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背中に刺さる視線

「1年A組……」


昇降口の喧騒の中、張り出されたクラス名簿を指でなぞり、湊は本日二度目の、そして決定的な絶望を味わうことになった。


「浅井 湊」

「市川 凪」


名簿の最上段に並ぶ、二つの名前。

出席番号は一番と二番。

この学校の座席配置が名簿順であるならば、逃げ場はない。


湊は重い足取りで、教室内へと足を踏み入れた。

案の定、教壇に向かって一番左側の列、その最前列と二番目に、それぞれの名前が書かれた紙が貼られている。

湊の席は、教室の一番左の一番前の席。そしてその真後ろが、彼女の席だった。


(最悪だ……)


一番前なら、後ろを振り返らなければ彼女の顔を見ずに済む。だが、それは同時に「自分の背中を常に彼女に晒し続ける」ことを意味していた。

湊が席に着き、誰とも目を合わせないように席に座っていると、背後から軽やかな足音が近づいてきた。


「——私の席、ここだ」


心臓の鼓動が、一際大きく跳ねる。

顔を上げずともわかる。漂ってきたのは、春の風よりも甘く、記憶の底を強く刺激する、あの頃と同じ石鹸のような、どこか懐かしい香り。


「…………」

「ねえ、みーくん。……無視、するんだ」


背後から、低く、しかし確かな拒絶を咎めるような声が降ってくる。

「湊」でも「お兄ちゃん」でもない、あの狭いアパートで、二人で留守番をしていた頃の呼び方。


湊はペンを握る手に力を込め、前を向いたまま静かに告げた。

「……市川さん。人違いだと言ったはずだ。それに、その呼び方はやめてくれ」


「人違いなわけないよ。その、ちょっと困った時に眉間にシワを寄せる癖。……全然、変わってないもん」


凪は、湊の反応をあざ笑うわけでもなく、ただ懐かしむように小さく笑った。

椅子を引く音。彼女がすぐ後ろに腰を下ろしたのが、空気の震えで伝わってくる。

直後、クラス中の視線が、一斉にこの場所に集まるのを感じた。


入学早々、噂の美少女が自分から話しかけに行った相手が、よりによって「浅井湊」という、いかにも愛想のなさそうな男子だったこと。

周囲の男子からは嫉妬と困惑の混ざった視線が、女子からは「あいつ何者?」という好奇の目が、湊の背中に突き刺さる。


「俺は目立ちたくないし、君は俺なんか一緒にいて楽しくないだろうからできるだけ学校では関わらないでくれ」


「ちょっと、なんで・・・」


ここまで言われると思っていなかった凪はかなりショックを受けた。


「凪ー! こっちこっち!」


教室の入り口付近で、凪を呼ぶ声が上がった。

声の主は、いかにも気が強そうな、しかし垢抜けた印象の少女——宮前千尋だった。

凪は即座に笑顔を<<作り>>立ち上がり、「あ、千尋! おはよー!」と、いつもの「明るい優等生」の仮面を被り直した。


「今行くよー! ちょっと、前の席の人が知り合いに似てたから確認してただけ!」


凪はそう言い残して、千尋のもとへ駆け寄っていく。

その淀みのない、呼吸をするように自分を偽る立ち振る舞い。

だが、湊は耳を澄ましていた。

彼女が席を立つ瞬間、ほんの一瞬だけ、零れるように漏れた小さなため息を。


(……変わってない。昔から、あいつはそうだ)


凪は、自分を偽ることに長けていた。

寂しければ寂しいほど、不安であれば不安なほど、彼女は過剰に明るく振る舞うのだ。

あの離婚の時も《《前日までは》》、「大丈夫だよ、みーくんも元気でね」と、無理をして笑っていた。


「おい、湊。お前、市川さんと知り合いなのかよ!」


教卓の隙間を縫うようにして、親友の北島涼がやってきた。

涼は湊の肩を掴み、興奮気味に耳打ちする。

「あんな超絶美少女が知り合いとか、お前、人生の勝ち組かよ! 教えてくれよ、どういう関係なんだ?」


「……ただの、昔の近所の知り合いだ。それ以上でも以下でもない」

「嘘つけ! あの市川さんが、あんなに切なそうな顔で話しかけてたんだぜ? 昔の近所レベルの顔じゃねえよ」


涼の直感は、時として鋭すぎる。

湊は「しつこいぞ」と涼を追い払ったが、一度乱された心の波紋は、簡単には収まらなかった。




昼休み。

湊は喧騒を避けるため、屋上へ続く階段の踊り場で一人、買ってきたパンを齧っていた。

ようやく訪れた、一人の時間。

だが、その静寂は、扉が開く乾いた音によって呆気なく破られた。


「……やっぱり、ここにいた」


凪だった。今度は一人だ。

彼女は湊の隣にストンと腰を下ろすと、長い脚を投げ出して、少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「……何の用だ。学校では関わらないようにと言っただろ」

「言われたけど、納得したつもりはないもん。……ねえ、みーくん。私ね、お母さんに言ったの。高校に入ったら、一人暮らししてる湊さんと一緒に暮らしたいって」


湊は、口に含んだパンを飲み込むことも忘れ、彼女を凝視した。

「……正気か? 離婚した夫婦の連れ子同士だぞ。今の俺たちは、書類上も、血縁上も、完全に他人だ。一緒に住む理由なんて、どこにもない」


「理由なら、これから作ればいいでしょ? 私、みーくんに勉強を教わりたいの。みーくんが学年トップで合格したって知ったら、お母さんだって……」


「断る」

湊は、凪の言葉を遮るように冷たく言い放った。

「俺は、一人になりたくてこの学校を選んだんだ。誰にも邪魔されず、誰の面倒も見ず、静かに生きたい。お前と一緒にいれば、その全てが壊れる」


「……壊れるくらい、いいじゃん。私、みーくんとまた一緒にご飯食べたいんだよ。あの頃みたいに、二人で笑いたいんだよ」


凪の瞳が、微かに潤んでいるように見えた。

しかし、湊はあえて視線を逸らす。

人を信じることをやめた彼は、その涙さえも、自分を揺さぶるための「武器」ではないかと疑ってしまうのだ。


「お前のわがままに付き合うつもりはない。二度と、そんな話はするな」


湊は食べかけのパンを袋に戻すと、立ち上がってその場を去った。

背後で凪が何かを言いかけたが、それを聞く余裕はなかった。


階段を降りる湊の足取りは、いつになく重い。

ポケットの中で、一人暮らしのアパートの鍵が、冷たく指先に触れた。

本来なら、その鍵は「自由」の象徴のはずだった。

だが今、湊の心には、逃れられない運命に足を絡め取られたような、重苦しい沈滞感だけが広がっていた。




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