再会は砂塵の中に
新しい制服の生地は、驚くほど硬かった。
袖を通すたびに、自分の体と世界との間に薄い膜が張られたような、奇妙な疎外感を覚える。浅井湊は、校門へ続く緩やかな坂道を、一人静かに歩いていた。
四月の風は意地が悪く、せっかく整えた髪を容赦なくかき乱していく。桜の花びらが舞い散る美しい光景のはずだが、湊の目には、それはただの「掃除の面倒なゴミ」が飛び散っているようにしか映らなかった。
これから始まる高校生活。湊にとって、それは「平穏」を維持するための戦いの場だった。
「一人暮らし……か」
ポツリと呟いた言葉が、乾燥した風に溶けて消える。
父親の二度目の離婚。それが湊に与えたのは、傷跡というよりは、冷え切った悟りだった。
どれだけ同じ屋根の下で笑い合い、家族の形を丁寧に繕っても、接着剤が乾けば驚くほど呆気なく剥がれ落ちる。昨日まで「父さん」や「お母さん」と呼び合っていた人間が、書類一枚で赤の他人になる。
そんな虚構を二度も繰り返せば、誰だって「絆」なんて言葉を信じなくなるだろう。
湊は、進学校として知られるこの高校を選んだ。理由は単純だ。実家から離れており、一人暮らしをする正当な理由になること。そして、中学時代の知り合いがほとんどいないこと。
人を信じなければ、裏切られることもない。
関わりを最低限にすれば、心が波立つこともない。
そうして手に入れた、念願の「独り」という牙城。それを守り抜くことだけが、今の湊の生存戦略だった。
「——っ!」
ふと、前方から耳障りなほど高い笑い声が聞こえてきた。
数人の男女が、新入生とは思えないほど慣れ親しんだ様子で歩いている。その中心に、一際目を引く少女がいた。
春の陽光をその身に集めたような、鮮やかな笑顔。艶やかな黒髪を揺らし、周囲の顔色を完璧に読み取りながら、最適解のリアクションを返している。
市川凪。
その姿を視界に入れた瞬間、湊の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
(まさか……な。そんな偶然、あるはずがない)
五年前、家を去っていった「妹」。
最後に見た彼女は、玄関先で泣きじゃくりながら、湊のシャツの裾を掴んで離さなかった幼い少女だ。
だが、目の前にいる少女は、当時の面影を色濃く残しながらも、残酷なほどに美しく、そして「完璧な他人」としてそこに立っていた。
湊は反射的に視線を逸らし、俯き加減で歩を速める。
関わってはいけない。もし彼女が本人だとしても、今の自分たちは他人だ。戸籍の上でも、記憶の隅でも、すでに終わった関係なのだから。
彼女が自分に気づく前に、この人混みに紛れて消えてしまおう。そう思った矢先だった。
「あー!湊、おっそーい!」
背後から肩を強く叩かれ、湊は僅かに眉を寄せた。
振り返るまでもない。この無遠慮な明るさと、他人の境界線に泥足で踏み込んでくる遠慮のなさは、中学からの唯一の「誤算」である腐れ縁、北島涼だ。
「……涼。あまり大声を出すな。耳に響く」
「固いこと言うなって! 入学式だぜ? 人生一度きりの高校デビューだろ。ほら、見ろよ。今年の女子、レベル高くないか? 特にあの、真ん中にいる子。入学式前からSNSで噂になってた市川さんだぜ」
涼は湊の迷惑そうな顔など一切気にせず、楽しそうに指をさす。
「中学の時、陸上の県大会で無双してたらしいんだよな。性格も明るくて、すでにファンクラブみたいなのができてるって話だぜ。なあ湊、あんな子がクラスにいたら最高だよな?」
涼の言葉は、湊の耳を素通りしていく。
それよりも、最悪なことが起きた。
涼の大きな声に反応したのか、あるいは視線を感じたのか。
集団の中心にいた少女——凪が、ふと足を止めたのだ。
彼女は取り巻きの友人たちに何かを告げると、ゆっくりと、しかし確信に満ちた足取りで、こちらへ振り返る。
四月の風が、凪の髪をさらりと撫で上げた。
彼女の大きな瞳が、まっすぐに湊を捉える。
一瞬の沈黙。
周囲の喧騒が遠のき、風の音だけが耳元で鳴っている。
それは湊にとって、永遠にも感じられるほど長い数秒だった。
「…………みーくん?」
震える声だった。
学校での彼女が見せている、あのハキハキとした陽気な声とは違う。
「湊」でも「お兄ちゃん」でもない、あの狭いアパートで、二人で留守番をしていた頃の呼び方。
その響きに、湊がこの数年かけて築き上げてきた心の防壁が、目に見えないほど小さな音を立てて、確実に軋んだ。
湊は無意識に、拳を握りしめた。
「……人違いだ」
自分の声が、自分でも驚くほど冷たく響いた。
その言葉を残し、湊は凪の表情を確認することなく、逃げるように校舎へと足を進めた。
背後で涼が「え、知り合い? なあ湊、今のリアクションなに!? 知り合いなのかよ!」と騒ぎ立てるのが聞こえる。
だが、湊は一度も振り返らなかった。
(終わったはずなんだ)
(もう、俺たちは家族じゃない)
そう自分に言い聞かせる湊の視界の端で、舞い落ちた桜の花びらが、泥にまみれて踏み潰されていた。
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