母からの電話
穏やかな夕食の時間が終わり、二人で片付けをしていた時だった。キッチンのシンクで水の流れる音が響く中、凪のスマートフォンがカウンターの上で小さく震え、画面に「お母さん」の文字が光った。
その着信を視界の端に捉えた瞬間、凪の動きが止まった。リビングの灯りの下で、彼女の表情はいつもの柔らかさを失い、どこか緊張した面持ちに変わる。湊は食器を洗う手を止め、そっと彼女の様子を伺った。
凪は意を決したように画面をスワイプし、電話に出た。
「……もしもし、お母さん?」
「ええ、久しぶりね。……うん、元気よ。……今度の土曜日? そうね、特に予定はないけれど」
凪の声は努めて平坦に保たれていたが、受話器を握る指先には力がこもっていた。湊はあえて会話の内容を深追いせず、水気を切った食器を丁寧に拭き上げていく。凪の母親との関係は、湊にとっても決して「過去」と言い切れるものではなかったからだ。
数分後、凪は静かに電話を切った。スマートフォンをカウンターに置いたまま、彼女は窓の外の暗闇をぼんやりと見つめている。湊がそっと隣に寄り添うと、凪は小さく、深く息を吐き出した。
「……お母さんがね、今度、私の顔を見に実家に寄らないかって。……急に、思い立ったみたいで」
湊はタオルの手を休め、彼女の顔を覗き込んだ。
「 ……そうか」
凪は静かに頷いたが、その瞳にはどこか複雑な影が差している。彼女にとって母親を慕う気持ちは本物だが、そこには湊との関係において、避けて通れない「親同士の過去」が重くのしかかっていた。
「湊……お母さん、昔、湊のこと……」
凪の声が震える。湊は静かに頷いた。彼にとって凪の母親は、かつての父の再婚相手であり、そして離婚が成立するずっと前、二つの家庭が緩やかに、しかし確実に冷え切っていく過程で、最も遠い存在になっていった人だったからだ。
「ああ。俺がまだ小さかった頃、凪のお母さんが父さんと……そして俺たち家族と距離を置き始めたこと、覚えている。離婚する前、もう二人の関係が冷え切っていた時は、俺との関わりも極端に避けるようになっていたな」
凪の母親が湊を避けていたのは、憎んでいたからではない。かつての夫の面影が、終わったはずの幸福な記憶を、癒えない傷口を無理やりこじ開けるようだったからだ。
「そうだね。……離婚する前、お母さんは、湊の父さんと顔を合わせるのを極端に避けていたわ。そして、お父さん以上に、湊の存在を直視するのを避けていた……」
凪の声は静かだが、その重みは湊の胸にずしりと響いた。子供心に、凪の母親が自分からスッと視線を逸らした瞬間を覚えている。それは憎悪でも嫌悪でもなく、まるで薄いガラス越しに何かを見るような、距離感と、そして底知れない悲しみの色を帯びていた。
「だから、認めてくれたとはいえ、大人になった私たちが今、こうして一緒に住んでいることをお母さんがどう思うか……本当に予想がつかないの」
リビングには、どこか落ち着かない空気が流れていた。凪はカウンターの端に座り、自分の爪先をじっと見つめている。湊は、先ほどまで凪が握りしめていたスマートフォンの残像を思い返していた。
「……お母さん、恋愛そのものにいい印象を持っていないの」
凪がぽつりとこぼした言葉は、夜の静寂に吸い込まれていく。
「父さんと別れたあと、私を育てるために必死だったし、それ以外の関係を持つ余裕なんてなかったはずだわ。だから、誰かと深く愛し合うっていうことを、どこか『人生を不安定にするリスク』みたいに思っているところがあって」
湊は、凪がなぜこれほどまでに言葉を選ぶのかを理解していた。母親にとって、過去に湊の父親と結ばれたことは、今となっては苦い記憶であり、その「恋愛の成れの果て」である湊が、今度は自分の娘の隣にいる。
「……俺たちの関係が、お母さんにとっては『過去の再演』に見えるんじゃないかって、思ってるんだな」
「たぶん。しかも、離婚相手の息子に、たった一人の娘を預けている――。お母さんがこの事実をどう受け取っているか。成績が上がったから、自立しているから、という『条件』で納得してくれていたけど付き合ってると知ったら、過去の幻影を重ねているんじゃないかって」
湊は黙って、凪の横顔を見つめた。
かつて親たちが夫婦だった頃、二人の家庭は一つになろうとして、結局は崩れ去った。凪の母親は決して悪い人ではない。話のできる人だろう。だが、母親にとって、湊は「娘を自分から引き離す存在」だ。いい思いはしないだろう。凪が母親を慕っているからこそ、その母親に嘘をつくことはしたくないし、話をして辛い顔をさせたくはないのだ。
でも、凪を一生幸せにすると誓った以上、いつかは必ず告げなければならない。
「凪、正直に言おう。……お母さんにとって、俺は『過去の傷』そのものだよ。俺という存在が父さんの面影と重なって見えるはずだ」
湊の言葉は、冷たい氷水を静かに水面に落としたかのように、凪の心に波紋を広げた。
「……湊」
「お母さんが、今でもその傷を抱えているかどうかは分からない。でも、あの頃、俺たち家族が離れていく過程で、お母さんが一番何を恐れていたか……俺にはなんとなく分かる気がするんだ」
湊は凪の隣に座り、自分の手を彼女の膝の上に重ねた。
「俺たちはさ、凪の成績が上がったから一緒に住んでいい、っていう『約束』を盾にしてここまで来た。それは、お母さんにとっても、凪を安心して手放すための『防波堤』だったんだと思う。自立した娘と、堅実な友人。お袋さんは、その安定した図式の中に、俺という存在を『安全なもの』として位置付けていたかったのかもしれない」
凪は湊の手を握りしめ、爪が食い込むほど力を入れた。
「そうね……。お母さんは、私を傷つけないために、あえて湊のことを『ただの凪の同居人』として見ようとしていたのかもしれない。……だけど、もし今日、湊がただの友人じゃなくて、私と人生を共に歩もうとしているパートナーだって知ったら。お母さんの中で、その『安全な防波堤』が一気に崩れ去るのが怖いの。あんなに必死に壊れた家庭の破片から私を守ってきたお母さんが、今度はその守ってきた場所で、私と湊が幸せそうにしているのを見たら……お母さんは、何を思うんだろう」
凪の脳裏には、シングルマザーとして、誰よりも慎重に、誰よりも質素に、そして誰よりも娘の将来だけを見つめて生きてきた母親の背中が浮かんでいる。母親にとって恋愛は、自分を壊した劇薬だった。それを、よりによって娘が、自分を壊した男の息子と摂取している。
「……ねえ、湊。お母さんに、全部話さなきゃいけないの?」
凪の問いかけは、悲痛なほどに小さかった。
「いつかは言わなければいけない」
湊は、その先の言葉を遮るように、凪の肩を強く抱き寄せた。
「諦めるのか? それとも、俺たちの関係をなかったことにするのか?」
「違う! そんなこと望んでいない。でも……湊のことを愛している、なんて言ったら、お母さんは私たちの関係を否定するんじゃないかと思ってしまうの」
「もし言われたら、俺たちが反論すればいい。俺たちは親たちのコピーじゃない。親が失敗したからといって、俺たちが失敗する理由にはならないんだって」
湊の真っ直ぐな言葉に、凪は少しだけ顔を上げた。しかし、その瞳にはなおも迷いが渦巻いている。
「……湊は強いわね。でも、離婚が決まった日、お母さんがどんなに静かに、淡々と荷物をまとめていたか……あの時のお母さんの目は、怒りも憎しみもなくて、ただ世界から色を奪われたみたいだった。私は、怖い。私にとってはみーくんもお母さんも大事なのに……」
湊は、凪の母親がかつて見せていたその「色を失った瞳」を思い出した。
幼い湊は、それを何だか分からずに通り過ぎたけれど、今なら分かる。あれは、愛し合うことを諦めた人間が見せる、魂の退場だったのだ。
「……じゃあ、当日は凪から話すのはやめよう」
湊が提案すると、凪は驚いて彼を見つめた。
「え……」
「俺から切り出すよ。俺が、凪を想っていること、この関係を中途半端にしたくないこと。それを、凪のお母さんに直接伝える。凪に言わせるから、凪が板挟みになるんだ」
「でも、お母さんは湊のことを……」
「避けるかもしれない。激しい言葉を浴びせるかもしれない。でも、凪が自分の口から『私、この人と生きていきたいの』って言うよりも、俺が直接今の凪への想いを語る方が、お袋さんにとっても対峙しやすいはずだ」
湊の提案は、彼自身にとってもリスクを伴うものだった。母親が彼をどう扱うかは分からない。しかし、凪が母親と湊の板挟みでこれ以上心をすり減らすのを見るくらいなら、すべて自分が被った方がマシだ。
「……湊、ごめん。私が弱いから」
「俺たち、一生一緒にいるんだろ。なら凪が一人で背負う必要なんてない」
凪は黙り込み、湊の胸に額を押し当てた。
この家の中で、自分たち二人だけで築いてきた日常。その大切さを確認し合うように、二人は抱き合った。
「……ねえ、湊。紅茶のこと、お母さんに言ったら驚くかしら」
「お袋さんの好きだった紅茶を、今は二人で飲んでいるって話すのか?」
「そう。……それなら、お母さんも少しは、私たちの今の暮らしが穏やかなものだって気づいてくれるかもしれないわ」
凪の微かな笑みは、まだ震えていたが、それは少しずつ「過去」を乗り越えようとする、彼女なりの覚悟の芽生えでもあった。二人は窓の外の闇を見つめながら、土曜日の午後のシミュレーションを頭の中で繰り返す。それがどんなに苦い結末を招こうとも、この場所で、二人で、手を取り合って生きていくことだけは、何があっても変えないという決意を胸に。
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