに自分を捉えた。
「……何の真似だ、市川さん。周囲の目が気にならないのか」
「無視しないでって言ったでしょ。私、本気なんだから」
凪は肩で小さく息をしながらも、まっすぐに湊を見上げていた。
学校で見せている、あの「完璧な美少女」としての愛想笑いはどこにもない。そこにあるのは、剥き出しの執着と、隠しきれない不安が入り混じった、五年前と同じ「凪」の顔だった。
「さっきも言ったはずだ。一緒に住むなんて不可能だ。第一、お前の母親が、別れた相手の息子と暮らすなんて許可するはずがないだろ」
「お母さんのことは、私がどうにかする。説得してみせるから。……それに、みーくん。……みーくんだって、本当は寂しいんでしょ?」
核心を突こうとするその言葉に、湊の眉間が険しく歪んだ。
「寂しい? 冗談だろ。俺は今、人生で一番、静かで満たされた時間を過ごしてるんだよ。お前にかき乱される前の、この数日間のように」
「嘘だよ。みーくんは、昔からそうやって自分に嘘をつくんだもん。自分の心に蓋をして、何も感じないふりをするのが得意だよね」
「お前に俺の何がわかる」
「わかるよ。……だって私、あの時、車の中から見たんだよ」
凪の声が、微かに震える。
五年前。あのアパートの駐車場から、母親に手を引かれて車に乗り込んだあの日。
「みーくん、ずっと窓から私を見てたでしょ。車が見えなくなるまで、ずっと。……今にも泣きそうな顔をして、誰にも気づかれないように拳を握りしめて」
「——黙れ!」
湊の叫びが、夕暮れの街に鋭く響いた。
下校途中の生徒たちが一斉に足を止め、不審なものを見る目で二人を振り返る。
湊は、激しく波打つ鼓動を抑えつけるように胸を掴んだ。あの日、窓越しに遠ざかっていく車を見送った記憶。それは湊が「自分は誰にも依存しない」と決意するために、心の最深部へ沈めて厳重に封印したはずの、最も柔らかい部分だった。
「二度と、あの時の話をするな。今の俺たちには関係のないことだ。戸籍上も、事実上も、俺たちはもう他人なんだ」
「他人じゃないよ! 私はあの時から一秒だって、みーくんのことを他人だなんて思ったことない!」
凪が一歩、湊に歩み寄る。
その距離から放たれる圧倒的な熱量に、湊は思わず後退りした。
彼女の大きな瞳に、夕闇が反射して揺れている。
「凪? 何してんの、こんなところで」
不意に横から投げかけられた声に、二人の間に張り詰めていた糸が、プツリと切れた。
振り返ると、そこには凪の親友、宮前千尋が立っていた。
千尋は、湊と凪の間に流れる異常な——単なるクラスメイト同士の喧嘩とは一線を画す、濃密で重苦しい空気を感じ取ったのか、不審そうに目を細めている。
「あ、千尋……」
凪は瞬時に、学校用の「明るい凪」へとスイッチを切り替えた。顔から感情を消し、代わりに貼り付けたような笑顔を浮かべる。
「ううん、なんでもないの! ちょっと、前の席の浅井くんに、今日のプリントのこと聞こうと思って」
「……浅井くん?」
千尋は値踏みするような視線を湊に向けた。
「凪がわざわざ追いかけてまで聞くようなこと? 陸上の推薦で来たあんたが、そんなに勉強熱心だったっけ?」
「あはは、やだな。私だって、高校からは真面目にやろうかなって思ってるんだよ」
凪は冗談めかして千尋の腕に絡みついたが、その指先が僅かに震えているのを、湊は見逃さなかった。
「……用が済んだなら、俺は行く」
湊は吐き捨てるように言い残し、二人を置き去りにして駅の方へと足を進めた。
背後で千尋が凪に「何あいつ、超感じ悪いんだけど。あんた、あんな奴に関わらないほうがいいよ」と毒づく声が聞こえてくる。
(そうだ。関わらないほうがいい。お互いのために)
湊は駅のホームに滑り込んできた電車に飛び乗り、ドアに背を預けて深く目を閉じた。
胸の奥が、焼けるように熱い。
「他人」という防壁を、言葉の刃で抉り取ろうとしてくる少女。
電車が揺れるたび、ポケットの中でアパートの鍵が虚しく音を立てる。
自分が手に入れたはずの「自由」が、まるで砂で作った城のように、四月の風に吹かれて脆く崩れ始めていた。
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