元義母
長めです
土曜日の午後
「湊」
玄関の前で、凪が立ち止まる。彼女の顔色は少し青ざめていた。
「もし、お母さんが怒り出したら……その時は、本当にすぐに逃げようね。私、湊が傷つくのを見るくらいなら、お母さんとは……」
「そんなこと言わせない」
湊は彼女の肩に手を置き、強く、しかし優しく引き寄せた。
「これは、俺たちが選んだ道だ。誰に反対されようと、凪を一生守る。だけど凪のお母さんも凪にとっては大切な人だろ」
凪は小さく頷き、震える指先でインターホンを押した。
「まずは私に話させて」
「いいのか?」
「私の口からお母さんに伝えたい」
扉を開けた凪の母親は、昔と変わらない凛とした佇まいで二人を迎えた。しかし、その瞳には明確な警戒心が宿っている。リビングに通され、テーブルを挟んで向かい合った時、その緊張感は極限に達していた。
「……今日は、改まってどういうことなの。凪を呼んだつもりなのだけれど、二人で来るなんて」
母親は、テーブルの上に置かれた手土産の箱を一瞥もしないまま、まっすぐに湊を見つめた。その眼差しは、かつての夫を鋭く分析していた頃と同じ、冷徹なまでの観察眼だった。
凪が大きく深呼吸をし、意を決したように切り出した。
「お母さん。……報告したいことがあるの。私と湊は……今、恋人として付き合っているわ」
一瞬、部屋から空気が消えた。母親の肩が微かに震え、カップを持っていた手が止まった。彼女はゆっくりと視線を湊に移した。そこには、ただの「凪の友人」を見る目ではなく、忌々しい過去の記憶そのものを検分するような、敵意に近い鋭さがあった。
「……付き合っている、ですって?」
母親の声は低く、押し殺したような響きを帯びていた。
「冗談はやめて。あなたがた二人が、どのような家庭環境で育ったか、誰よりも理解しているはずよ。なぜ、よりによってこの二人なの。よりによって、あなたなの、湊くん」
「お母さん、聞いて。湊は――」
「黙りなさい」
凪の言葉を遮り、母親は激しくテーブルを叩いた。音が響き渡り、凪がびくりと肩を震わせる。
「……わかっているの? あなたたちが結ばれるということは、あの終わりの見えない泥沼を、もう一度人生の舞台に引きずり出すということよ。あの時、どれだけ多くのものを失ったか、あなたたちは子供だったから知らないでしょうけれど、私は知っている。あの歪んだ関係の果てに何が待っていたのかを」
母親の呼吸が荒くなっている。彼女は湊を指差し、怒りを露わにした。
「湊くん、あなたもよ。自分の父親が何をしたか、知らないはずがないでしょう。自分の親が家庭を壊し、どれだけ周囲を不幸にしたか。その責任を感じていないの? その罪を背負ったまま、娘の将来に関わろうだなんて、身の程知らずもいいところよ!」
「お母さん、湊は悪くない! それにお父さんとお母さんのことは……」
「凪!」
母親の怒声が凪の言葉を切り裂いた。
「あなたまで惑わされているのね。いい? 恋愛なんてものは、結局は情熱という名の目隠しなの。今は二人で夢を見ているかもしれないけれど、現実はもっと残酷よ。離婚という泥沼を知る者が、なぜわざわざ再びその道に踏み込もうとするのか、私には理解できない。あなたたちが見ているのは、ただの幻想よ!」
母親は立ち上がり、湊を見下ろした。
「出ていって。……凪、あなたもよ。目を覚ますまで、ここには顔を見せないで。そんな未熟な感情に溺れて破滅するなんて、母親として絶対に認めないわ」
湊は拳を強く握りしめた。彼女の言葉は、かつて両親の不和の渦中にいた彼にとって、最も鋭利な刃物となって突き刺さる。だが、ここでひるむことは、すべての終わりを意味していた。
「……認められない、というお気持ちは分かりました」
湊の声は驚くほど冷静だった。
「ですが、凪のお母さん。俺たちが選んだのは、親たちがたどった道と同じではありません。両親が失敗したのは、互いを理解しようとする前に、結婚したからです。俺たちは、凪という一人の人間を尊重し、対等に支え合っていくために、今この関係を築いています」
「綺麗事だけなら誰でも言えるわ」
「綺麗事ではありません。……俺たちは、今日、あえてこの場所に来たんです。それは、凪をあなたから奪うためではありません。あなたたちの過去とは別の未来が、今の俺たちにはあるということを、見てほしかったからです」
湊は一歩も引かず、母親の視線を正面から受け止めた。
「凪は、あなたを守ろうとして必死に頑張ってきました。成績を上げれば、自立すれば、あなたを悲しませないで済むと信じて。でも、俺たちが求めているのは、そんな『条件付きの安心』ではありません。俺たちが欲しいのは、何も隠さず、親同士の過去に縛られず、二人で支え合える関係です」
母親の表情が、驚愕と混乱で歪んだ。彼女にとっての「娘を守る盾」が、娘自身の手によって、しかもかつて自分が排除した相手の手によって壊されようとしているのだ。
「……あなたに何が分かるというの。あの地獄のような日々を、私は一人で耐えてきたのよ。凪を傷つけまいと、どれだけのものを捨ててきたと思っているの!」
「分かっています」
湊は低く、しかし力強い声で言った。
「だからこそ、凪には同じ思いをさせたくない。俺は凪を、あなたの傷の代償にはしません。俺は凪の隣で、凪自身の幸せを共に作るパートナーでありたいんです」
「……厚かましい」
「たとえ厚かましくても、これが俺の、凪に対する誠意です」
母親はふらりとその場に座り込んだ。怒りは、やがて言いようのない疲労と諦めへと変わっていく。彼女の瞳からはかつての世界の色が消え、ただの疲れた一人の母親の顔に戻っていた。
「……あなたたちは、まだ何も分かっていない。愛なんて、人生を壊すための爆弾よ。それなのに……なぜ、わざわざそんなものに手を出して」
「爆弾なら、二人で処理してみせます」
湊の突拍子もない言葉に、凪がわずかに肩を震わせ、そして小さく笑った。その笑い声を聞いた母親が、呆然と二人を交互に見つめる。
「……あなた、本当に、かつての人によく似ているのね。そんな風に、無謀なことを平気な顔で言って……」
母親の声には、抑えようのない震えと、言葉にできないほどの未練、そして憎悪が混ざり合っていた。
「……俺は父さんとは違う。そして凪も、お母さんとは違う」
湊の声は驚くほど静かだった。
「俺たちが今日ここに来たのは、親たちの過去をなぞるためじゃありません。俺は父さんのように家族から逃げたりしないし、凪もお母さんのように、自分を殺してまで誰かに合わせたりしません。俺たちは二人で、親たちとは全く別の、新しい未来を作るためにここにいるんです」
湊はテーブルの上で、凪の手をさらに強く握りしめた。だが、その直後、湊の口から驚くべき言葉が紡がれた。
「凪のお母さん。……凪を悲しませるつもりはありません。俺にとって凪は何よりも大切な人です。俺の父親が理由の一つなら俺は、父さんとも縁を切ろうと思っています」
その言葉は、母親にとっても青天の霹靂だった。湊がたった一人の肉親である父親との縁までをも捨てようとしている。
凪は湊の横顔を見つめ、静かに、しかし力強く宣言した。
「湊は……私との未来のために、本当にそこまでの覚悟をしてくれているのね」
凪は母親の瞳をまっすぐに見据えた。
「お母さん、聞いたでしょう。湊は私のために、親という繋がりさえも断つと言ってくれたわ。なら、私も同じよ。……お母さんのことは愛している。でも、私の人生を否定するなら、私も湊と同じように……」
「凪!」
湊はナギが言おうとしていたことを止めた。
「それはだめだ。凪が母親のことが大切なのは知ってる。だからそんなこと言っちゃダメだ」
「なんでよ! 湊だって……湊だって、そう言ったじゃない!」
凪の声が、震えながらも鋭くリビングに響いた。彼女の瞳には、湊への裏切りではなく、彼を守るための必死さが宿っていた。湊は、凪の肩を強く、しかし優しく掴み、彼女を自分の方へ向けさせた。
「俺は、俺自身の人生の責任として言ったんだ。自分の親との関係をどうするかは、俺が自分で決めたことだ。……でも凪、お前はお母さんのことをずっと大切にしてきた。これまでお母さんを支え、お母さんのために頑張ってきたお前が、そんなふうに自分を傷つけるような言葉を吐いちゃダメだ」
湊は凪の真っ直ぐすぎる瞳を覗き込む。
「親と縁を切ることは、俺にとっては『過去からの解放』だ。でも、凪にとってのお母さんとの縁切りは、『自分自身の一部を切り捨てること』になる。そんなの、俺が一番耐えられない」
「でも……! お母さんが湊を否定し続けるなら、どうすればいいっていうのよ!」
凪の言葉に、湊は静かに視線を母親の方へ向けた。母親は二人のやり取りを、ただ呆然と、しかしどこか見守るような複雑な表情で眺めていた。
湊は凪の手を握り直し、もう一度だけ、まっすぐに母親に向き合った。
「お義母さん。……さっきの凪の言葉は、凪の本心じゃない。俺は、凪とお母さんの絆を壊すつもりなんて微塵もない。……ただ、これだけは分かってください。俺たちは、あなたたち親が壊してしまった轍を、二度と踏まない。お母さんが凪を大切に思うように、俺も凪を大切にします」
凪は湊の横顔を見つめ、ハッとしたように息を飲んだ。彼女の中で、張り詰めていた「説得しなければならない」という糸が、湊の言葉によってゆっくりとほどけていく。
「……お母さん。ごめんなさい。湊が言う通りよ。……私はお母さんのこと、愛しているわ。でも湊のことも愛している。一生隣にいたい。だからこそ、こんな風に言い争うのはもう嫌なの」
母親は、二人の間に流れる、自分たちには決して存在しなかった「相手を想い合う強さ」を前に、ついに力なく座り込んだ。
「……あなたたちは、本当にどうしようもないわね」
母親はため息をついたが、その表情には先ほどまでの鋭い敵意はもうなかった。
「親子の縁なんて、そう簡単に切れるものじゃないってことは、あなたたちより長く生きている私が一番よく知っているわ。……でも、今日という日は、忘れないから。あなたたちが、自分の人生をどれほど重く考えているのか……分かったわ。これ以上、無用なことは言わない」
母親は立ち上がり、静かにカップを下げに行った。その背中は、かつてのような「娘を守るための頑なな鎧」ではなく、少しだけ肩の荷が下りたような、柔らかな影を落としていた。
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